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水仙は、心の静寂清明な一点を映し出す

連載シリーズ 物語の“花”を生ける 【プロローグ】はこちらから

第5回 月光は受話器をつたひはじめたり越前岬の水仙匂ふ(葛原妙子)

年末に喪中の葉書が届くと、年明けの松の内を過ぎるころ、銀座の鳩居堂へ足を運ぶ。

葉書や手紙を書くことはめっきりへったし、年賀状も今はWebサイトで注文して、それぞれの宛名ごとに個別のメッセージを書くこともできるので、手書きすることもなくなった。

それでも喪中葉書に対する寒中見舞いは、季節の葉書をえらんで薄墨の筆ペンで書いている。これだけは、何かそうしなければならないような気がするからだ。

銀座鳩居堂。バブルのころは日本で坪単価が最も高い一等地として名を馳せ、この10年ほどは、いわゆる“日本風” “和風”なお土産物を求める外国人観光客でごった返していた。昨年わきおこった世界的な感染症の流行で、そんな喧騒も少し落ち着き、季節の移り変わりとともにある人の心を表現するための道具屋として、本来の姿を取り戻していた。

店を入ったなかほどのところに葉書のコーナーがあり、桜までの季節は、梅や春山茶花、福寿草、雪待草、蝋梅、寒桜、雪景色、節分にちなんだ絵柄が多数用意されている。一枚一枚手漉きされた和紙、手書きあるいはシルクスクリーンで刷られた風合いの絵柄に、季節を感じているようで感じていなかった年末年始の慌ただしさを思った。

毎回行くたびに、棚の端から端まですべての葉書を一枚ずつ、大人買いしてしまいたい衝動にかられるが、そこはグッとこらえて、喪中の返信に必要な分と眺めたり額に入れて飾ったりする分だけを買うことにする。

ふと、竹で編まれた平な丸いがごに摘み取られてきたばかりの水仙が描かれているものを手に取った。

月光は受話器をつたひはじめたり越前岬の水仙匂ふ

月光が受話器につたう?そんな発想、どこから出てくるんだろう?
越前岬の水仙となんの関係があるのだろう?

水仙にかかわるものを見るたびに、歌人葛原妙子のこの歌が頭を駆け巡り、それまでに思ったこともなかった発想に、思考が飲み込まれそうになる。

* * *

散文では決して出会うことのない言葉同士が出会う場所

アロマテラピーを習っているとき、エッセンシャルオイル(精油)をブレンドすることの醍醐味は、生物学上の生態系では決して出会うことのない植物同士が巡り会い、香りや薬理効果などのさまざまハーモニーを奏でることだと聞いた。

たとえば、寒冷の高山地帯で生育するラベンダーと、熱帯雨林地域で生育するイランイランは、同じ場所で咲くことはできない。けれど、アロマテラピーという枠組みのなかでは、花たちはエッセンシャルオイルとなって混ざり合うことで、相乗の芳香や薬理効果を実現する。

ある詩人が、詩歌は散文のうえでは決して出会うことのない言葉同士が出会うことによって、散文では表現しえない豊かなイメージの世界をつくることができるといった。

小中高時代、国語の授業で詩を鑑賞する時間が苦手だった。あるとき、詩をつくって隣の人と感想を言い合ったり、添削をしたりする時間があったが、相手の詩を普通の作文のように直して、先生にあきれられた。大学でも和歌や俳諧を学ぶ授業が正直あまり好きではなく、成績もふるわなかった。

そんな苦手意識が幼いころからあった詩歌なのだが、アロマテラピーのブレンドの考え方をきいたとき、十数年以上も前にきいた、理解することも、思い出すこともなかった詩人の言葉がわきあがり、からだにすっと沁み込んだ。

ここ数年、花をいけるようになって、いっそう詩人の言葉が思い出される。決して自然界では出会うことのない花々、草花、木枝、枝花が、人の手によって一つの小さな花器に集められ、いけられることで、自然界とはちがった広がりや奥行きをもった世界をつくる。詩歌もそういうものなのだろう。

ほかの分野での経験をとおして、そんなことが理解できるようになってからは、詩歌を読む時間もだいぶ増えた。言葉同士の連なりやつながり、音やリズムでイメージの世界を膨らませると、息を吸うと肺が大きく広がるように、頭の枠が広がったような感覚になり、心身ともにリラックスする。論理的なものや散文を読むと、息を詰めて、頭の枠を絞り込んでいく感覚があるのだけれど、どちらがいいというのではなく、両輪なのだろう。

