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フェミニズムと音楽 #3│創作者としての苦悩と喜び │Florence+The Machine「King」&「Free」

 今回はフェミニズムと音楽第三回目として、Florence +The Machineのアルバム『Dance Fever』から 、女性として生きることの葛藤と創作者の苦悩を歌った「King」、自己表現を通じて不安を乗り越えることを歌った「Free」を紹介していきたい。

Florence + The Machine「King」

 Florence +The Machine は、女性ボーカリストのFlorence Welchを中心としたイギリス出身のバンドとして知られる。ソウルフルなボーカルと神秘的かつ壮大なサウンドが特徴的である。「Dogs Days Are Over」はYoutubeで1.6億回再生を突破している。今回紹介する「King」が収録されている『Dace Fever』は同バンドの四作目のアルバムである。


ここからは、「King」の歌詞を読み解いていきたい。
(歌詞の和訳では繰り返し部分は省略しています)

私たちはキッチンで口論になる
子供を持つかどうかについてや、世界の終わりと私の途方もない野望について
そして芸術にはどれほどの価値があるのかについて
あなたは私をひどく傷つけることが何よりも得意みたい
だけどその腐った心と
ダイヤモンドの指輪のような眩しい痛みを必要としている
歌うための何かを見つけるために戦いに行かなくてはいけない
私は母親でも花嫁ではない、私は王様だ

私に必要なのは悲しみの黄金の王冠と、振り下ろすための血塗られた剣
空っぽの城に偉大なる自己神話がこだまする
私は母親でも花嫁ではない、私は王様だ 

女性は常に形を変えながらすり替えられる
あなたが考え、それを理解したとき、また新しい何かが始まる
この奇妙な爪は私の皮膚を引っ掻く
私は自分の殺人者が内側からやって来るなんて思いもしなかった

私は決して私が思っていたほど素晴らしくない
けれど私は自身を飾りたてる方法を知っている
決して満足したことはないし、それは決して私を離さない
後ろ髪を引かれながら、私はステージに戻っていく

Florence + The Machine「King」
原文はこちら

 曲は、(子を持つかどうかについて、とあることから)配偶者と口論になる場面から始まる。世界の終わり、というのが彼女自身の死の暗喩で、野望(ambition)というのがアーティストとしての成功を意味するのだとしたら、限られた人生の時間の中で、配偶者と子をもうけることと、アーティストとして高みを目指していくこと、その選択肢の狭間で揺れ動く煩悶が、この歌では描き出されている。
もちろん、それは必ずしもトレードオフの関係ではないのだけれど、両立することはそう簡単ではない。

 特に女性にとっては、出産や子育てとキャリアの問題を切り離して考えることは困難で、彼女のようなアーティストにとってもそれは例外ではない。彼女は、インタビューで以下のように答えている。

“As an artist, I never actually thought about my gender that much. I just got on with it,” Welch said in the statement.

She continued: “I was as good as the men and I just went out there and matched them every time.

“But now, thinking about being a woman in my thirties and the future, I suddenly feel this tearing of my identity and my desires. To be a performer but also to want a family might not be as simple for me as it is for my male counterparts.”     Welch continued: “I had modelled myself almost exclusively on male performers, and for the first time I felt a wall come down between me and my idols as I have to make decisions they did not.”

Florence Welch on how wanting a family “might not be as simple for me as it is my male-NME

「アーティストとして、実は自分の性別についてそれほど考えたことはありませんでした。なので私はただ それに取り掛かっただけです」と彼女は述べている。
彼女はこう続けた。「私は男性と負けず劣らずの実力を持っていましたし、毎回、彼らと同じように戦ってきました。」

「でも今、30代の女性であることや将来のことを考えると、突然、自分のアイデンティティと欲望が引き裂かれるような感覚に襲われるのです。パフォーマーでありながら家庭を持つということは、男性ほど簡単なことではないかもしれません。」

 彼女はまたこう続ける。「私は男性のパフォーマーとして自分自身を理想化していました。ですが、男性が行わなかった決断を下すとき、私は自分と自身の理想像の間に壁ができるのを感じました。 」

創作者としての苦しみ

 子供を産むことと引き換えに、「芸術(彼女にとっての音楽)にはどれほどの価値があるのか?」という問いを突きつけられる。痛みを伴いながら作品を生み出す彼女にとって、その問いかけはThe Thing That Hurts The Most(最も傷つけられること)に違いないだろう。

「母親でも花嫁でもない、王様だ」と、「女王」でなく「王様」だと宣言することで、創作者としての誇りを、人間としての尊厳を取り戻そうとする。

「ダイヤモンドの指輪のような眩しい痛み(dazzling pain like diamond rings)」と書かれているように、彼女にとってはその身に起こる苦痛さえも、歌詞にするための材料となる。だからこそ彼女は創作者としての苦しみを、「戦いに行く(need to go to war)」ことと表現しているのだろう。

「歌うための何か」「表現するための何か」を探し続けることは、時に底知れない不安をもたらす。彼女は血塗られた剣を手にし悲しみの王冠を被り、空っぽの城で時に自分を奮い立たせながら立ち向かおうとする。

