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翻訳者須賀敦子が書いた本人の言葉は、僕に旅をさせた。

📚
#ヴェネツィアの宿
#こうちゃん

須賀敦子を手に取った。
この後、彼女が翻訳したアントニオ・タブッキを読むためにだ。

私を読書家と呼びます。


私の印象は、彼女が書く文章は、読み手に本当の意味での心情は明かさない。無駄は省く。それは、読み手自身で思考し、整理し、考えなさいと言われている気がした。

それは翻訳体験からきているものなのかどうかは、わからない。

だけど、美しい。

向田邦子の文章を読んだとき、空気感、時代感が目の前に浮かぶような、暮らしがそこにあるような描写に心が静かになった。

須賀敦子の文章を読んだとき、その感情が、彼女の描く文章の人と人との会話からその生活が浮かんで来る気がした。

人と話した言葉を大事にしている。

そういう風に感じた。

特に、時の経過を明確に記さない描き方は、読み手に想像力をかなり膨らませる。が、それはかなり危険なやり方で、読み手を突き放し兼ねないのにそれが全く起こらない。続きが読みたくなるし、もう終わりなの?って思ってしまう。

それは、文章全体の洗練された世界観により、おそらく削られたであろう部分にこそ本来の核心があるように思われる。が、それを書いたらおしまいよ。と言われている気分になる。

とても美しいのだ。

須賀敦子の翻訳を読みたくなった。

さて、「こうちゃん」大人の絵本だから読んでみてと誘われた本。

読む前に心構えをしておくべきだった。

まず、一度読んだ私は

「何を試されている本なんだ?」と思った。

しばらく、こういう類いの本に出会っていなかった私は、本当に戸惑いを受けた。

この本に感想を言えないのは、自分の中の大事な部分を忘れてしまっているのではないだろうか。
と不安になった。

こうちゃんがなんなのか。
それを読み手に突きつけてくるこの本は、絵本の装いだけど親切ではない。

こうちゃんは、こうだと思う。の回答が読み手の数だけ、無限にあることを示唆してる。

それが絵本としての正解かもしれないが。

街、季節、場面がどんどん変わっていくけれど、そこに変わらないものがあったはず。

あったはずでしょ。考えてみてと、呼ばれる。

私は、珍しく二度読んだ。しかも、考えられないくらいゆっくりと。

でも、こうちゃんは最初読んだ時よりも、素早く形と色を変えて私をすり抜けて行った。

それは、楽しかった。

さて私は、本来の目的である「偶然と必然」がテーマのアントニオ・タブッキと彼が研究していたフェルナンド・ペソアを併読しながら読みなさいと大工のお告げが来たのでそちらへ向かう。そう。物語は僕と大工の話に続く。


なんのはなしですか

複雑なようで、簡単に道標は出来ていく。

私こそ真面目の申し子。

「こうちゃん」十人十色の感想を読みたい。

訪れたこともない、イタリアが私の第2の故郷と言える日も遠くないと、言い切れる読書に於ける私の妄想力を何も活かせぬまま40年。

木ノ子郷愁に耽る




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