やっと詩歌が楽しめるようになった矢先、あの歌が目に入ってきた。

月光は受話器をつたひはじめたり越前岬の水仙匂ふ (※)

散文的な意味の理解ではない、イメージだといくら自分にいいきかせても、この歌の前では魔力を失った呪文のようだった。とくに「月光は受話器をつたひはじめたり」という部分は、詩人がいうように、散文では決して成り立たない、詩歌ならではの発想ではあるが、未曾有であまりにも破壊的な発想だったため、イメージすらわかない。

しかし同時に、ひたひたと冷たく透きとおった何かが伝わってくる。イメージとして像を結ぶことはできないけれど、感覚としてならつかめるものがあるかもしれない。そんなおぼつかなさを頼りに、歌と向き合ってみる。

これが伝統的な和歌なら、主となる言葉が古来どんな意味やイメージをもったもので、和歌のなかでどのように使われてきたのかを調べ、その流れのなかで歌の独自性などを探る。でもこれは現代の短歌で、五七五七七という形式以外、古来の和歌とは異なるものなので、その手の調べ物は意味がないような気がした。

一方で、作者の評伝を読んだり、ほかの歌を調べたり、同時代のほかの作家の作品にふれたりすることもあるが、そうするとわかったような気になって、自分自身で歌と向き合うことをやめてしまう。あるいは評伝の執筆者や学者たちの解釈に引っ張られて、自分なりの考えが出なくなってしまう恐さもあった。もうしばらく、そのようなものとは距離をおいて、この歌の大海のようなつかみどころのなさに、身をゆだねていたいと思った。


雪国の岬に咲く「水仙」につながる「月光」

初句の「月光」という言葉を考えるとき、一つの情景を思い浮かべてみる。

数年前、あるピアニストの船上リサイタルに参加した。船上リサイタルといっても、映画『船上のピアニスト』に出てくるような豪華客船のものではなく、個人が所有するクルーザーで十数人がやっと乗れるくらいの小さな船に、ピアニストの知人や友人、長年のファンを集めた内輪のリサイタルだった。

たしか朝早く浦賀を出港して、昼をだいぶまわったくらいに真鶴に到着。下船して宿で夕食をとった後、19時過ぎくらいに再び船に乗り込んだ。すでに真っ暗で、夜の暗さと海の黒さの境目が、泡立つ波でかろうじてわかるくらいの闇夜だった。

デッキにはちょっとした宴席が設けられて、それぞれがお酒や飲み物を手にしながら、ピアニストの出演を待った。夜の海は初めてではないけれど、それはいつも浜辺やおかにある宿から眺めるもので、海のなかにいるのは初めてだった。しかもこんな小さな船で。

昼間あれだけ大きな海を渡ってきたときは、進んでいる方向がわかったので、その小ささは気にならなったが、これだけ真っ暗になってみると、方向がまったくわからない。燃料の関係か雰囲気の演出なのかわからないけれど、船も裸電球一つの灯りをかかげるだけで、この闇の前には申し訳程度ともいえないようなものだった。

何かが途切れたようなシーンとした間があって、ドビュッシーの「月の光」が流れてきた。ピアニストは月の光に照らし出されて、闇に浮かび上がる。光が投げ込まれた海は、紺と群青が混ざり合ったような、奥行きのある明るさをともなった色に変わった。

月はいっそうはっきりと見える。冴え冴えといってしまうのが惜しいくらい、清らかさもいさぎよさも透明感も、それゆえの冷たさも厳しさも残酷さもそなえていた。

月の光の姿はいろいろあり、これがすべてではないとは思うものの、あの歌の「月光」は、雪国の岬に咲く「水仙」につながるものであるとき、「受話器」から伝わってきたのは、このようなものではなかったか。

「受話器」ときいて、現代のスマートフォンや携帯電話を思い浮かべる人はいない。ここでいう「受話器」とは、プッシュフォン以前のダイヤル式の黒電話の受話器のことだろう。中高時代、長電話をしていると、その重さが腕にこたえたものだが、このような「月光」が、重い黒い受話器をとおして、じわじわと、ひたひたと伝わってくるのを想像してみる。

誰かとの会話から月光が伝わってくるのだろうか。幼いころ、受話器は別世界への通路とつながっているような気がして、ときどき、誰かに連絡をするというのではなく、受話器を耳にあててみたことがある。

