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木皿泉『カゲロボ』を読んで感じたこと。#読書感想文

無邪気さは時に罪になる、とは誰が言った言葉か知らない。
が、確かにそういう側面はあると思う。

私が子供のころ、両親が離婚した。母の方についていくことになり、その代わり年に一度、お正月の時にだけ父方の実家に行って父と対面するだけの生活が長年続いた。でもある時、「今年はもう父の実家には行かない」と告げられ、私は母の実家で正月三が日を過ごすこととなった。なんで?どうして?毎年あんなに楽しみにしていたのに、今年は寝正月なの?と、解せない私は母親に食い下がって何度も何度も尋ねた。

そんな私のしつこさに母は堪忍袋の緒が切れ
「そんなに嫌ならアンタだけどっか行けば!」
と、人目もはばからず私を怒鳴った。

今の自分なら少しぐらいはその気持ちも汲みとれる。結局一番つらいのは母だから。たぶん、私の知らないところで母も傷つき、心で涙を流していたのだと思う。でも、子供のころは純粋に父方の実家に行くというイベントが楽しくて、いつも心待ちにしていた。そのイベントを急に奪われて、頭にクエスチョンマークが浮かばない訳がないと思うのだ。

自分があの時食い下がって何度も尋ねてしまったことが、今でも心に引っかかっている。「もっと自分でしっかり考えて、分かってあげられればよかったのに」と。


木皿泉の『カゲロボ』。

ドラマ『野ブタ。をプロデュース』『すいか』などの脚本を執筆したことで知られる夫婦作家が手掛けた、連作短編集である。

『カゲロボ』とは、この作品の世界の中でまことしやかにその存在が噂されている、人造ロボット。国が多くの学校・会社・家庭に投入し、いじめや虐待が起きていないか監視をしている・・・らしい。そんな『カゲロボ』の存在に心をざわつかせ、子供たちが、あるいは大人と子供が、エゴと心をぶつけあっていく9つの短編で構成されている。

大人の思い込みが引き金になってどんどん翻弄されていくいじめの当事者たちや、我が子をどうしても育てたいという離婚夫婦によって振り回される娘など、本人たちの意思と無関係に荒波に飲まれる子供たちが、この作品の主人公にはとても多い。なので、そういうオトナのエゴに振り回されていった、という面では非常に共感できる人物が多くて、つい入れこんでグイグイ読み進めてしまった。途中からは完全にひとつひとつの短編の世界に没入して、行きつく間もなくすべて読んでしまった。

すると今度は前半に出てきた主人公が、後半の作品で大人になった姿で現れたり、過去の因縁が尾を引いた話になっていたり、入れ込んで読んだ者をさらに揺さぶるようなストーリー展開がなされていて、そういう細かなギミックにも心を揺さぶられた。


結局、カゲロボが存在するのかどうか、そのことは明確には明示されない。しかし、カゲロボの存在を噂した者、された者の中にその存在は確実に記憶され続けて、同時にその話が持ち上がった時に自分の身に降り注いでいた噂やいじめの記憶というのも、まとめてパッケージされている。それが人生の要所要所で封印を解かれ、自分の足かせになってくる。

結局、「無邪気の罪」が人間の記憶の中で一番根深く残り続け、人生の最後まで尾を引き続けるのではないか?と私は思わざるを得なかった。

先生や親の言うことを無邪気に鵜呑みにしていれば、それでよかった子供時代。でも、決してその言葉の中に真実があるとは限らない。ひょっとしたら、何かの拍子で真実を知ることになるかもしれないし、もしかしたら一生死ぬまで知ることはないのかもしれない。

問題は、自分が抱えた無邪気さゆえの苦しい記憶や罪の意識を、どうやって自分の中で咀嚼していくのかにかかっているのだと思う。あの日自分が幼いながらに感じた申し訳なさ、苦しみを、人生の糧にするためには何をすべきか。

私はこの本を閉じ、ゆっくり目を閉じ
自分の幼い頃を反芻したのだった。



おしまい。



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