藤代冥砂

主に、写真と小説やってます。 http://meisafujishiro.org ht…

藤代冥砂

主に、写真と小説やってます。 http://meisafujishiro.org http://meisafujishiro.com

マガジン

  • 1995年のバックパッカー 

    1995年。写真家の藤代冥砂は突然仕事を辞め無職となって世界一周無期限の旅に出た。27歳。当時新進カメラマンとしてミスチルのCDジャケットを撮影するなど注目されていたが、約束されていた未来を選ばずに、1人の日本人バックパッカーとなって国外へと旅に出た。アジア、中東、ヨーロッパ、北中南米、南極、アフリカ。彼の旅は2年に及んだ。スマホのない時代、あてどもなく世界を彷徨った自由な日々を、ライカM6で撮影した写真と共に綴った胸踊るトラベルライティング。

  • 藤代雑記。(写真とことば)

    写真家・文筆家の藤代冥砂の日常を写真と言葉で綴る記録です。気軽に読める量と内容、日本語の美しさにもこだわってます。水曜日の20時更新予定。

ストア

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    PIP 6 OKINAWA 琉球 T-shirt 墨色

    写真家藤代冥砂が「自身の撮影した作品を布の上に展示する」というコンセプトで始めたフォトアパレルブランドPIP。1年以上ぶりの6作めは、11年住んだ愛着のある沖縄をテーマに。フロントに聖地浜比嘉島のビーチ、バックに戦禍を免れた富盛の石獅子といった、藤代が愛する沖縄のアイコンを配し、PIPの特徴でもある大胆なグラフィックもいつも通りの楽しさです。
    9,800円
    PIP
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    PIP5 LightSweat JapaneseWOLF

    シリーズ5作目は、ライトスウェット。7.4oz ロングスリーブとパーカーの中間的な位置付け。 薄すぎず厚すぎずで、使いまわしに何かと便利。 今回の写真は、絶滅したニホンオオカミのスカル。 神格化された動物をウエストにレイアウトし、腹部を守っていただこうと。 バックにはブランド名PIPの元となった2つのフレーズ、PHOTO IS POWER PHOTO IN PEACE をKODAKとFUJI FILMへのオマージュ色で。
    11,000円
    PIP
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    PIP4 OXFORD-SHIRTS ROSE WITH YOU

    シンプルなコットン100%オックスフォードボタンダウンシャツに、バラのバックプリント。フロントにはブランドのボックスロゴと、作品番号。 花の写真を背負ったボタンダウンシャツは、とてもレアで、ジェンダーレスに楽しめます。
    11,000円
    PIP
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    PIP 6 OKINAWA 琉球 T-shirt 墨色

    写真家藤代冥砂が「自身の撮影した作品を布の上に展示する」というコンセプトで始めたフォトアパレルブランドPIP。1年以上ぶりの6作めは、11年住んだ愛着のある沖縄をテーマに。フロントに聖地浜比嘉島のビーチ、バックに戦禍を免れた富盛の石獅子といった、藤代が愛する沖縄のアイコンを配し、PIPの特徴でもある大胆なグラフィックもいつも通りの楽しさです。
    9,800円
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    PIP5 LightSweat JapaneseWOLF

    シリーズ5作目は、ライトスウェット。7.4oz ロングスリーブとパーカーの中間的な位置付け。 薄すぎず厚すぎずで、使いまわしに何かと便利。 今回の写真は、絶滅したニホンオオカミのスカル。 神格化された動物をウエストにレイアウトし、腹部を守っていただこうと。 バックにはブランド名PIPの元となった2つのフレーズ、PHOTO IS POWER PHOTO IN PEACE をKODAKとFUJI FILMへのオマージュ色で。
    11,000円
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    PIP4 OXFORD-SHIRTS ROSE WITH YOU

    シンプルなコットン100%オックスフォードボタンダウンシャツに、バラのバックプリント。フロントにはブランドのボックスロゴと、作品番号。 花の写真を背負ったボタンダウンシャツは、とてもレアで、ジェンダーレスに楽しめます。
    11,000円
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最近の記事