「越前岬の水仙」は、歌の主人公が買ったか、貰ったか、摘んだかした目の前にある実物の越前岬の水仙なのか、それともイメージのなかのもの、あるいは思い出のなかのものなのか。

受話器をつたって月光が体内に流れはじめると、いつのまにか水仙とその匂いに囲まれている。ここはあの越前岬なのか。岬を照らしている、清らかで透明で、でも冷たくも厳しくもある月光は、自分のなかに流れてきた月光なのか。

こんな世界を想像してみたところで、少し調べ物をしてみる。


むきだしになった五官で感じた、言葉にならない何かを言葉にしようとする営み

福井県の越前海岸には日本有数の水仙群生地がある。日本海に面した荒々しい断崖に凛と花を咲かせることから、厳しい雪国で暮らす人々は花の姿にみずからをかさね、県の花に指定しているという。

併せてこの歌の作者葛原妙子の経歴を紐解いてみる。『コレクション日本歌人選070葛原妙子 見るために閉ざす目』(川野里子 笠間書院)によると、1907年(明治40年)に東京で生まれ、3歳のときに、父親の都合で福井県の伯父のもとにあずけられたという。戦前、3人の子を得てから作歌活動を始めるが、当初は良妻賢母的な穏やかな歌が多かった。

戦時中、疎開先の長野で厳しい寒さや飢えを体験してからものの見方が一変し、作風も変化していった。戦後、短詩型文学の戦争加担に対する批判・反省と新たな表現を模索する流れのなかで、葛原妙子は「身体の感覚を通じて世界を感受するという方向」を手がかりにしたという。

残念なことに、本書には「月光は・・・」の歌は収録されていないのだが、巻末に収められている次の解説を読んで、深くうなずいた。

  原牛の如き海あり束の閒 卵白となる太陽の下
 こうした歌は、風景とは言いがたく、視覚に集中した写生の方法とは明らかに異なる。また観念で構築した塚本邦雄の人工美とも異なる。世界の感受の仕方自体が直感的であり、身体感覚を介していることが感じられよう。その違いを方法として語ることは難しいが、あえて言えば、感官を通じて直感したものを言葉によってゆっくりと再現する試みである。・・・中略・・・
 男性を中心とした前衛短歌運動が盛んに議論される中で、葛原は・・・中略・・・「幻視の女王」・・・中略・・・の異名が与えられる。・・・中略・・・また作品の不思議な力への賛嘆であり同時に読み解きがたさを告白する命名にほかならない。しかしこの読み解きがたさこそ葛原が前衛短歌とは異なる要素なのだ。


『コレクション日本歌人選070 葛原妙子 見るために閉ざす目』(川野里子 笠間書院 2019年7月 111〜112ページ)

和歌や当時の短歌の方法とはまったく異なる「感官を通じて直感したものを言葉によってゆっくりと再現する試み」によってつくり出された歌は、当時の歌壇でも「読み解きがたさ」として、毀誉褒貶の的だったようだ。

本書に収録されている50の歌をざっと眺めてみると、上記で引用した歌のように、句跨り(くまたがり)や字余りといった五七五七七の調子にさえ乗らない、落ち着きの悪い歌が多く、読んでいるとイライラする。

むきだしになったみずからの五官すべてで感じとった、本来ならば言葉にならない何かを言葉にしようとする営みだからこその勢いや苛立ちが、現れているのかもしれない。

また、和歌の歌枕のように他者とイメージを共有する形式化された表現ではなく、あくまでも個人の感覚に基づいた表現なので、読み手は必ずしも理解することができない。しかし、読み手にとっては、自分のなかのどこか一点、ほんの小さな、それでいて核たる一点と重なる瞬間がある。そこに私は惹きつけられて、ここまでやってきたのかもしれない。


歌の創作をとおして辿りついた場所

もう一度、「月光は受話器をつたひはじめたり越前岬の水仙匂ふ」の歌に戻ってみる。

歌の主人公と作者とを同一視するならば、「越前岬の水仙」とは、作者が幼いころ、福井県の伯父のもとに預けられた体験のなかの水仙だと考えることもできる。月光の美しい夜、当時を知る誰かと電話で話していると、あっという間に思い出の地越前岬に心が飛んでいく。そんなふうに読むこともできるかもしれない。

