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時間と共に変わるものと残るもの。25年ぶりにアッシジを訪ねて。

アッシジのフランチェスコは、イアリアでも特に愛されている聖人です。
自然はもちろん、生きとし生けるもの全てを愛したフランチェスコ。森羅万象の神を信じた日本人にも親しみが持てる聖人ですよね。

1181年にフランチェスコが生まれたアッシジに最初に行ったのは、35年くらい前になります。

その数ヶ月前、私は立派なデザイナーになるためにと東京を後にし、ミラノに着きました。生活を始めてみると、日本で勉強したはずのイタリア語は全く役にたちませんでした。スーパーもあまりなかったあの頃、商店で自分の買いたいものを上手く伝えられず欲しくもないものを買ってしまったり、郵便局で順番を抜かされても文句を言えずに何十分も並んだり、このままではダメだと、ペルージアの外国人大学にイタリア語の勉強に行きました。

余談ですが、イタリア語が話せないから外国人大学に行ったわけですが、入学受付からホームステー案内まで、一切英語を話せる場所がないという徹底ぶり。(多分、今はそんなことないでしょうね)その上早口のイタリア語でまくしたてられて、何を言われているか全くわからないまま「世の中なるようにならない事もある」洗礼を受け立ち往生しました。

一体どうしたものかとミラノの知り合いに泣きついて、ペルージアにいる日本人を紹介してもらいました。忘れもしない親切なその男の人はすぐに駆けつけてくれて、なんとかホームステー先も決まり、初心者クラスにも入学できました。

なぜあの時の私は、あんなに怖いものなしだったのか?数々の困難は翌日には忘れ、すぐに環境に慣れ、授業が休みの土日になると、近郊の街へ小旅行に行っていました。ペルージアから比較的近いトーディ、グッビオ、スポレート、オルビエートと色々な町を訪問しましたが、アッシジもそのひとつでした。

私のイタリア旅行のバイブルだった「イタリアを歩く」を手に(それにしても素晴らしい旅行ガイドでした)、言葉もろくに話せない一人旅行。土地に着くと、一人で泊まれてバスルームがある一番安いホテルを旅行案内所で探してもらい、今思えば一か八かの旅行をしていました。

当時は、ネットでホテルの検索をしたり予約をしたりすることはできなかったので、旅行案内書で調べて自分で電話をするか、その町に到着してから案内所で相談するかどちらかでした。イタリア語ができなかった私に、電話での予約はハードルが高すぎたので、町についてから旅行案内所で宿泊場所を紹介してもらう事が常でした。

ホテルを紹介してもらい、怪しいところではないか下見に行き、まずは荷物を置きいざ出陣。ちなみに、その頃の安宿は、50%以上の確率で熱いお湯が出ず、ベッドは横になると腰の辺りが弓形に沈み、部屋は薄暗く、見るから安物の調度でした。イタリアのネオレアリズモの白黒映画の庶民の家の感じそのまま。
それでも、20代前半の私は、そこにいられること、新しい体験ができること、色々な町を訪問できること、何かを学べること、いろいろな人に出会えること、そんな何もかもが幸せで幸せで、ホテルの貧相さなど全く気にならず、冷たいシャワーで体を洗って、弓形になるベッドに引き込まれるようになんの雑念もなく爆睡し、生後数ヶ月の子犬みたいに最高の気分で目を覚ましていました。

35年前のイタリアには、若い女性が一人で食事できるようなレストランも、ファーストフードもなく、スーパーさえほとんどありませんでした。昼夜ともにパニーノというのも寂しいし、その日の夜に何を食べるかということさえが、私にとっては大きな問題でした。昼はバールでパニーノを食べ、夜はお惣菜屋さんでできたものを買ってホテルの部屋で食べることにして、若くて、旺盛な食欲に満ちていた私は、町に着くと、お惣菜屋さんを探しにあちらこちらを歩きました。

