誰かに"期待"するのをやめること

長野県下伊那郡阿智村の満天の星空は、日本一綺麗だと言われている。私も見に行ったことがあるか、結構前の話だ。変な話だが明日死ぬと言われたら間違いなく最後に見たい景色はあの星空だろう。そんなことを考えながらさっきまで畳の上に寝転がって、死ぬ前日に何がしたいか、何が食べたいかをずっと考えていた。


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"期待"をそもそもしなければ裏切られることはない、そんなことは分かりきっている。だがそれでも私は他者に期待してしまう。
以前別のnoteで「"うまく生きている人"がどういう生き方をしているのか」について私なりの考えを述べたことがあるが、周囲でうまく器用に生きていそうな友達を見ていても、やっぱり"他者に過度な期待をしないこと"はうまく生きるコツの1つのような気がしている。

他者に期待される(期待してもらえる)人間というのはどういう人間なのだろう。生まれながらのセンスを持っている人か、天才か、努力家か、伸び代がある人か。
まぁそもそも誰にも期待されない人間なんてごくわずかなのかもしれない。世の中の多くの人が良い意味でも悪い意味でも「親」という存在には期待されているような気がする。

私自身親に期待してもらえることは幸せなことだとも思っているが、過度に期待されればそれは重圧である。それに期待される理由も大事だと思っている。親が 自分自身にある程度自信があって、「自分たちの子供なんだからあなたにもできるでしょ」なんていう期待のされ方は嫌だし、「自分たちに叶えられなかった夢を叶えて欲しい」なんていう親のエゴのような重圧のかけられ方も嫌だ。後継としてふさわしい子供に....なんていう決められたルートに沿って歩く人生を送ってほしいという願望の押し付けも嫌だ。(わがままなのかもしれないが)

人は親になったら嫌でも自分の子供に期待をしてしまうのだろうか。
もちろん良い意味で自分の子供の成長を願って期待するのは良いと思うが、時にそれは子供にとって大きな負担となっていることを忘れないでほしいとは思う。そしてその"期待"が親自身の過去の後悔を消すため....というような目的になっていないことも願いたい。



話は戻って、人はどういう理由から他者に期待をするのだろう。(ここでの「期待」は、家族間(親子間)での期待は除くものと考える。)
自分ができなかったことをこの人なら成し遂げてくれるかもしれない.....!なんていう、相手のことを尊重しているように見えて 実は自分のために誰かに期待をしているのかもしれない。
あるいは自分に自信がないからこそ他者に期待をするのかもしれない。自分の不安な気持ちを消すために。期待されて失敗して傷つく自分から逃げるために。
あるいは相手を「信じて」いるからこそ期待をするのかもしれない。昨日のnoteで書いた芦田愛菜ちゃんの話のように、相手が自分の期待を裏切ったらその相手との関係を切ってしまうかもしれないのに。相手の見えなかった部分が見えてしまうかもしれないのに。



人は自分が傷つかないために誰かにすがって、誰かに期待をするのかもしれない。期待してもらえて.....だけど失敗して、自分が傷ついてしまうのが怖くて。誰かの期待を裏切って、周りの人を傷つけてしまうのが怖くて。1度期待を裏切ったら、もう2度と期待してもらえないかもしれない....と怖くて。

そう考えたら"誰かに期待をする"ことは人間が自分自身を守るための身勝手な営みとも言えなくはないな〜などと今の私は考えている。


だからこそ本当は誰に対しても私は期待をしたくないのだ。自分が傷つかないためにも。自分がショックを受けないためにも。

期待した自分がバカだった、なんていう台詞を時々耳にする。結局人間は、最初から誰にも期待しないほうが幸せなのだろうか。負の感情を味わわなくて済むのだろうか。


誰にも期待せずに穏やかに生きる人が、"うまく生きている"人なのだろうか。