しかしこの歌全体から、思い出にまつわる懐かしさや慕わしさというものを感じることはない。先の解説には、伯父との暮らしについて、「厳しい躾のもと孤独な幼少期を過ごしている」とある。それ以上のことは書かれていないので、作者が福井県にどんな感情を抱いていたのかわからないが、「孤独な幼少期」を想起させる複雑な感情というものもない。

むしろ、そういった感情を超えた何か、かぐや姫にとっての月の世界のような、人間のいっさいの感情を超越した世界の空気が漂っている。

実はこの歌は、もう一首水仙にまつわる歌と前後で配されている。

水仙城といはばいふべき城ありて亡びにけりな さんたまりや (※)

「水仙城といはばいふべき城ありて亡びにけりな」とは、水仙城と呼んでもいいような城があったのに、今はもう亡んでしまったということなのだろう。城址には何某かの水仙が咲いていて、その水仙に城のありし日の姿を見出していると想像してみる。

水仙は一輪なのか群生しているのか。「月光は・・・」の越前岬の水仙が群生だと考えたとき、こちらも群生で、そのなかに聳えたつ城や城壁を想像すると、それこそが「水仙城」という名にふさわしいと思えてくる。

しかし、一輪でそっと咲く水仙を想像してみると、それとは対照的な堅牢な城には、風雪や時間、時勢によって亡んでしまうはかなさがあり、一見はかない水仙には、時がめぐってきてまた咲く力強さがある。それが「さんたまりや」という呼びかけにも思える言葉と響き合っているのではないか。

作者は晩年、キリスト教の洗礼を受けた娘の影響からキリスト教に興味をもったようで、聖母マリアを詠んだ歌は数多くあり、昭和44年に家族でヨーロッパを旅している。

この歌の「城」がその旅で見たものなのか、城と聖母マリアとの関係もよくわからないが、キリスト教と水仙の関係でいえば、春の復活祭には再生の象徴として黄水仙が飾られるというし、聖母マリアを象徴する百合の花が、水仙に似ていることから、水仙をマリアになぞらえることもあるという。

そんなことを考え合わせながら目の前の水仙に目を凝らしていると、いつのまにか焦点がぼんやりとしてくる。春先のひんやりとした空気のなか、誰もいない城に聖母マリアが佇み、荒野の先を見つめている。

この歌にも、「月光は・・・」の歌と同様、人間のあらゆる感情を超えた境地が垣間見える。

その境地とは、五感のすべてをとおして感受した言葉にならない何かを言葉にするための、世事の一切を超えた、冷たくも澄みわたる透明な場所であり、作者が歌の創作をとおして辿りついた場所ではなかったか。

* * *

鳩居堂の葉書のコーナーでどのくらいの時間が経ったのか。どこからともなく誰かの手がすうっと伸びてきて、自分が手にしている水仙の葉書と同じものを掬いあげていった。

そうだ、寒中見舞い用の葉書を買いにきたんだ。

急いで会計を済ませ、店を出た。

左手の銀座四丁目交差点方面に数歩進むと、花屋がある。店先を覗いてみると、さすが銀座一頭地の花屋、バラやラナンキュラスなど多弁で花束にしたときに見映えのする花が多く用意されていて、水仙を見つけることはできなかった。

早ければ12月から市場に出回る水仙。新春の清々しさを演出する花として、春の訪れを心待ちにする花として、私たちの生活に馴染み深いものではあるけれど、寒さがきわまった日の道端や深い雪のなかに、その姿を見つけるとき、私たちはこの世ではないどこかを感じる。

それは外の世界にあるものではなく、見るものの心のなかにほんの小さな一点として存在する。喧騒にまみれた生活では意識すらしない一点ではあるが、誰にも、何ものにもおかされることのない静寂で清明な一点。そこを映し出す鏡として水仙は存在するように思えてならない。




※本noteで取り上げた「月光は・・・」と「水仙城・・・」の歌は、没後にまとめられた短歌新聞社版『葛原妙子全歌集』(1987年)に未刊歌集『をがたま』として収録され、以下の砂子屋書房版『葛原妙子全歌集』(2002年)に引き継がれているが、現在は絶版や品切れで手に入りにくくなっている。



第4回 魔女は花の力で空を飛ぶ 『メアリと魔女の花』(メアリー・スチュアート)

第6回 “死者”に手向ける花 『亡き王女のための刺繍』(小川洋子)


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