もちろん、Googleマップに「rosticceria」(お惣菜屋)と入れて検索することなど不可能な時代です。

今ならなんでもないことだけど、当時は、お惣菜屋を探すのが一仕事。見つかっても、パックになったものを売っているわけではないので、店に入ってたくさん並んだ物の中から自分の欲しいものを拙いイタリア語で伝え、それを一人分だけ詰めてもらい持ち帰るという作業だけでも結構エネルギーが必要でした。

いつでも、みんな親切でした。
誰かに差別的なことを言われたり(そういうことは言葉を知らなくてもすぐに分かりますよね)、冷たく扱われたり、意地悪されたりという記憶が全くないのですが、ウキウキで嫌なことを忘れてしまっただけかもしれません。

前に、欧州に住んでいて差別を受けたことがないという人は救いようもなく鈍感なだけ、とどこかに書いてあるのを読みましたが、私は特に人種で差別を受けた記憶がないのです。もちろん、嫌なやつに嫌な目にあったことはあるけど、そんなの日本に住んでいても絶対あったはず。私が日本人だから、アジア人だからとイタリアで差別にあったのは思い出せない。

パリの空港で、ミラノのエアーフランスのミスで乗り継ぎに問題が出た時、フランス人の地上乗務員に「ふん、イタリア人のせいだ」と言われたので、「いえいえ、エアーフランスの窓口で手続きしました」と答えたら、「エアーフランスに勤めるイタリア人」と吐き捨てるように言われ、「あっ人種差別を受けた!」と思ったけど、よく考えたら私はイタリア人ではなかった、ということはありましたけど。

さて、35年前のアッシジに話を戻します。35年の間には、色々な事があったと思うけど、おおむね町の外観は今と変わっていません。あちらこちらが修復されて小綺麗になったり、おしゃれなレストランやショップができたりはしていますが、1600年代以降にアッシジに住んでいた人がタイムマシンで現代に到着しても、結構問題なく自分の家に帰れるのではないかと思います。

私が育った世田谷の用賀に10年ぶりくらいに帰った時に、右左がわからないくらいの変化に驚き立ち尽くしてしまったことを思うと、時間の流れと場所について考えてしまいます。

あの時の私は、食べること、眠ること、と、生きるための最低条件をクリアすることに必死で、サン・フランシスコ大聖堂のジオットのフレスコ画への大きな感動の記憶がないのです。多分、余裕がなかったのでしょう。

ただ、大聖堂の前で、流れる空気が不思議に優しく穏やかに感じたことはよく覚えています。鳥の鳴き声が他の場所より澄んでいて、まるで、周りの空気の成分が静穏になり、俗世界から隔絶したような不思議な感覚でした。

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アッシジという場所は変わらないけれど、この35年で社会生活は大きく変わっていますよね。驚くくらい。
あの頃と現在は、全く違う世界。

当時はホテルに着き、お惣菜を食べると、静寂の中でその日の日記を書き、本を読むこと以外、全く他にすることがなかった。メッセージを送ることも、電話することも(安宿には外部にかけられる固定電話はついていませんでした)、ネットサーフィンをすることも、ソーシャルにその日の写真を投稿することも、動画を見ることも、音楽を聴くこともできなかった。
今なら、長い夜一体何をしたら良いのだろう、と思うようなネットのない生活。
電話やメッセージやメールやソーシャルで、携帯がピンと鳴ることがない時間。

当時はそれが普通だったので、退屈でも、持て余すこともなかったのです。誰かにハガキや手紙を書いて、日記をつけて、ベッドの上でその日にあったことを思い出し、ドキドキしたり、ニヤニヤしたり、胸をキュンとさせたりして、本を読んでいるうちに寝ついてしまう、そんな夜。

今思うと、そんな時間の流れが懐かしいような気がします。

本質的な部分で、今とあの頃とどちらの時間がより豊かだったかと思うと、返答に困りますね。

そして2度目にアッシジを訪問したのは、ウンブリア・マルケ地方を襲った大地震でサン・フランチェスコ大聖堂が被害を被る少し前だったので25年以上前になります。定年退職をした母が、アッシジのイタリア語学校に留学に来ていて、そんな母を訪ねた時です。