1995年のバックパッカー24 ネパール1 カトマンドゥ1 牛と猿と歓喜仏、あるいはウィズダムアイ。

カトマンドゥは朝から雨だった。 土曜日はネパールでは休日に当たるらしく、商店の多くが閉まっていた。とりあえず歩くかと、人の集まるダルバール広場を目指してタメル地区を練り歩いた。時折雨が強まったが、暖かい日だったので、濡れても気にならなかった。 まず驚かされたのが、猿と犬と牛がそこらじゅうにいることだった。 野良犬ぐらいなら子供の頃に時々見かけたけれど、カトマンドゥでは、視野のどこかには犬や猿や牛、山羊、豚が必ずいるのだ。そして誰もそれらの動物を気にしてはいない。いわゆる

    • 1995年のバックパッカー23 中国13 チベット4 世界の屋根での大芝居 さらばチベット!

      かくしてジープに乗り込んだ僕とグラントであった。 ティンリへの雄大な風景をグラントは楽しんでいたが、僕は病人のふりをし続けるために、後部座席で横這いになっているしかなかった。身を乗り出して風景を楽しんでいるのがばれたら、元気ならもう降りてくれと、言われかねない。僕は高山病という設定で頭が割れそうな呻き声を時々入れつつ(経験済みだったので簡単な演技だった)、チベットの空だけを眺めていた。 あの頃のチベットで、空だけを見続けた旅人といったら僕ぐらいだろう。だが、おかげで凍死はなく

      • 藤代雑記。 #4 「羽について」

        求める時には出てこないくせに、ふとした拍子に現れることがある。 私が鳥の羽を探していたのは、初夏の頃だっただろうか。 探すといっても、オンラインショップや東急ハンズなどの実店舗に行くのではない。家の近所や、道中そこらへんをうろうろ歩いて、落ちているのを見つけようとしていた。 そういう初夏の頃だった。 私は拾うのが好きだ。 とはいっても、100円玉を探しているわけでもなく、なぜこんなところに!という驚きと共に何かを見つけるのが好きだ。 たとえば、鳥の巣。 私は過去に数

        • 1995年のバックパッカー22 中国12 チベット3 

          あの時はああするしかなかった。 そんな過去のほろ苦い場面が誰にでもあるだろう。そして後悔たっぷりの出来事が、良い思い出へと変化するには数年は必要だ。 天啓を受けたかのような素晴らしい思いつきというのは、最良のゴールへと導くことは少なくて、ほぼ間違いなく暮らしの中の罪なきギャンブルとなる。 グラントが自転車の整備を終える頃、僕も同じ中国製の格安自転車を買っていた。自分でもそうするしかなかったのだ。国境までジープをチャーターするのじゃないのか?というつっこみもなく、最初の言葉を

        1995年のバックパッカー24 ネパール1 カトマンドゥ1 牛と猿と歓喜仏、あるいはウィズダムアイ。

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        • 1995年のバックパッカー 
          24本
        • 藤代雑記。(写真とことば)
          4本

        記事

          1995年のバックパッカー21 中国11 チベット2 シガツェ 町から出るために僕らができること。

          朝6時発のシガツェ行きのバスがあると聞いていたので、キレーホテル前でグラントと待つ。しかし、なかなかそのバスは来ない。ほぼ諦めた7時になってバスは到着。やれやれと席で寝ようとしたら、ラサを少し出た辺りで今度はスペアタイヤの修理を始めた。結局出たのは8時半。昨日のうちにやっといてくれよ、と思ったが、ここはチベットなのだ。彼らに合わせるしかない。 昨晩の薄着のせいか、高山病が完治していないせいか、朝から頭痛が残っていて、ボロバズの隙間風のせいでさらに体が冷え、頭痛は増す一方だっ

          1995年のバックパッカー21 中国11 チベット2 シガツェ 町から出るために僕らができること。

          藤代雑記 #3「ツミについて思うこと、二、三」

          高麗の人が住んだ江という意味を持つ狛江で下車した。北口降りてすぐには鬱蒼とした繁みがあり、梅雨の最中の曇天もあって、縁に沿って歩くと重々しさに滅入ってくるのだった。 最初の目当てであった泉龍寺の左手前に弁天池を見つけ、まずは福徳弁財天に参拝した。 その境内には、住宅地に隣接しているとは思えない暗所があり、吉か不吉か判然としないままに暗さに惹かれた。怖がりな性分なのに、すぐには立ち去れず、思いのほか澄んだ水を湛える弁天池の水面などを撮っていると、頭上を数羽の鳥たちが騒々しい

