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肯定することより否定することの方が難しいのか?

雪が降ったら急激に寒くなった。家の水道水が衝撃的なほどに冷たいけれど、感染症対策として手を洗うのが妙に癖になってしまってなかなかやめられない。
そう考えるとパソコンのキーボードほどウイルスにまみれているものはないんじゃないか....なんて思ってしまったり(笑)。



SNSやnote、ブログなどにおいて誰かの意見に対して「肯定すること」より「否定すること」の方が難しいものだろうか?

もし答えがYESだとしたら。その理由は例えば
・批判する際の方がコメントを慎重にしなければいけないという気持ちになる。隅々まで読んで相手の言いたいことを理解しないと、意味の分からないor的外れな批判になってしまうかもしれない。
・そもそもの「勇気」の問題。肯定コメントをするよりかは否定コメントをする方が勇気がいる。相手を不快な気持ちにするかもしれないし。関係が悪化するかもしれないし。怒りにまかせて言わなくても良いことまで言ってしまうこともある。SNSだからこそ。

もし答えがNOだとしたら。その理由は例えば
・肯定も否定も意見は意見であり、誹謗中傷とは別物である。どちらが難しいとか簡単とかはない。
・相手も自分とは異なった意見の人がいると分かった上で(ネットリテラシーのある人なら)書いているわけだから、否定や批判を行うことに抵抗を感じる必要性はない。
・SNSなんだから思ったことを自由に言えばいい。感情的になりすぎなければ批判的意見だってきちんと受け止められるはずである。

などが挙げられるだろうか。


私個人としては「否定する」ことの方にハードルの高さを感じる。
別に私とその文章を書いた人の意見が違っていて、私の意見をそこで伝えたところで相手の意見は変わらないかもしれない。
批判的意見もあると分かっていながら自分の意見を理路整然と並べ伝えようとしている人に わざわざ批判的意見を伝える必要性を感じない。
批判するとどうしても「自分の意見や価値観を相手に押し付ける」感じがしてしまう。(言い方によると思うが)
あるいは相手も否定的意見のコメントがきたときに返信に困るだろうと考えわざわざ言わない、なんていう理由もある。

そもそもSNSによっては"コメントをする"こと自体がハードルが高い場合もある。
私はnoteでコメントというものを全くと言っていいほどしない。(もちろんいただいたコメントに返信はするけれど)
それはわざわざ相手に伝えるほどの意見ではないという風に自分の意見を評価しているからで、相手の文章を読んで感じたことや考えたことは自分の頭の中や手元のメモに書くにとどめておけば十分だな、と思うからである。

言ってみればnoteは正直「コメントのハードル」は高いと思っている。何かに対して自分なりの意見を丁寧に書いている人ほど、文章がまとまっていてわざわざそれを短いコメント欄で否定しようと思わないのだ。

否定するのに「勇気」と「覚悟」が必要な気がしてしまう。
書き手側が文章を書くために"考えた"分だけ、批判するなら尚一層読み手側も"考えて"コメントを書かなければいけないように感じている。

もちろん肯定も否定も自由なわけで。誹謗中傷であったり相手を不快にさせたりするコメントでなければOKなわけで。
ただ個人的にはやっぱりハードルが高いなぁというわけだ。



話はそれるが「相手を不快にさせないコメント」や「相手を傷つけないコメント」をしてはいけない、と言われても意外と難しくないですか。

もしかしたら批判的意見や相手の主張に対する反論で相手は悲しんでいるかもしれないし、人間性まで否定されたような気分になっているかもしれないし、心に引っかかっているかもしれない。

結局SNSでもnoteでも書き手にとって読み手の顔は見えないわけで。
それはでも「あたりまえ」なわけで。
それとどう向き合っていくのが正しいのだろうね。

文字だけで、言葉だけで、自分の考えを伝えるのは難しい。
自分の考えていることのうちの何割が、正しく相手に伝わっているのだろうか。