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1995年のバックパッカー 

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1995年。写真家の藤代冥砂は突然仕事を辞め無職となって世界一周無期限の旅に出た。27歳。当時新進カメラマンとしてミスチルのCDジャケットを撮影するなど注目されていたが、約束され…
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#海外バックパッカー

1995年のバックパッカー25 ネパール3 カトマンドゥ3 仏教、ヒンドゥー教、象の背中、そしてレモンチーズパイ。

1995年のバックパッカー25 ネパール3 カトマンドゥ3 仏教、ヒンドゥー教、象の背中、そしてレモンチーズパイ。

カトマンドゥに来て2度目の土曜日が訪れた。ネパールでは土曜日は休日だ。これは彼らが昔から使っているビクラム暦に従って暮らしているからだ。誕生日もビクラム暦で覚えているので、西暦に換算するのがネパール人にはややこしいらしい。

土曜日は、観光施設や銀行なども閉まってしまうので、旅行者もそのへんでぶらぶらして過ごすことになる。雨季だというのに、その日も晴天だった。

ヒマラヤキッチンで朝食をしていると

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1995年のバックパッカー23 中国13 チベット4 世界の屋根での大芝居 さらばチベット!

1995年のバックパッカー23 中国13 チベット4 世界の屋根での大芝居 さらばチベット!

かくしてジープに乗り込んだ僕とグラントであった。
ティンリへの雄大な風景をグラントは楽しんでいたが、僕は病人のふりをし続けるために、後部座席で横這いになっているしかなかった。身を乗り出して風景を楽しんでいるのがばれたら、元気ならもう降りてくれと、言われかねない。僕は高山病という設定で頭が割れそうな呻き声を時々入れつつ(経験済みだったので簡単な演技だった)、チベットの空だけを眺めていた。
あの頃のチ

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1995年のバックパッカー22 中国12 チベット3 

1995年のバックパッカー22 中国12 チベット3 

あの時はああするしかなかった。
そんな過去のほろ苦い場面が誰にでもあるだろう。そして後悔たっぷりの出来事が、良い思い出へと変化するには数年は必要だ。
天啓を受けたかのような素晴らしい思いつきというのは、最良のゴールへと導くことは少なくて、ほぼ間違いなく暮らしの中の罪なきギャンブルとなる。

グラントが自転車の整備を終える頃、僕も同じ中国製の格安自転車を買っていた。自分でもそうするしかなかったのだ。

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1995年のバックパッカー21 中国11 チベット2 シガツェ 町から出るために僕らができること。

1995年のバックパッカー21 中国11 チベット2 シガツェ 町から出るために僕らができること。

朝6時発のシガツェ行きのバスがあると聞いていたので、キレーホテル前でグラントと待つ。しかし、なかなかそのバスは来ない。ほぼ諦めた7時になってバスは到着。やれやれと席で寝ようとしたら、ラサを少し出た辺りで今度はスペアタイヤの修理を始めた。結局出たのは8時半。昨日のうちにやっといてくれよ、と思ったが、ここはチベットなのだ。彼らに合わせるしかない。

昨晩の薄着のせいか、高山病が完治していないせいか、朝

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1995年のバックパッカー20 中国10 チベット1 高山病の洗礼と新相棒登場

1995年のバックパッカー20 中国10 チベット1 高山病の洗礼と新相棒登場

クンガ空港からラサ市内までは、遠かった。

火星を思わせる荒地の悪路をバスで揺られること、実に3時間もかかった。福岡空港から博多までは地下鉄でわずか2駅、10分くらいだ。しかも福岡は国際便も発着する日本でも有数の都会なのに、土地の有り余ったチベットでなぜ市中近くに空港を作らないのだと不思議に思った。おそらく政治上、防衛上の理由なのだろう。

とにかく高山病による頭痛を抱えての3時間はちょっとした拷

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1995年のバックパッカー19 中国9 成都ーラサ 三国志とジャーマン・ガールズ、そしてチベット

