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共感を拒み、理解を求める私の芸術

人受けのいいもの、人に評価されるもの。そう言ったものを書いていたら、自分ってものが消えていった。

人に見られる事、評価される事。そればかりを思って、物を書いたり、形あるものを作っていたら、そこから自分ってものが消えていった。

表現とは、自分あってのものだけれど、その自分がいつしか自分から消えていった。

みんなに見られるために、皆に理解してもらう為に、こうした事に必死になって、私は私を失っていった。自分を失っていった。

人受けのいいもの、人に評価されるもの、人に求められるもの。そういったものを書いていたら、私は自分の言葉を持って文章を書く事が出来なくなった。

人に求められるものばかり作っていたら、自分が何が作りたかったのかがわからなくなった。あれだけ、自分で作りたいと思っていたものがあったのに、それが何も見えなくなった。もっといえば、作るという事に対する情熱ってやつもどこかに行ってしまった。

何を書くにも、何を作るにも、そこにはいつも喜びがあった。でも、人に求められるもの、評価されるもの、そう言うものを書いたり、作ったりするようになっってからは、その楽しみが苦しみに変わった。

皆に評価される様になると、自分の事を理解してもらえたそんな気がして、私はどんどん傲慢になった。

そしていつからか、私は、自分を評価しないものに対して批判的な目を向ける様になった。

私は醜い人間になった。創造を通してより人間らしい生き方を目指していたはずの私は、人間としてより醜い存在へと落ちぶれた。

表現とは、他人に評価される為に、他人に見てもらう為にするものじゃない。他人を軸にした表現は必ず死ぬ。これは嘘じゃない。

芸術とは他人との間に交わされた対話じゃない。自分との間に交わされた対話だ。

芸術。それは自分との間にしか成立はしない。他人との間に、芸術というものが成立し、その芸術をその他人との間に共有する事が出来るなら、それは真の芸術とはいえない。

芸術とは究極的な自分との対話であり、それは誰とも相いれない。私との間にあるもの、発生するもの、それが芸術であり、それを他人とわかり合う事など絶対に出来ない。

他人に共感出来るものは、芸術ではない。私とあるものの間になされる対話から生み出されるもの。それが芸術である。これは私の芸術論。

芸術とは他に共感される事を拒み、そして、他に理解を得る事を望む。


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