見出し画像

1995年のバックパッカー21 中国11 チベット2 シガツェ 町から出るために僕らができること。


朝6時発のシガツェ行きのバスがあると聞いていたので、キレーホテル前でグラントと待つ。しかし、なかなかそのバスは来ない。ほぼ諦めた7時になってバスは到着。やれやれと席で寝ようとしたら、ラサを少し出た辺りで今度はスペアタイヤの修理を始めた。結局出たのは8時半。昨日のうちにやっといてくれよ、と思ったが、ここはチベットなのだ。彼らに合わせるしかない。

昨晩の薄着のせいか、高山病が完治していないせいか、朝から頭痛が残っていて、ボロバズの隙間風のせいでさらに体が冷え、頭痛は増す一方だった。

昼食は道中にある掘立て小屋みたいな休憩所で、厨房に入れさせてもらい、食材を指差して注文。調理法までは予想も指定もできなかったが、それでもまあまあなものが食べれた。食べることは大切である。安全第一、美味第二である。


チベットで2番目に大きい街シガツェに到着したのは15時半。7時間のバス旅だった。頭痛は悪化していて、もはや僕の知っているそれの範疇を超えていた。

バスを降りた所から宿まではタクシーなのだが、これが耕運機であった。つまり客は荷台に乗るのだ。僕が健康体だったら楽しかっただろうが、悪路の耕運機タクシーは、チベットが僕の頭痛を悪化させるキャンペーン中であるかのようだった。

運が良かったのは、グラントがいてくれたことだ。ラサから同宿だったこともあり、そして西へと向かうプランが一緒だったこともあり、しばし行動を共にしようということになっていた。彼はホテルマンだけあって、用意周到に集められる情報は持参しているようだった。なので、シガツェに到着すると、行くべき宿はすでに彼が決めてくれていた。


オーストラリアからのホテルマン、グラント。

到着したのはフルーツホテル。瑞々しくも可愛くもない宿だったので、全てものに意味などなことを確認した。僕は傾れ込むように指定されたベッドに身を投げ出すと、着替えもせずにそのまま眠った。実際少し体を動かすだけでも、その振動に耐えられないほどに頭痛は成長していた。確実に人生最悪の頭痛であった。鈍い痛みと鋭い痛み、鉛のような重さ。思いつくものを全て足しても足りないのだった。だが、呼吸は止めるわけにもいかず、吸って吐いての切り替えの時の山を、極力なだらかに平すことに集中した。

長い長い闘病の時間であった。

21時になって、このまま夜が明けるまで苦痛が続くのは耐えられないとわかり、グラント経由で宿の主人に、救急患者とタクシーをお願いした。多少性能が落ちたとしても、スペアがあるなら頭ごと変えてもらいたいくらいだった。

迎えのタクシーは恐怖の耕運機であった。だが、仮にベンツの最高クラスに乗れたとしても、剥がれたアスファルトと砂利混じりの凸凹道のロードノイズをどうにもできない。

グラントに手伝ってもらいつつ、振動をなるべくたてないように盗み足で進み、耕運機に乗った。いいぞ、その調子!などと思う余裕はなかったが、とにかく診療場に近づいてことだけが救いだった。

そのわずかな安堵を彼方に投げ捨てたのが、耕運機タクシーだった。痛いというよりも死すら意識した。その振動は、地獄のドリルを頭蓋骨に打ちこまれているに等しかった。おそらく、それ相応の罪が僕の半生にあるに違いない、自業自得だとか、わけのわからないことで納得しようとしていた。

さらに追い討ちをかけるように歯を剥き出して吠えまくる野犬の群れが追従した。28年生きました、さぞ罪深いことをしてきたのだろう、生まれてすみません、な心境である。犬たちよ、弱まった動物を食べよう集まってきているのか?