1995年のバックパッカー19 中国9 成都ーラサ 三国志とジャーマン・ガールズ、そしてチベット

成都2日目は、ほぼ一日中カタリーナとココと過ごした。アーミーサープラスショップへ行くと2人が言うので、軍モノファンの僕もついていくことにした。

その店は中国軍モノだけを扱っていた。アメリカやNATOに属している国々製品がないのは分かるが、同盟のロシアやベトナム軍のモノまで無いのは物足りなく感じた。だが、中国軍モノがけっして悪いわけではなく、素朴だが質はまあまあだし、よく言えばデザインもシンプルだ

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1995年のバックパッカー18 中国8 阻朔ー成都 ライドライドライドの女の子 

1995年のバックパッカー18 中国8 阻朔ー成都 ライドライドライドの女の子 

阻朔もそろそろ潮時かなと思えてきたある日、僕は相棒のデンマーク人、マイケルと福江にでかけた。中国の田舎を今一度ゆっくり巡っておこうと思ったからだ。

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1995年のバックパッカー17   中国7 阻朔に輝く月 。そして、男と女の「行く、来る」物語。

1995年のバックパッカー17  中国7 阻朔に輝く月 。そして、男と女の「行く、来る」物語。

阻朔(ヤンスウ)での相棒はデンマーク人のマイケルだった。いつもサッカーのシャツを着ていて、どこのチームかは聞かなかったが、おそらくデンマークのものだろう。

月亮山から戻り、ホテルで寝ているとそのマイケルが訪ねてきて、夕食に誘われた。いい店があると言う。連れて行かれた先はミッキー・マオス・カフェだった。ユーモアの効いたネーミングだが、政府に目をつけらていないことに感心した。マオは言わずと知れた毛沢

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1995年のバックパッカー15 香港4 さらばドラゴンシティ!悪いけど次があるから。

1995年のバックパッカー15 香港4 さらばドラゴンシティ!悪いけど次があるから。

ちょうどスプレンディッドアジアへと戻ろうとしていた時に、同宿のインド人バスさんが通りがかったので、そのままおビールでもと誘った。僕は彼をチュンキンマンション内にあるフリースペース的なテーブルと椅子の席で待つようにと彼に伝えて、一旦スプレンデッドアジアのドミトリーに戻ってから、すぐに合流した。

気の利くバスさんはすでに缶ビールを2本用意してくれていた。僕たちはそれで乾杯した。そして数時間前に買った

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1995年のバックパッカー13  香港2 善意と欲望とギャンブラー

1995年のバックパッカー13  香港2 善意と欲望とギャンブラー

それは、1995年の5月5日金曜日の出来事だった。

チュンキンマンション、スプレンディッドアジアのドミトリーで10時に目覚めた僕は、早くも馴染み始めた香港の街をゆったり歩き、木陰の多い九龍公園のベンチでくつろいでいた。

そこへ小柄で目の大きい東南アジア系の男が、屈託のない笑顔を浮かべながらやって来て、僕のすぐ隣に座った。歳は35くらいだろうか。その男はチャーリーと名乗り、初対面の外国人通しが交

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1995年のバックパッカー12  香港1           巨大な龍の街とドミトリー

1995年のバックパッカー12 香港1  巨大な龍の街とドミトリー

香港へ降り立つと、久しぶりの陸地の感触に浸る間もなく、僕はそそくさと歩き始めた。

フェリーのレストランで同テーブルだったカナダ人の老夫婦が安宿への道案内をかってくれたので、黙ってついていった。のんびりとしたフェリーの上とは違って、巨大な生物のような蠢きが香港にはあって圧倒された。十数分で到着したチュンキンマンションと呼ばれる巨大な雑居ビルは、ヨドバシカメラ新宿西口本店を思い出させた。もちろんチュ

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1995年のバックパッカー 4 韓国2「ソナさんの浅さについて」

1995年のバックパッカー 4 韓国2「ソナさんの浅さについて」

僕はソナさんの綺麗さに、なんだか緊張した。
神戸のあの夜は、本当に現実に存在したのだろうか、咄嗟になぜかそう思った。

「わたし、浅くない?」

あの夜、彼女がつぶやいた問いは、僕の中に小さくない何かを残していた。そういう質問を受けたのは、生涯であれっきりだ。僕がどう答えたのかは覚えていないが、確かに彼女の言う通りだった。

そんなソナさんが、あの時と同じ綺麗な姿のままで現れた。僕は最初から動揺し

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