見出し画像

イタリア人から学んだ生き方のコツ

イタリアに来て30年以上たち、本当にたくさんの事がありました。


余りにも長い間、イタリアにどっぷりつかって暮らしているうちに、自分の精神的基柱が良くわからなくなった、という話を自己紹介でも書きました。

日本とイタリア、生き方に違いがあるのか?
やっぱり、あります。
人生の優先順位。
自己と他者、社会の中での自己。

私がイタリアに来たのは24歳の時です。
若いけど、一己の人間として、社会人としての基盤は築かれていました。

そのため、すでに自分の中で固まりかけていた色々な呪縛から自分を解放するのに約20年かかりました。

今思えば当たり前のことなのですが、社会的常識というのは、限られた地域のみに通用することです。

イタリアで靴を脱いで家に入れと言えば嫌がられるし、日本で靴を脱がなかったら怒られる。

日本で、女性社員にお茶を頼んで断られることはないだろうけど、イタリアだったら「今忙しいからお茶入れる時間ありません」って言われる可能性も大です。

イタリアが日本に、もしくは他の国に比べて優れていること言うことではないのです。
イタリアは、それなりに問題をたくさん抱えている国です。

イタリア人は、日本人に比べると、本当に文句が多い。
政府や政治から体調やお天気に至るまで、なんか文句の種を見つけだす。
挨拶で「どう元気?」と尋ねて「元気よ」って答える人はほとんどいない。(ほとんどの人が、あーちょっと背中が痛い、とか、仕事がうまくはかどらない、とかグチを言う)

でも、なんか楽しそうに生きています。

日本からきた私にとって、イタリアの生き方は、自然で自分らしく、とても楽だったことは確かです。

頑張りすぎることはないし一番にならなくてもいい。

そうなのです。
なにも頑張りすぎることはない。
一番にならなくてもいい。

好きなら、やりたいなら、すればいい。
一番になりたいなら、なる努力をすればいい。

でも一番になれなかったら、それはそれでいい。

「あまり」人に迷惑をかけない程度で、自分のしたいことをすればいい。

いつも必死になる必要はない。
人と争う必要もない。

有名にならなくても、金持ちにならなくても、仕事で成功しなくても、自分の幸せはもっと違うところで探せばいい。

ここには、そんなふうに自然に生きている人がたくさんいます。

人は人、私は私。

人と同じである必要はないし、他人のしていることを気にする必要もない。
他人は、あなたのしていることを気にしていない。

他人と違う意見でも、言っても良いのです。

時に怖いくらい、がーっと意見をぶつけられて、最初のうちは反論できませんでした。
そうだなっていう意見も、なによそれ、って意見もあったけど。

意見が違っても、相手も、自分も、言い終わっちゃえば、それだけ。
そして、議論したことも忘れちゃう、って分かりました。

正しいとか間違っているということはないのです。
色々な人の意見を聞いて、自分で考えて、自分の意見を持つ、そしてそれを表現できることが大事なのです。

仕事は、充実した私生活を送るための手段。

もちろん、イタリアにも仕事を人生の中心にして生きている人はいます。
でも、ほんの一握り。

仕事が人生の中心の人、今まで、どれくらい会ったかな。
イタリア人は、片手に収まる。
日本人は、両手でも足らない。

ここでは、ほとんどの人が、幸福な私生活を送るために仕事をしています。

デザイナーなんていう仕事は、趣味の延長みたいなところがあって、同僚たちも頑張っているけど、なんか必死の感じがしない。

家族と週末を過ごし、どかんと長い夏休みを過ごし、仕事も楽しんでる。

忙しい、忙しい、っていうイタリア人に会ったことない。
打ち合わせの時、ずっとラップトップを打ち続ける人もほとんどいない。

目を見て話しましょう。

優先順位は、自分、家族、会社(仕事)、社会、国。
だから、会社のためや社会のために、自分をそして家族を犠牲にはしない。

だれも、そんなことを要求しない。

週末や夜に残った仕事をする必要はなくて、家族や友人と散歩に出たり、食事したり、おしゃべりしたり、旅行したり。

週末もずっと仕事していたなんて、イタリア人には言わない方がいいですよ。
皮肉じゃなくて、心から「かわいそうに」って言われちゃうから。

そういう国です。

年上の人でも、会社の上司でも、同じ人間

英語と違い、イタリア語には、敬称と親称があり、文法も変化します。

私は、イタリアに来て20年近く、年上の人や上司と親称で話すことができなかったのです。

敬称と親称にも決まりがあり、目上の人が、親称で話をしようよ、と言ったら、その時から二人ともが、親称の文法で話すことになります。

一方が敬称をつかい、もう一方が親称を使うことはあり得ないのです。

だから、
「あーなべちゃん、今日中にこのレポート書いてね。」
「申し訳ありません、部長。今晩は外せない用事があり、レポートを終わらすことは不可能です」
みたいな会話は成立しないのです。

