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時間と共に変わるものと残るもの。25年ぶりにアッシジを訪ねて。
アッシジのフランチェスコは、イアリアでも特に愛されている聖人です。
自然はもちろん、生きとし生けるもの全てを愛したフランチェスコ。森羅万象の神を信じた日本人にも親しみが持てる聖人ですよね。
1181年にフランチェスコが生まれたアッシジに最初に行ったのは、35年くらい前になります。
その数ヶ月前、私は立派なデザイナーになるためにと東京を後にし、ミラノに着きました。生活を始めてみると、日本で勉強し
サン・ガルガーノ修道院跡を廃墟のまま残した奇跡
つい数週間前まで外で食事をしていたのに、日々何かに急かされるように気温が下がりはじめ、数日前には雪まで降った11月末、何十年ぶりにサンガルガーノ修道院跡に行きました。
この時期のイタリアは、16時半には暗くなり始めます。陽があるうちにと、モコ(愛犬)が走り回る糸杉の連なる道を早足で歩きながら、冷たい手をポケットに入れ、数台しか車が止まっていない駐車場から修道院跡に急ぎました。
理屈なしに感銘を
イタリアでの正統な栗の食べ方-穴あきフライパン
【イタリアでの正統な栗の食べ方】
…なんてあるわけはないのですが、やはりイタリアで栗と言えば、自分で拾った栗を、焼き栗、それも暖炉で炒るのを正統としたいと思います。
まず栗は、(当たり前ですが)栗の木のある山に行ってその辺に落ちているのを拾います。日本のように、栗の木を管理している農園等があるわけではなく、その辺の山で、イノシシやリスやキツネの生存競争に参加して、大きな、虫食いの無い栗を探して拾
ヴィーナスに近づいた気分になれるジャム
将来トスカーナのオルチャ渓谷地方に移住したいという夢のある私は、一番厳しい冬の様子を知るために、来年の夏前までペトロイオという人口400人ちょっとの村に家を借り、2/3くらいの期間をこの地でリモートワークをしています。
車で15分も走れば、あちらこちらに郊外型の巨大スーパーマーケットはたくさんあるのですが、私は近所にあるさまざまな村で、週に一度開催される市場で買い物をするのが好きです。
小さい
タルコフスキーとバーニョ・ヴィニョーニ温泉
私にとって特別な意味を持つトスカーナ州のオルチャ渓谷。オルチャ渓谷にある村Bagno Vignoni(バーニョ・ヴィニョーニ)も、私には特別な村です。
村の中心部の広場には、16世紀に作られた49mX29mの、火山性の地下水脈から湧き出る外湯があります。バーニョ・ヴィニョーニ温泉には、エトルリア時代やローマ時代から、教皇ピウス2世、ロレンツォ・デ・メディチなどの著名人や、この村を保養地に選んだ多
エクストラバージンオイルと人生の偶然
初めてトスカーナの「クレタ・セネーゼ」(直訳するとシエナ地方の粘土)を訪れた時、茶からグレーに無限に変化する土色の穏やかな岡の連なり、そんな中、まるで正確に測ったように並ぶオリーブ畑、そして大きなカーブを描きながらレンガ色の農家に続く糸杉、そんな風景に胸が痛むような大きな感動を受け、それ以来私はこの土地に通い詰めています。
何百年もの間、人の物語が作り上げた素晴らしい風景です。
クレタ・セネー
侘び寂び?日本が失った美意識をヴェネツィアで見つける
イタリアに来た30数年前、ルームメートの日本人女性が、まだ右も左もわからなかった私に、在イタリア日本人の仲間を紹介してくれました。そんな中で忘れられない二人が、DさんとNさんです。Dさんはアーティストとして世界に羽ばたくためヴェネツィアのアカデミアで、Nさんは建築家になるためヴェネツィア建築大学で勉強をしていました。
Dさんは、アーティストらしく人生の難関を乗る越える毎日を送り、Nさんは日本の将来
オルチャ渓谷のアグリツーリズモ
イタリアのアグリツ―リズモはご存知ですか?
