「好奇心」を哲学するのに私に必要だったのは、大工と海外文学だった。
私が興味を惹かれるものに、その人を知りたいという「好奇心」があるのかもしれない。
私は、読書が好きだ。そこにそれ以上もそれ以下もない。もちろん知識は多くて、思慮は深い方が物事を造詣深く捉える事が出来ると思う。
私の「好奇心」は、そういうものより、現実を生きていて、このSNSに対して望む事が、それを描いてる人に興味が向く方が強い。ここ数ヵ月はその傾向がさらに強い。
これは、自分自身の今年やるべき事と精神状態のバランスが密接に繋がっているように思う。それはある種の継続へのマンネリとそれを認めたくない自分。他に捉われ始めている「好奇心」のせいかも知れない。
その最中、大工は筋肉を通じて私の前に現れた。
元々は、Instagramにおける筋肉書簡の相手なのだ。私の記事にたびたび登場する大工。
そう。彼は実在するのだ。
私は彼の知識の中に見え隠れする、どこか憎めない可愛らしさと、その本に向かう誠実さに日に日に心が湧いた。
彼から私は今年何冊の本を知り得たか分からない。一回り以上年下の彼の知識は、私のそれと全く比較にはならない。海外文学にも触れる機会を与えてくれた。彼の文章に存在する哲学を目にするのは、年齢関係なく好きになるのに充分な理由になる。学ばしてもらえるのだ。
彼は私にこう言った。
そして、私はバタイユの「青空」を手に取った。
彼は、サルトルを尊敬している。だがしかし、そこと反対であろうバタイユを私に薦めた。
この事は、私にとってとても嬉しく思う出来事だ。彼が私にとって、読むべきはバタイユだと言ったからだ。私はこういう時に人を好きになる。
私は、なるべく人に言われる事は、その人の意図とは違うとしても、受け取り方は前向きでいたい。受け取り方は自分で選択出来るからだ。
私は、バタイユもサルトルも知らなかった。歴史的背景も知らない。だけど読んだ。
その日、ひどく疲弊していた頭の中には、おそらく海外文学への挑戦は、響かないだろうと思っていた。そもそもバタイユが何者でどんな思想や、哲学を持っているのかというのも理解出来ていない。そして、思想を帯びた文章というものは、読みながら理解していくのはとても難しい。
1935年に描かれたこの小説は、歴史的背景による混沌と退廃が交互に襲ってくる目が離せないものだった。
約一世紀も前の、知らない国の話が物凄く刺さってくる。その時代にあったであろう青春をどんどん溢れさせて来るような描写だった。
久しぶりに味わう、人の欲望と葛藤と退廃的な精神。何かを思うにも思うことも出来ない現実。自由を欲するにも、起きている現実がそうはさせてくれない。久しぶりの興奮だった。
私は完全に楽しんだ。そして彼は次の指示をした。
彼は僕にサルトルも薦めた。彼はクライマックスにおける2人の描写に共通するものを感じるから感想を聞きたいと。
それは、サルトルの著書「水いらず」の中に入っている「壁」だと。
そこに出てくる黒いイロニーが共通してるのではないかと。
イロニー(皮肉、風刺)
「解消しがたい矛盾の感情」
「壁」を読み終わった後の私にどういう作用をするのか、楽しみで仕方がなかった。黒いイロニーは、私に何をもたらすのか。
が、そこはまだ読んでいない。
なんのはなしですか
読書家にたびたび訪れる読む本が多すぎる現象だ。いつか辿り着きたい。
そしてそれこそが、私が自分に対して胸に強烈な
「黒いイロニー」を覚えたことだった。
なんてな。
課題を解決するには、理解しなければならない事が多すぎる。だけど一歩づつしっかりと進めていきたい。
そこは、時を経て私と、サルトルと、バタイユが共存した瞬間だ。そして大工も。それが読書の面白いところだと私は感じる。
肉体はなくとも残してくれた思想や精神に触れ考えを巡らす事は、時を越えて先人達と同じ時間に存在しているという事だ。
そして、彼は最後私にこう言った。
「何も考えず楽しんでください」とね。
それは、私の「好奇心」に通ずるものだ。
ありがとう。実に楽しい冒険だった。
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悪くないね。
我が読書の旅は続く。
私と大工の他の冒険はこちら。
自分に何が書けるか、何を求めているか、探している途中ですが、サポートいただいたお気持ちは、忘れずに活かしたいと思っています。