私は、目上の人に「親称で話そう」と言われても、親称を使えずずいぶん苦労しました。
デザイン事務所の上司は親称で話しているのに、私は敬称で返答していたし、本気で注意をしてくれる人もたくさんいました。

そんな、精神的なハードルを越えて、目上の人と親称で話すことが苦痛でなりませんでした。

目上の人に対するハードルが無くなったのは40歳を過ぎた頃でしょうか。 
イタリアの生活になれたためか、自分が年齢を重ねることで、若い人から敬語で話されることが増えたためかは分かりません。

やっと年上の人や社会的立場が上に人にも、相手が望めば苦労なく親称で話せるようになり、そのことによって、すっと相手との関係も身近になりました。

たかが言葉、されど言葉。
不思議ですよね。

挨拶のキス

これも10年以上かかりました、慣れるまで。
最初は、誰かがうわーっと近づいてきて、ハグして挨拶のキスをしようとすると、逃げ出したい気分になり、身体が硬直しました。

ちなみにイタリア式は、キスをするわけではなく、左右一回ずつ、頬を合わせて、チュッと音を立てるだけです。

一度、友人に、「もしかしたら、僕がこういう風に(ハグ+キス)するの嫌なのかな?そうだったら言ってね」と言われ、傷つけてしまったのかと大反省。

この習慣、慣れると不思議なもので、体にしみこみます。


友人に会って、キュッとハグして、頬を合わせる時、肌を通してさらっと愛情が行きかうような気がするのです。
それは、お辞儀はもとより、握手とも違う、親密で心温まる感じです。

他の在伊の日本人も同じなのか、日本人の友人同士でも、仲良しの人とはキュっとしてキスをするようになります。

不便なのは、日本に帰国した時。

父が空港まで迎えに来てくれた時、久しぶりに父を見た途端、あぁ抱きしめたい、と体がむずむずしてきて、「お父さん、元気そうだね。抱きしめてキスしたいところ」といったら、本気で焦って「お前、それだけはやめてくれ」と言われました。

家族だけではなく、大好きな友人に久しぶりに会うと、もう体がむずむずしてきます。

時々、つい抱きしめてキスしちゃいますが、そんな私を許してください。

愛情は表現するのがこの国のやり方。

女性は堂々と

イタリアに来たばかりの時、なぜイタリアの女性はこんなにえばっているのだろう、と思いました。(イタリア女性よ、ごめんなさい)

なんだか、やたら態度が大きくて、えばっているように見えたのです。
そのかわり、男性が優しくて遠慮しているように見えました。

女性は、公私にわたり、大げさに(と私には見えた)堂々としているし、大声で意見をいうし、ドアが開けば先にとおるし、コートを脱がせるのは男性。良い場所に座るのも、食べ物なら良い方をもらうのも女性。

エレベーターのドアが開くと、女性陣が背を伸ばしてさっさと降りていく。小娘の私でさえ、先に降りないと、他の男性が困惑する様子に気づき、遠慮しながらありがとうと降りていましたが、便利な習慣にはすぐ慣れてしまいます。

世界経済フォーラムが3月30日発表した「世界ジェンダー・ギャップ報告書(Global Gender Gap Report)2021」によると、イタリアは153国中63位とさびしい結果。(ちなみに、日本は驚きの120位)

まぁ、これは生活習慣ではなく、もっと大切な政治経済や社会保障がカウント要因だからでしょうね。

確かに、政治家も、経済界の重鎮も、圧倒的に男性が多い。

どのくらい女性が堂々としているか、だったら上位に入ると思う。

そんなイタリアに慣れてしまった私は、今ではイタリア女性を見てもえばっている風には見えず、自分が「えばった日本女性」になってしまった可能性大。


のんびり生きよう

有名な1か月のバカンス。
イタリア人は、どう過ごしていると思いますか。

何も特別なことをしない。

そうなのです。
大人のイタリア人の時間の過ごし方というのは、実に優雅です。
せこせこしていない。

ゆっくり朝ごはんを食べ、新聞を買いに散歩。
昼食で家族や友人とおしゃべりして、午後は本を読んだり、庭で日光浴したり、海辺なら午後遅くにちょっと泳ぎに行って、高原や山なら数時間歩いて、街の側ならちょっと散歩に出たり、ギャラリーに行ったり、友人を呼んで夕食したり。