私がイタリアに来たばかりの90年代、アグリツ―リズモは観光客が農家に滞在するという本来の形で、ある適度の適応力が必要でした。
今は、本当に素敵でおしゃれなアグリツーリズムが増えて、ホテル以上にエレガンスなところがたくさんありますね。
私も時々アグリツ―リズムに滞在しますが、人が少なくて、過剰におしゃれでなく、自然に近づけるところを選びます。
今回のオル
私の心の風景 オルチャ渓谷
Memories of Italyホームページのカバー写真は、イタリア・トスカーナ州のオルチャ渓谷の景色です。
30年ほど前に初めてオルチャ渓谷を訪れ、この丘の続く景色を見た時、一瞬頭の中が真っ白になり、胸の奥の遠い遠いところから何か痛みに近いものが湧いてきて、目から涙があふれていました。
私はイタリアに来て、2回スタンダールシンドロームがおきました。
1度目は、ピエロ・デラ・フランチェスカ
ミラノの歴史を引き継ぐクルティ窯
クルティ窯は、ミラノの歴史と共に生まれ育った窯屋です。
1400年代、ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの妻ビアンカ・マリア・ヴィスコンティの遺言によりマッジョーレ病院 (カ・グランダ - 現在はミラノ大学)の建設が開始された時、タイルやレンガを製作したのがスフォルツァ家に仕えていたクルティ窯でした。
当時は、ミラノの中心部に窯を構えていました。何世紀にもわたるクルティ窯の波乱万丈の歴史の中
南アルプスで140年前からフェルト製品をつくるザッハー家
「イタリアの想い出」のフェルトルームシューズを作っているのは、1560年から今まで羊毛職人の伝統を引き継いでいるザッハー家の兄弟姉妹5人です。
1880年に、当代の曾祖父が南アルプス・ハウノルド山(イタリア語ではRocca dei Baranci 2966メートル)の麓にある小さな街サン・カンディドで、フェルトの帽子を主に、フェルトの靴底・スリッパ等、フェルト商品の工房を営みはじめました。当時は2
想い出を溜める貯金箱
江戸っ子で気が短い私は、子供の時から貯金箱というものが苦手で、お金がたまる前に忘れてしまうのが常でした。
貯金箱って、不思議なモノです。
自分で買った記憶もないし、誰にもらったかも思い出せないのに、なぜか家のどこかにちょこんと置いてある。
それはイタリアでも同じでした。
ただ、日本と1つ違うのは、あちらこちらで見るコロンとしたテラコッタの貯金箱。
イタリアで、初めてテラコッタの貯金箱を見た
イタリアでよく切れる包丁に出会うまで
子供の時から三徳包丁を使って母の手伝いをしていました。
今思えば、子供の小さな手には危なっかしい気がしますが、母に「包丁は危ないからダメ」とか「包丁に気をつけなさい」とか言われた記憶がないのです。
単なる包丁が生活の中で存在感を持ち始めたのはイタリアに来てからです。
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イタリアで結婚した後、キッチン用品を整えようと包丁を探したのですが、良く切れる包丁が見つかりませんでした。色々買って試
イタリア人から学んだ生き方のコツ
イタリアに来て30年以上たち、本当にたくさんの事がありました。
余りにも長い間、イタリアにどっぷりつかって暮らしているうちに、自分の精神的基柱が良くわからなくなった、という話を自己紹介でも書きました。
日本とイタリア、生き方に違いがあるのか?
やっぱり、あります。
人生の優先順位。
自己と他者、社会の中での自己。
私がイタリアに来たのは24歳の時です。
若いけど、一己の人間として、社会人とし
黄色いズボンの男のひとから得た教訓とフェルトのルームシューズ
このフェルトのルームシューズに出会ったのは、もうかれこれ30年前になります。
当時、冬休みになると南チロル・アルトアディジェ州の山で休暇を過ごしていました。
第一次世界大戦までオーストリアーハンガリー領だったこの地域に住む人たちは、見るからにドイツ系タイプで、背が高く、彫刻みたいに堀の深い厳しい風貌の人が多く、30年前はほとんどの人がドイツ語を常用しており、イタリア語がうまく話せない人もたくさん