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【本棚から一冊】バスラーの白い空から

『バスラーの白い空から』
著:佐野英二郎
出版:青土社(2004年)

この年になれば、どんな人の人生も光りだけで成り立っているのではないことを、知っている。どちらかといえば、別れ、喪失、失意など影の部分が多くて、それに苦しみ、悲しみ、もがき、あるいはなすすべもない瞬間があるけれども、でもだからこそ安らぎを抱え込んで生きていける。本書はそんなことを感じさせてくれる。

*   *   *

大手商社の社員として20年近い年月を海外で過ごした「私」。その生活の中で失った妻への思い、愛犬との出会いと別れ、西アフリカ、西アジア地域の人々との交流が、哀惜とともに描かれる。

米国での生活が6年目に入ろうとしたとき、妻のたっての希望で犬を飼うことにする。息子がバッハと同じ誕生日だと気づいて、「ヨハン・セバスチャン」と名づける。しかし、セバスチャンとの穏やかな暮らしの中で、「私」はある不吉な予感を抱く。

 しばらくしてからの或る夜、セバスチャンを抱いていた私は、奇妙なことに気がついた。彼の胸のあたりの黒い毛の中に、白い毛が十文字を描きながらうっすらとうかび上っているのだ。私は何かの凶兆のようなものを感じた。この黒地に白の十文字は、わが家に不吉をもたらすのではないか。
 だが、北米の豊かな春は、そして忙しい毎日の仕事はこのような些細な懸念を直ぐ忘れさせた。本当におそろしい気持ちで私がこの夜の予感を思い起こしたのは、それから何年も経ってからのことだ。

・・・中略・・・
・・・彼が二歳の誕生日を迎えようとしたころであったろうか。或る夜、突然庭のはなみずきの満開の花が全部一度に散り果てるのを見たような気がした。暗い夜空に白の十文字が音もなく大きく流れるのを。

「わがセバスチャン」15、17、18ページ

その後、仕事でいくつもの大きな困難が「私」を襲う。そして、妻が癌でこの世を去ってしまう。「私」が関西勤務になったのを機に、セバスチャンとともに関西へ移り住む。

関西は新婚の一時期を妻とともに過ごした地であり、週末、奈良の寺を訪れては、夢うつつのなかで亡き妻を偲ぶ。

今にして思えば、あれらの週末は、私の快復期に相当していたのだろうか。随分と遠いところまで、妻のたましいに同行して、私もまた随分遠いところまで行ってしまっていたと今にして私は気が付くのだ。

「私の週末」106ページ

とはいえ、妻を失ったかなしみはそう簡単に癒えるものではなく、妻が育った六甲山を見ながら涙があふれてくる。

その後、セバスチャンとともに東京に移り3年ほどを過ごすが、西アフリカの勤務が決まる。セバスチャンを米国で暮らす息子に預けて赴任する。赴任が突然1年で切り上げられ、再び米国勤務となる。米国で1年を過ごし、また東京勤務となるが、このときは息子のもとにセバスチャンを置いていく。

今度は「私」が妻と同じ病で入院手術をすることになり、心配した息子がセバスチャンを連れて、東京にやってくる。互いに再会を喜びながら、「私」は自分の病をも含めた不幸な一連の出来事を思う。

   彼の胸の十字はわが家にさまざまな不幸をもたらしたのかもわからない。だが、私は思うのだ。今日一日こうして生きていることが出来るとは、何と幸福なことではないかと。この喜びも彼が運んできてくれたのだと。
   私どもはこうして再びもとの暮らしに戻ることが出来た。めでたし、めでたし。


「わがセバスチャン」25ページ

「僕(私)」とセバスチャンはまた関西に移り住み、数年を過ごすが、いよいよセバスチャンが最期を迎える。自身の病の診察でどうしても東京に行かなくてはならない日、自宅に食べ物と水を用意しておき、静かにそのままに逝かせるようかと考える。

青春時代を戦時下に過ごし、妻を亡くした「僕(私)」にとって、死は親しい人たちのもとへ行くことだと理解はしていても、セバスチャンに最期をどう迎えさせるべきなのか、なかなか決心がつかない。

結局、獣医に預けて東京へ行くのだが、そんな「僕(私)」の思惑など素知らぬように、「二声、三声別れの挨拶をしたあと」、「僕(私)」の腕の中でセバスチャンは息をひきとった。瞼を閉じてやりながら、妻が亡くなったのも同じ秋の夜だったことを思い出す。

そのときの詩情あふれる文が胸を打つ。

   深まりゆくこの関西の秋の夜空を満月が渡っていった晩から数日あとの夜更けのことであった。庭の芙蓉と、その影の萩の白いむらがりに、その夜もやはり月のひかりが一面に散っていた。僕は思い出すのであった。十何年かのむかし、同じような十月の月の大きな夜、ひとりの死者のまぶたを閉じ合わせたときのことを。そうであった。おまえのお母さんが瞼を閉じたのも、この季節であった。

「セバスチャンが死んだ夜」48、49ページ


本書はいつくかの掌編から成っているのだが、本のタイトルとなっている「バスラーの白い空から」も、亡き妻やセバスチャンとの思い出とは別のかなしみにあふれている。

「第二次世界大戦が終わってから十年あまりたって、地球上の大きな騒ぎがひとまずおさまり、人々が戦争のことをようやく忘れかけたかのように見えた、あの不思議に穏やかだった一時期」(60ページ)、「ぼく(私)」はメソポタミア北部でつくられている穀物を買付けて、神戸港行きの船に積み込むという仕事のために、バスラーで冬の数ヶ月を過ごす。