 今自分が作り出しているものは、本当に価値のある何かなのか?あったかも知れない可能性を犠牲にするほどの? 
 自身に棲みつく殺人者(my killer)が爪(Strange claws)で皮膚を引っ掻くというのは、それらの問いかけや不安が他者からだけでなく自分自身からももたらされることを暗喩しているのだろう。

 また、”Woman is a changiling,always shifting shape”という一文の「すり替えられた子供(changiling)」というのには複数の意味がある。
 密かに他の幼児と身代わりにされた幼児、あるいは(中世の民間伝承では)本物の人間の子供の代わりにされた、奇形で奇妙な妖精の子供を意味している。

 彼女が自分自身の個人的な世界と創造的な世界を行き来する中で、彼女のアイディティは常に揺らぎ、まるで生まれた時に他の子供にすり替えられたような気持ちになることを暗示している。

 初めは落ち着いたメロディの中に、彼女の抱える不安と自信を訥々と語りかけるように歌われ、そして途中に、まるで自身の葛藤を超越したかのような、咆哮に似た歌声が、聴く人の抱える不安をも力強く包み込む。人生において何かを切り捨てて何かを選ぶことは避けられず、痛みを伴いながら生み出す彼女の生き様そのものを表している曲だといえる。

Florence+The Machine「Free」

 「King」と共に、もう一曲同アルバムに収録されている「Free」を紹介しておきたい。『Dance Fever』の冒頭のこの二曲は、このアルバム全体に通底するテーマを色濃く反映している。

時々、私は薬を飲まなければならないのだろうかと思う
軽く鎮静剤を打てば楽になるのだろうか
感情は目まぐるしく移り変わり制御すらできない
私は今炎の中にいて、でもそれを見せることはできない

私は持ち上げられては、打ちのめされる
一日に100回もね
私は噛み砕かれては、吐き出される
持ち上げられては、打ちのめされる

いつも何かから逃げていて、押し戻そうとしてもやって来る
賢くったってうまくいかない
なぜなら、それはすべて私の頭の中で起こっていることだから
「君は繊細すぎる」と彼らが言うので
 「わかった じゃあ病院で話しましょう」と返す
でも私は音楽を聴き、ビートを感じる
踊っているその一瞬だけ私は自由になる

これが現実なのだろうか?いつもこうなってしまうのか?
苦しみと死に直面しながらもそれでも歌い続けるのか?
ああ、十字架にかけられたキリストのように
誰が我々のために死んだのか?誰が何のために死んだのか?
もうやめませんか?他にどうすればいいかもわからない
両手を広げて全てを捧げよう

Florence+The Machine「Free」
原文はこちら

 精神疾患を抱えた人々がよく経験することに、他人から「気のせいだ」と言われて自分の闘病を無効化されることがある。
だからこそ「You’re too sensitive(繊細すぎる)」と周りの人々が言うのを、彼女は「Let’s discuss at the hospital(病院で話しましょう)」と一蹴する。

 彼女は自分の不安(あるいは一般的な精神疾患)を、感情面を無視して理性で片付けようとすることに意味がないことを指摘する。理性と病的な不安は両立するからである。

 同時に、病院に言及することで、精神病が人の生命を脅かす深刻なものであることも強調している。頭の中で起こっていることであるからといって、それらが健康に重大な影響を与えることは否定されない。

 彼女は、踊りという自己表現を通して、その一瞬だけ、煩わしい物事から解放され、自由になることができる。その喜びや解放感、生きることへの賛美が、まるで内なるエネルギーを解放するような踊りと歌で表現されている。

最後の歌詞部分では、「苦しみと死に直面しながらもそれでも歌い続けるのか?」といった、「King」と重なる、死や苦しみを糧にして表現することの痛みや、「誰が我々のために死んだのか?誰が何のために死んだのか?」と、戦争を連想されるような表現が並ぶ。

 実はこの楽曲のMVは、2021年11月18日にウクライナの首都キーウで撮影された。
MVの最後には「創造力と忍耐の精神を持った勇敢なウクライナの友人にささげる」のメッセージが流れ、「決して消えない輝かしい自由を手にした」ウクライナの映像監督とアーティストによって撮影されたことが明かされている。

コメントでは、ウクライナ人の方からのコメントも寄せられており、この曲が、いかに多くの人を勇気づけているかがわかる。

2022年5月の『ローリング・ストーン』誌のインタビューで、彼女はこう答えている。「自分から動き出すために、動きが必要なんです。悲しみを抱えたまま座っていても、悲しみは消えない。」

  今回紹介したアルバム「Dance Fever」は、実はKendrick Lamerのアルバム『Mr. Morale & the Big Steppers』と同日の2022年5月13日にリリースされた。実はリリース日が被っているだけではなく、Kendrickのアルバムの収録曲「We cry Together」では、Florence+The Machineの2018年のアルバムの『High As Hope』の収録曲の「June」のサンプリングではじまる。そうした点でも、Kendrickと縁のあるアーティストと言えるかもしれない。

 コロナ禍を経て製作されたアルバムということもあり、内省的な思考や不安や鬱といった負の感情が作品の核になっているように思われる。だからこそ、多くの人の共感を呼ぶ作品になっているのかもしれない。


最後まで読んでくださってありがとうございました。今までに書いた音楽に関する記事もよかったら読んでみてください。

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