さらに雨まで降り出した。フルコースである。

そしてどうにかこうにか街灯のない街に、ぽつんと灯りをドア前に垂らした診療所に辿り着いた。犬たちはいつの間にか去っていた。なんだ、こいつまだ生きそうだなとでも察知したのだろうか。

とにかく何かここで処置してもらえれば、少しはましになるだろう。そう感じただけで心だけは軽くなった。頭は尚も隕石のようだった。

その診療所の医師は、手慣れた風だった。高山病への処置などこの地では初歩の初歩だろう。中医らしく、脈診、舌診のみで、うむうむといった感じで、栄養剤みたいなものと、薬を1日分くれた。せめて1週間分くらいほしかったが、言えなかった。

帰路も犬と雨、そして振動にやられながらホテルに戻り、ベッドに横になっていると、なんと1時間ほどで頭痛が霧散した。これには驚いた。西洋医療なのか、中国伝統医療なのか判然としなかったが、ありがたいと心底思った。旅は体あってのものだ。

朝起きると、調子は良かった。
ラサの空港からの頭痛は夢のように消えていた。
おかげで、グラントと朝から街を散策できた。ただ普通に歩くことが楽しく、ありがたかった。朝市をのぞいたあと、廃業したホテルの1階にあるレストランで朝食をとった。中国では普通なのだろうか、外国人観光客の相手をする女の子がここでもいて、いろいろ話しかけてくる。
名前はロンチャイ。古蘭という土地からやって来て、まだ1週間だという。年齢は18歳。おそらく家族から初めて離れたのだろう。何かかもが新鮮に見えているはずだ。自分も同じ年頃に家を出ているので、応援したくなった。ロンチャイもシガツェにやって来たばかりの時は頭痛に悩まされたという。こればかりは運もあるだろう。隣にいるグラントは全く平気なのだから。


午後もゆっくりとシガツェを歩いた。ラサ同様に白茶けた埃っぽい街で、野犬が多い。昨夜僕を追いかけた犬たちもこれらの一派なのだろう。夜の外出は犬に気をつけたほうがいい。

翌日はグラントとジープをチャーターできないか探してみた。僕たちはこれから西へ西へとさらに辺境へと向かい、ネパールボーダーに行くつもりだった。もちろん最安のローカルバスを乗り継いでいけるものならそうしたいのだが、途中の町は小さくなる一方で需給のバランスは悪いだろう。毎日バスが出ていない可能性の方が高い。地元の人もなんとか乗り合い可能な手段を工面して移動しているのかもしれない。僕たちは予算のかかるチャーター便の相場をあらかじめ知っておこうと考えていたのだ。


太陽光湯沸器。

僕たちは、狭い町のあちらこちらに立ち寄っては、ネパールボーダーの町ダム行きのローカルバス、そしてチャーター便などを探し回ったが結局見つけれなかった。

午後になると、フルーツホテルにイスラエル人のカップルがやって来て一緒にジープ便を探すことになった。やはり国境までのチャーターは受け付けてもらえず、3泊4日のエベレストツアーはどうかと提案された。それはエベレストの見える場所まで行くだけのツアーだったが、ネパール側からではなく、中国の北側からの眺めに興味がある観光客がいるのだろう。

少し好奇心がもたげたが、値段が一人4000元だと言われ、可能性は刈られた。

だが、通りで声をかけられた男たちによれば、20時発のダム行きのバスがあるというではないか。僕たちはもちろん喜んだ。ただ、せっかくチベットまで来たのに、あまりにも駆け足な旅はもったいないとは感じていた。時間ならあるのだ。憧れのチベットをただ突き抜けてしまっていいのだろうか。

ただ、今日のダム行きのバスを逃したら、次はいつになるかわからないとまで言われては、グラントと僕は決断するしかなかった。

この寂しい田舎町でバスを待ち続ける日々を考えると、ちょっとうんざりだった。ダム行きのバスの車窓からだってチベットの風土は多くは見れるだろう。なんといってもこのルートは首都ラサからネパールまでの横断道なわけで、チベットのあらましは見物できるのだ。僕は半ば自分に無理矢理そう思い込ませるように言った。