          藤代雑記 #3「ツミについて思うこと、二、三」

          1995年のバックパッカー20 中国10 チベット1 高山病の洗礼と新相棒登場

          クンガ空港からラサ市内までは、遠かった。 火星を思わせる荒地の悪路をバスで揺られること、実に3時間もかかった。福岡空港から博多までは地下鉄でわずか2駅、10分くらいだ。しかも福岡は国際便も発着する日本でも有数の都会なのに、土地の有り余ったチベットでなぜ市中近くに空港を作らないのだと不思議に思った。おそらく政治上、防衛上の理由なのだろう。 とにかく高山病による頭痛を抱えての3時間はちょっとした拷問で、幼い頃にしでかした罪のいくつかを勝手に自白したくなるほどだった。 ようや

          1995年のバックパッカー20 中国10 チベット1 高山病の洗礼と新相棒登場

          藤代雑記。#2「レモンツリーと子供たち」

          東京に引っ越してきた時に植えたレモンの木がずっと不調だったが、今年の春になって回復し始め、初夏には瑞々しい若葉を繁らせた。こういう出来事はじんわりと嬉しい。そして、早くも翌年の収穫を心待ちにしている自分がいて、レモンが好物でもないのに不思議に思った。健やかに成長していく果樹とその実の未来の明るさを支えに、一向に定まらない不確かな自分の性分を照らしたかったのだと思う。 このレモンの木の話を進める前に、ちょっと迂回する。 先の冬は寒さが厳しかった。「今年は、寒いね、歳のせいな

          藤代雑記。#2「レモンツリーと子供たち」

          1995年のバックパッカー19 中国9 成都ーラサ 三国志とジャーマン・ガールズ、そしてチベット

          成都2日目は、ほぼ一日中カタリーナとココと過ごした。アーミーサープラスショップへ行くと2人が言うので、軍モノファンの僕もついていくことにした。 その店は中国軍モノだけを扱っていた。アメリカやNATOに属している国々製品がないのは分かるが、同盟のロシアやベトナム軍のモノまで無いのは物足りなく感じた。だが、中国軍モノがけっして悪いわけではなく、素朴だが質はまあまあだし、よく言えばデザインもシンプルだ。もともと軍モノに親しんでいたが僕は、水筒などの小物を中心に探し、蚊除けスプレー

          1995年のバックパッカー19 中国9 成都ーラサ 三国志とジャーマン・ガールズ、そしてチベット

          藤代雑記。#1「太陽のあし」

          立秋の知らせにつられたのか、早朝や夕方には、その風を感じるような気がする。微かに、大気の熱にも疲れが感じられ、今年はこのくらいにしておこうか、という声が聞こえるようだ。 私の住む東京の多摩地区、町田は海が遠いこともあって熱が籠るようだ。海辺よりも気温が数度余計に高い。そして、都心よりもなぜか高い。 風を通そうと網戸にしておいた家の窓からは、風は風でも熱風が入ってくる。さすがに敵わなくて、南側の雨戸を閉め、ガラス窓を閉め、二重に熱を入れないように工夫した。そして、それはそこ

          藤代雑記。#1「太陽のあし」

          1995年のバックパッカー18 中国8 阻朔ー成都 ライドライドライドの女の子 

          阻朔もそろそろ潮時かなと思えてきたある日、僕は相棒のデンマーク人、マイケルと福江にでかけた。中国の田舎を今一度ゆっくり巡っておこうと思ったからだ。

          ¥100〜
          割引あり

          1995年のバックパッカー18 中国8 阻朔ー成都 ライドライドライドの女の子 

          ¥100〜

          1995年のバックパッカー17  中国7 阻朔に輝く月 。そして、男と女の「行く、来る」物語。

          阻朔(ヤンスウ)での相棒はデンマーク人のマイケルだった。いつもサッカーのシャツを着ていて、どこのチームかは聞かなかったが、おそらくデンマークのものだろう。 月亮山から戻り、ホテルで寝ているとそのマイケルが訪ねてきて、夕食に誘われた。いい店があると言う。連れて行かれた先はミッキー・マオス・カフェだった。ユーモアの効いたネーミングだが、政府に目をつけらていないことに感心した。マオは言わずと知れた毛沢東のマオだからだ。崇拝の対象をおちょくって大丈夫なほど中国も変わったのだろうか。