その時の私は、イタリア語は問題なく話せ、結婚し、仕事も順調で、もう安ホテルに泊まる必要はなく、確か夫と美しい郊外のホテルに泊まったと記憶しています。
当時の母は、今の私の5、6歳上だったでしょうか。とにかくエネルギーのある人で、娘(私)が嫁いだイタリアという国の言葉を習得すると決め、退職後は1年に1度、アッシジ、ピサ、ミラノと数ヶ月間にわたり語学学校に留学に来ていました。

40年間、病気の一つもせず働き続けた元気な母。
周りにいる人が疲れてしまうほど元気な母。
兄も私もなんか可愛げのない、悟り切ったような子供だったのは、母の元気さに二人とも疲れてしまっていたからだと思います。
自衛隊の隊長にでもなって、隊員の士気高揚のために喝でも入れる仕事が合いそうな母。(そんな仕事はないだろうけれど)

アッシジで母に会った時は、私たちがわざわざミラノから何時間も車を運転して会いに行ったのに、授業が詰まっていて時間がないとか、若い人が多くて楽しいとか、上官のように命令長で手短に話すと急いで授業に戻ってしまいました。私と夫は、ちょっと拍子抜けしたのですが、闊歩で立ち去る母のまっすぐな背中を見ながら、自分の世界のみを見て、いつも必死で生きる母らしいなと納得し、そんな母の態度に驚いたわけではありません。

その時、母と会ったのが、サン・フランチェスコ大聖堂に続く坂道の上でした。
母と会った時の詳細を忘れてしまっているのに、おしゃべりしていた場所から大聖堂に続く細長い道と、大聖堂正面の広場の緑色が、私の脳裏に深く刻まれています。

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他の人はわかりませんが、私の記憶というのは、たくさんの一瞬の集まりです。
ある風景、ある人の表情や行動、ある人の一言、ある一瞬の感動、ある瞬間の光や風の動き、そんな一瞬が雑多に詰まっている場所が頭の中にあります。
遠くから見た森のように、普段は一つ一つの木は見えないのですが、ある時、ある瞬間の思い出がくっきりと蘇る時があります。

あのアッシジの風景、大聖堂に続く細長い道も、そんな一瞬の一つです。
そのイメージには、母の背中、子供の時から見続けている走り続ける母の背中が重なっています。

そして、最初に来た時にも感じた、スッと周りの空気が静謐になったような感覚も覚えています。

母が去った後、夫とサンフランチェスコ大聖堂を見に行き、ジオットのフレスコ画に大きな感動を受けました。その時は、長い間鑑賞することができず、次回ゆっくり見にこよう、そう思いました。

1997年の地震で大聖堂の屋根が壊れてしまった時には心を痛め、何かの理由で近くを通るたびに、あの素晴らしい大聖堂をもう一度見に行かなくちゃ、と思いつつ、それから25年以上が経ちました、

そんな思い出のあるアッシジに、先日行ってきました。

将来のトスカーナ移住計画の第一弾として、年間契約で借りたトスカーナの家からアッシジまで車で約1時間。10月にトスカーナに通うようになってから、アッシジのことはずっと心にかかっていたのです。すぐに会いにいけない特別な恋人みたいに。

先日、突然、居ても立っても居られないほどサン・フランチェスコ大聖堂のジョットのフレスコ画を見たくなって、翌日訪問しました。

コロナ禍とシーズンオフ、両方の要因が重なったせいか、アッシジは人気もなく、人の多いところが大嫌いな私には最高の状況でした。この10年くらいのイタリアは、どこに行っても驚くほどの観光客で、観光地には行くのが嫌で、いつも避けていました。幸か不幸か、コロナ禍以降は観光地にも人が少なく、観光業の人には申し訳ないけど、イタリアが昔の美しさを取り戻したと思っています。