バスラーとは「船乗りシンドバッドが真っ白な鸚鵡をその肩にとまらせながら帆船から降り立った桟橋」(59ページ)とあるのだが、あまりイメージがわかなかったので地図で調べてみると、世界史で習ったチグリス河とユーフラテス河が合流して一つになった河の港町で、イラクのほぼ最南端に位置する。

そこで様々な人たちに出会う。日本語を話すスウェーデン人の若い船舶技師。それまでの歴史の中で国をうしなった床屋の年若い主人や新婚の洋服屋。不時着した軍用機から降りてきた米国空軍の操縦士と機関士たち。そのほか、欧米諸国からやってきている「明らかに大戦中どこかの遠くの海に、長い間、出ていたような匂いを持ち続けている人たち」(65、66ページ)。

先の大戦を経験した人たちか、この先もいつなんどきの戦争によってどうなるかわからない身の上の人たちばかりなのだ。

床屋の年若い主人は、黒海の内陸に位置する由緒ある地域の出身であるが、国としてはすでになく、その憂いをいつも表情に浮かべている。友人一家がその出身の地に帰っていくことを決めた際、彼は写真を送るよう(手紙では検閲されてしまうため)に依頼する。故郷の地で幸せなのであれば、木の下で立っている写真を。もし不幸であれば、木の下で座った写真をと。

   数ヶ月たって彼が受け取った写真の中で、友人は大きな樹の下で、何と、弱々しく横たわっていたというのである。座るだけでは伝えることが出来ないほどの、大きな不幸に打ちのめされていることを知らせたかったのであろうと、床屋は言うのであった。帰るべき土地に帰ることは諦めたと。

「バスラーの白い空から」(64ページ)

戦争や各国の政治の思惑の中でとりこぼされていく人々の、今なお続くかなしみを「ぼく(私)」は忘れることができない。また、不時着した飛行機の操縦士と機関士たちに対しても、次のような感懐を抱く。

   彼らには戦争の匂いなど全くなかったが、その後数年の間に、世界の様子は非常に大きく変わっていったから、彼らの中の何人かは、そのうちにいろいろな国の空を飛ぶことになったであろう。それらの暗い空を、恐ろしい顔をして、高くひくく飛んだことであろう。そして何人かはその空から撃ちおとされたであろう。

同上(69ページ)


戦後の大手商社の社員といえば花形の職業であるけれども、ここで語られているのは、いわゆる商社マンとしての手柄話や武勇伝でもなければ、異国の地で体験した文化や風習でもない。商社が商材を買い付けるのは、経済的にも政治的にも過酷な状況にある国や地域というのを聞いたことがあるが、そこで出会った人々のかなしみとその堆積に心をとめ、これからおきるであろう不運を思いやる。

「ぼく(私)」は戦時中、海軍の人間魚雷「震洋」に乗り込む訓練をうけたが、出撃することなく終戦を迎えたと、本書をまとめた詩人中村稔氏による「後記」にあった。本書の中では、「1944年 春」という掌編で海軍入隊前の友人との思い出が時代の空気とともに語られるだけで、直接的に戦争の体験が語られることはないが、多くの友人、知人を失い、人間魚雷としての訓練を受ける中で経験したであろう、人が人でいられなくなることのかなしみが、おのずと人生の影に目を向けさせていたのではないか。

そしてそんなかなしみを抱えながらも人は生きていくこと、生きていけること、生きていることそのものに価値があると思っていたからこそ、セバスチャンの胸に浮かんだ十文字がもたらしたかもしれない度重なる不幸の中に自身があっても、セバスチャンとの再会を喜び、「今日一日こうして生きていることが出来るとは、何と幸福なことではないかと。この喜びも彼が運んできてくれたのだと。私どもはこうして再びもとの暮らしに戻ることが出来た。めでたし、めでたし。」(再掲)と結んだのではないか。

* * *

本書のそれぞれの掌編は、1988年〜1990年に書かれている。バブル経済が絶頂期を迎えているころで、大学時代の先輩たちも、海外と取引ができると意気揚々と大手商社に入社していった。

あのギラギラした時代にこのような静かでかなしい文章を書く人がいたこと、その価値を見出しこのような本にまとめ出版した人がいたことに驚く。1992年、2004年、2019年3月と何度も新装されながら出版され続けているのだが、私が持っている2004年の装丁版ではその帯の背の部分に「凛冽の抒情」とある。

たしかにセバスチャンの最期を語る文体もそうであったように、感情を厳しく抑制して状況を語りながらも、季節の移ろい、自然のはかなさなど、漢詩、和歌、外国文学の詩歌を思わせる言葉で情景を語ることで、よりいっそうそのかなしみが胸に迫ってくる。

著者の本をもっと読んでみたいと思ったが、癌の全快目安の5年を無事に過ごしたものの、ここに収められたいくつかの掌編を残し、喘息の発作で1992年の春に亡くなったという。

「四季を通じて月の光がたゆたうなかに山百合が咲く」「黄泉の平原」(53ページ)で、奥様とセバスチャンとともに、穏やかに暮らされていることを願う。


↓こちらは2019年に新装されたもの



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