          ¥100〜
          割引あり

          1995年のバックパッカー17  中国7 阻朔に輝く月 。そして、男と女の「行く、来る」物語。

          ¥100〜

          1995年のバックパッカー16 中国6 広州ー桂林ー阻朔 列車に揺られどこまでも

          1995年の6月。僕はさまざまな思い出と共に香港を去った。そして次の目的地は桂林だった。 桂林を選んだのは単純な理由だった。あの世界的に有名な山水画のような絶景を見てみたかった。のどかな田園風景から突如そそり立つ山々の凸凹は、調和というよりも神様が不機嫌な時に適当にこさえたかのようだった。そしてそのへんてこりんな風景の中に自分を立たせてみたかったのだ。 最初の大きな中継地は広州で、もちろん初めてだった。前知識も情報も興味もないままに香港の九龍を出発して2時間半後に広州駅に

          ¥200

          1995年のバックパッカー16 中国6 広州ー桂林ー阻朔 列車に揺られどこまでも

          ¥200

          1995年のバックパッカー15 香港4 さらばドラゴンシティ!悪いけど次があるから。

          ちょうどスプレンディッドアジアへと戻ろうとしていた時に、同宿のインド人バスさんが通りがかったので、そのままおビールでもと誘った。僕は彼をチュンキンマンション内にあるフリースペース的なテーブルと椅子の席で待つようにと彼に伝えて、一旦スプレンデッドアジアのドミトリーに戻ってから、すぐに合流した。 気の利くバスさんはすでに缶ビールを2本用意してくれていた。僕たちはそれで乾杯した。そして数時間前に買った手付かずのビッグマックをテーブルに乗せて、冷えてるけどさっき買ったばかりのやつだ

          ¥200

          1995年のバックパッカー15 香港4 さらばドラゴンシティ!悪いけど次があるから。

          ¥200

          1995年のバックパッカー14 香港3 才能開花。勝ち続け、そしてギャンブルは続く。

          僕とチャーリーはパンパンに膨らんだ金銭欲と勝負師魂のようなものを持って、彼の安宿へと帰還した。ブルネイ人はまだ戻っていなかった。 約束の1時間後はすぐに訪れ、そして2時間後を経過し、少し焦り始めた頃の3時間後にブルネイ人は戻って来た。もしかしたら例の中国美人との約束を果たしていたのかもしれなかったが、戻った時のブルネイ紳士のやたら真剣な表情のせいもあって、それは聞けなかった。 僕とチャーリーは、待っている間に入念な復習も済ませてあったので、すでに次の勝負の準備も万全だった。も

          ¥100〜
          割引あり

          1995年のバックパッカー14 香港3 才能開花。勝ち続け、そしてギャンブルは続く。

          ¥100〜

          1995年のバックパッカー13  香港2 善意と欲望とギャンブラー

          それは、1995年の5月5日金曜日の出来事だった。 チュンキンマンション、スプレンディッドアジアのドミトリーで10時に目覚めた僕は、早くも馴染み始めた香港の街をゆったり歩き、木陰の多い九龍公園のベンチでくつろいでいた。 そこへ小柄で目の大きい東南アジア系の男が、屈託のない笑顔を浮かべながらやって来て、僕のすぐ隣に座った。歳は35くらいだろうか。その男はチャーリーと名乗り、初対面の外国人通しが交わすようなありきたりの会話をしばらくした。 彼のキャラクターと、昼間の公園のの

          ¥0〜
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          1995年のバックパッカー13  香港2 善意と欲望とギャンブラー

          ¥0〜