グラントも同じ意見だった。僕と違い時間が限られている彼としては、足止めが一番のストレスになる。二人で移動すれば、何かと便利なはずだ。防犯的な面からしても。

そうと決まったら僕たちは荷物をまとめ、夕食を早めに済まし、ホテルをチェックアウトして、バスが来ると聞かされた場所に20時前から立った。夜行バスだが、夜が開ければ、チベットの高地の眺めを思う存分楽しめるだろう。途中で興味深い場所を発見するだろうが、深く尋ねるのは次回にしよう。今回のチベットは言わばロケハンみたいなものだ。僕は、不機嫌な野犬たちを遠くに確認しつつ、これから乗るバスでの夜移動にわくわくしていた。

そして、バスは来なかった。

悪意のあるガセネタとは思いたくなかったが、僕たち以外に誰もバスを待つ者はおらず、突然の運休の可能性は低かった。この情報を僕たちに伝えた通りすがりの男たちは、祖父の教えを語るように堂々と、20時発のジャンムー行きが今夜あると確かに言ったのだ。

僕とグラントは、まだ営業しているレストランで夜食を食べて、再びフルーツホテルのドアを押した。

ジープは高額、ローカルバスはあてにできないとなると、僕たちの国境行きは怪しくなった。

チベットはここまでとしてラサから成都まで戻り、東南アジアに戻るルートも仕方ないと考えた。その一方で、この旅はじめての陸路による国境越えへの未練もあった。ネパールにも行ってみたい。ヒマラヤを間近に見てみたい。僕は前進か後退かに揺れた。シガツェから先のチベットの風景もきっと素晴らしいに違いない。観光客もほとんど入っていない頃のことだ。僕は西の空を眺めつつ、なんどもため息をつきつつ考えていた。

その結果の結論は、一人でもいいから大枚をはたいてジープをなんとか雇い、国境まで行くというものだった。国境までの道程はおよそ200キロ。いったいいくらかかるか分からないが、まずは交渉だけしてみよう、そう考えた。

一方グラントはそんな大枚を払う気持ちはさらさらなかった。ハイアットで働いているくらいだから、せいぜい数万円の費用を出せないわけはないだろう。だが、そういう問題ではなさそうだった。

グラントの答えは、自転車を買って自力で向かうということだった。僕は一瞬それが素晴らしい冒険になるような気がしてときめいたが、すぐに僕には無理だとわかった。

富士山よりも高い未舗装の道を690kmを自転車でなんて、自殺行為に近いと思った。東京と岡山よりも遠いのだ。だが、グラントの意思はかなり固まっているようだった。この手の優しい男は、実は頑固な部分がある。もう決まりなんだなと諦めた。

僕は、もう一枚のカードとして、明日1日だけヒッチハイクをやろうとグラントを誘うと、それには乗って来た。そうだな、それはまだやっていないしね、という答えだった。


翌朝7時から僕たちはフルーツホテルの前でヒッチハイクを試みた。とりあえず、隣町のラツェまで行きたかった。距離にして370km。だが、10時まで粘ったところで、僕たちは早々に諦めた。たかが3時間だが、待ち続ける3時間は意外と長い。僕たちには根性が足りなかった。

グラントは「オレは自転車で行くからヒッチはもういいや」と言い出し、そのアイデアに乗れない僕はジープをチャーターすることにした。つまりラサから共に移動して来た僕たち二人はここで別れることになった。

僕は街一番のホテルらしきテンジンホテル内の旅行会社の事務所へ行くと、チベットベースキャンプ経由のネパール国境行きに乗せてもらえるだろうと説明された。詳しくはマネージャーがやって来てからということを言われ、僕はひとまず可能性があることに安心した。

その後に厄払いをしようとタシルンポ寺に行くと、あいにくその日は午前中のみの開門だった。僕がホテルに戻ろうとして耕運機タクシーを探していると、たまたま見かけた自転車屋の前で、グラントが一台の自転車を店の人と調整している姿を見かけた。声をかけてその様子を見ていると、真新しい自転車の輝き、そしてその荷台にバックパックをいかに固定させるかを試みている様子が、なんだか楽しそうに見えて来た。少年時代の記憶が蘇るような素敵な光景だった。

数日後の僕は、この時に偶然グラントを自転車屋で見かけたことを悔いることになるのだった。





 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?