本物じゃないものを売る土産屋さんや、ファーストフードみたいな店は閉まっていて、もしかしたらもう開かないかもしれない。こんなことを言ったら怒られちゃうかもしれないけど、何百年もの間、人々の大変な努力故に美しさを引き継いできた町には、安っぽい店舗や道に座ってものを食べるような観光客は、消えてしまっても良いと思うのです。

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ガラガラの駐車場に車を停めて、人気のない坂道を上がりながら、なんて美しい町なのだろう、と心臓がドキドキしました。イタリアでは、名前も知られていないような小さな町でも、その美しさに感動することはよくありますが、アッシジはやっぱりトップクラスです。

そして、大聖堂前に立った時、うまく何かが思い出せない時のように胸がむずむずとして、一気にあの時の思い出が蘇りました。

大聖堂に続く細長い道と広場の緑。

あの時の風景と風と母の背。

あの時の私と今の私、あの時の母と今の母、同じ人間なのに全く違う私たち。
それは、歳をとった、ということだけではなく、時間と共に、全く変わってしまった私たち。

何も分からずに、世界の中心で踊り出したいほど元気に溢れていた私と、多分色々な事がわかり始めてきてイタリアまで来ていた母。そんな何もかもを全部忘れてしまった現在の母と、30年前の自分を遠くから眺めている私。

何も変わらない風景の中で。
あらゆる被造物を愛したサン・フランチェスコが生まれたこの地、800年も前に建てられた時から何も変わらないアッシジの大聖堂の前で、過ぎ去るものと残るものに思いを馳せました。

イタリアを旅していると、時間と共に過ぎ去るものと残るものをよく考えます。

エトルリア時代(紀元前900年から100年頃)、ローマ時代(紀元前753年から紀元後476年)の遺跡や遺物があちらこちらにあり、1200年代や1600年代建築物がたくさんあります。

そして、何百年も変わらない風景がたくさんあり、人々はそのことをとても誇りにしている。

例えば、ミラノのような都会でも、1960年代以降の高度成長期に建てられた住宅は「新しい家」と呼ばれ、1900年の初め以前に建てられた優雅な集合住宅に住むことを望む人が多いのです。
古い家を改装し、それでも床や天井の装飾等はできるだけオリジナルを残すために、新しいものに変えるよりも費用をかけて修復し、快適に住んでいる人たち。

古くなったからと建築物を壊してしまうということはほとんどありません。
今では、郊外に斬新の新しいデザイン集合住宅が建ち始めていますが、さて、100年後も美しいかどうかはわかりません。

イタリアにいて、時代を超えてつながるものに常に触れていると、自分は、長い歴史の中のほんの一瞬の小さな空間を次につなげるために生を受けたことを自然に感じるようになります。それはまた、自然や歴史に対する畏敬の念にもつながり、イタリア人が自然を愛し、古い街並みを愛し、自分達の歴史を誇りにするとともに、自分が受け継いだものを次時代につなげることにとても熱心であることの意味がわかります。

私も母も、私たちの生活も、社会も大きく変わってしまったこの30年。何百年変わらない風景と建築物を前にして、そんなことを考えた1日でした。

追記
ジョットをはじめ、ロレンツェッティ、チマブーエ、シモーネ・マルティーニ等の傑作で知られるサン・フランチェスコ大聖堂のフレスコ画、今回こそはじっくり見ようと思って行ったのですが、先に入った下層階で、あまりの美しさに圧倒されて、どこを見て良いのか分からなくなり混乱してしまい、うまく鑑賞できませんでした。
アートだけではなく、建築や、人の美しさまでにも感動してしまう私は、あまりの美を前にすると混乱してしまうことがよくあります。一つの作品だと、その前で動けなくなって他の感覚を失いしばらく呆然としながらも作品の鑑賞はできますが、今回の場合はあまりの量と迫力で、混乱してしまったのだと思います。
少し心を落ち着けて、また近いうちに作品の鑑賞に行きたいと思っています。

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