有名なデザイナーから会社員の友人まで、色々なイタリア人と一緒にバカンスを過ごしましたが、とにかくみんなのんびりしていました。

そして、普通の生活も、のんびりしています。
ミラノをはじめとする北イタリア人は、せわしなく忙しい人たちと、他の地域のイタリア人から揶揄われていますが、日本から来た私からみると、北でさえ、なんとのんびりしているか。

たとえば友人と道を歩いていて、二人の別れる地点がきたら、日本人なら話を端折るか、急展開で話を終わらせ、さよならとなりますよね。
イタリアの場合は、まず話を終わらせることが優先順位となるので、下手すると15分くらい道で立ち話し、となります。

半分イタリア人の私でさえ、いまだ困惑するのは、友人同士の会食でレストランを出た後。まず、レストランの前で違う方向に行く人と15分おしゃべり。さよなら、とキスしてから、さらに5分。そして、これ以上ゆっくり歩けるか、という速度で、おしゃべりしながら歩いて、誰かの車の前でさらに15分のおしゃべり。さよなら、とキスしてから、さらに5分。そして、最後に残った友人の車の前で15分…

そういう人たちなのです。
とにかく、のんびりしている。


家族

家族は、イタリア人にとって特別です。

コロナ禍で、感染者数の割にイタリアで死亡者が多かったのは、家族のつながりが強いからでないかと思っています。(専門家ではないので、勝手な推測)

ロックダウン中に、公園に行くと、おじいちゃん、おばあちゃんと、孫がたくさんいました。
幼稚園や小学校が閉まると、やっぱりおじいちゃん、おばあちゃん。

一週間に一度は、親や祖父母とご飯食べる人が多いし、祝日は一緒に祝います。お誕生日なんて、絶対忘れられない。

出張中でもない限り、男同士、女同士での夕食はなし。
夜レストランに行くのも、家に招待するのも、もちろんカップルや夫婦単位。

私は、イタリア人の女友達と「女の夕べ」と呼んで、月に一度夕食会をしていましたが、逆に言うと、特別な会にしないと女だけで集まることはないということです。

週末も家族一緒に過ごします。
もちろん、趣味のある人や、自分だけの友人との付き合いができないわけじゃないけど、うまく配分しないと、問題が出ます。
めんどうでも、そこは大事。

波乱万丈の人生を一緒に乗り越えることができた暁には(これが難しいのですが)、仲の良いおじいちゃんとおばあちゃんになります。

イタリアには、手をつないで歩いているお年寄りのカップルがたくさんいて、なんかかわいくて、とてもいいのですよね。


そして最後に、イタリアの一番好きなところは「許容・受容」です。

これはまだ学び中で、イタリアで暮らすことに伴う、一生の課題です。

何の特徴もないふつうの人が、頑張らないで、何となく生きていける感じ。
私のように、ここでは外人で、イタリアの役に立ってもいないけど、きちんと受け入れてもらえる感覚。
その辺に倒れていたら、きちんと病院に運ばれて、クレジットカードがなくても治療してもらえるだろうという安心感。

そして、それは同時に、私も他人をそのまま受容/許容することを学ぶことにつながります。

若い時は、自分と異なる人に対して寛容でなかったと反省しています。
それに気付けただけでも、年齢を重ねる価値があった。

自分と違う人、考え方や、人種や、生活習慣が違う人、犯罪者、うまく社会に溶け込めない人、精神的、身体的な障害のある人、性的指向の異なる人、そんな人たちを、そのまま受け入れることはとても難しい場合もあるけど、それを学ぶことができるのが、多分イタリアの一番好きなところだと思います。

大げさかもしれないけど、人間の尊厳、につながる、イタリア人の生きるための哲学だと思うのです。

何よ、イタリアの良いところばかりじゃない、って思う方もいますよね。

もちろん、イタリア人の「もう勘弁してほしい」ってところもたくさんあるのですが、とりあえずイタリアで生きていくことに決めた私としては、この国をポジティブに見て暮らすことにしているので、あしからず。

(いつか「イタリアの勘弁してほしいところ」っていうのも書いてみたいけど)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?