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1995年のバックパッカー14 香港3 才能開花。勝ち続け、そしてギャンブルは続く。


僕とチャーリーはパンパンに膨らんだ金銭欲と勝負師魂のようなものを持って、彼の安宿へと帰還した。ブルネイ人はまだ戻っていなかった。
約束の1時間後はすぐに訪れ、そして2時間後を経過し、少し焦り始めた頃の3時間後にブルネイ人は戻って来た。もしかしたら例の中国美人との約束を果たしていたのかもしれなかったが、戻った時のブルネイ紳士のやたら真剣な表情のせいもあって、それは聞けなかった。
僕とチャーリーは、待っている間に入念な復習も済ませてあったので、すでに次の勝負の準備も万全だった。もはや相手が誰だろうが負けるわけがない。ブルネイ人には、僕が用意した現金と金製品と時計、そしてチャーリーの現金を見せた。実はシリー夫人からの借入もあるが、まだ届いていないのだが電話で確かめてもらえるかとチャーリーがブルネイ人に聞いたが、シリー夫人はブルネイ紳士とも知り合いらしく、その必要はない信じるよ、という彼の言葉で保証金のことは話がついた。
そしていよいよゲームの途中だったカードをオープンする時が来た。3人のサインが入った封筒をそれぞれに渡し、ブルネイ紳士と僕のそれぞれが開封してカードを見せた。
もちろん僕とチャーリーが勝っていた。
開封時の僕の心臓はかなりのバクバクだった。体は正直なものだ。気持ちは冷静なつもりでいたが、やはり自分の資金を使ったこともあって、結構なストレスを受けていたのだろう。チャーリーもそんな僕の様子を察して安堵の笑顔を送ってくれた。
ブルネイ紳士は、冷静さをどうにか装っているのが露見していた。彼にしてみればたいした金額ではないはずだが、負けず嫌いなのだろう。勝者と敗者が生まれた場の空気が一旦落ち着くまで待ってから、さあ次を始めようと静かに言った。
それに対して、僕は思わず断った。遊びとしてはもう十分だし、これ以上の保証金を用意することも無理だと分かっていたからだ。だがブルネイ紳士としてはそうはいかなかった。約束の5回のうちあと3回はあるはずだ、サインもしたはずだと言う。チャーリーも確かにサインがある以上やるしかないと冷静に答えた。だが、僕たちには上がる掛金分の資金がないことは明らかだった。だが、ここに来て、ブルネイ紳士は君たちにシリー夫人がついているなら信用するとのことだった。チャーリーもそれを聞いて深く頷いて、さあやろうということになった。
何度やっても勝てるという自信はあったが、万が一ということだってあるだろう。その万が一がどう起こるのかは想像できなかったが、話がうますぎるように思えた。そろそろ何かが起こるかもしれないという嫌な予感があった。
だが、初めてわずかに弱気になった僕ではあったが、次のゲームが始まると腹をくくり集中した。そしてまたもや買った。僕の取り分だけでも400万円だ。なんということだ。一泊500円のドミトリーに泊まって安食堂で済ませていた僕が、半日で400万を稼いだのだから。

ブルネイ紳士は明らかに落胆していた。そして、今日はついていないからもう終わりにしようかと思うと微笑みながらつぶやいた。僕は彼のその微笑みの中に、子供に勝たせてあげた父親のような余裕と優しさを感じ、彼は本物の金持ちなんだなあと感心した。そしてようやくこのゲームが終わることに心から安堵した。
だが、チャーリーだけは、「あと2回やろう、サインだってある」とこちらも微笑みがら言った。だが、その微笑みは弱者を小馬鹿にするような嫌な感じが少しだけあった。チャーリーの意外な一面を見た思いだった。そしてブルネイ紳士は、はじめは勘弁してくれよといった感じで笑っていたのだが、チャーリーが毅然としてやろうと言い張ったので、顔色を変えた。彼は首を小さく横に振りながら面倒くさそうに、カードが配られるのを待った。
まさかのラスト2が始まったのだ。
だが、この会も順調だった。ブルネイ紳士の伏せカードは、チャーリーのサインによると7、そしてオープンカードが6。合計13だ。そして次にチャーリーが配るカードはサインによると8だった。つまりこの8をブルネイ人に取らせたら合計21になってまずいことになる。僕はその8を自分がもらった。それによって自分のカードの合計は20になった。まずまずだ。彼が8を引かない限りまず勝てる。そして次にブルネイ紳士が7のカードをもらった。つまり彼も僕と同じく20になったはずだ。つまりドローだ。まあ、負けなかっただけいい。あと1回だ。
だが、ブルネイ紳士のオープンした3枚のカードは、6+7+7=20ではなかった。6+8+7=21だった。チャーリーが伏せカードは7だと確かにサインして来たはずだったのに、実際は8だったのだ。
ブルネイ紳士はたいして喜びもせずに淡々の身支度を整え、僕たちはもう賭けるものがないことを知ってか、テーブルの上のお金やゴールドをバッグに入れて、さっさと部屋を出て行った。
まさかの負け?
なぜだか、あと1回やれる権利を2人とも口にできずに黙ったままその後ろ姿を見送った。シリー夫人のことをチャーリーも僕も言えなかった。僕は頭は真っ白だった。血の気が引くという体験を初めてした。

チャーリーはブルネイ人の伏せカードは8だったから、君は8を自分でもらわずに、彼にその8を渡していたら6+8+8=22でバーストだったはずだと、僕に迫った。いや、チャーリーのサインではブルネイ人の伏せカードは確かに7だった。だからこそ彼に8がいっていたら6+7+8=21になると思い、最強の21になることを避けるために次の8を僕がもらうしかなかったのだと僕は言い張った。チャーリーはそんなことはないとの一点張りだった。こうなると埒が開かない。つまり確実に言えるのは、どちらかがミスをしたということだった。
だがどう転んでももはや結果は変えられない。ブルネイ紳士はすでに安宿から去った。チャーリーと僕は、呆然としたまま部屋を出た。そのままそこにいたらどこまでも沈んでしまいそうだったからだ。窒息しまいと外気を必要とした。
吸い込まれるように入った近所のマクドナルドだったが、頼んだビッグマックがまったく喉を通らなかった。チャーリーは悲痛な面持ちだった。彼がクアラルンプールの5つ星ホテルのカジノで、ディーラーとして日々どのくらいの稼ぎがあるかは全く知らなかったが、泊まっている安宿からしてたかが知れているだろう。もしそれなりに稼いでいても、今日のような裏ギャンブルですっていたりすれば、元も子もない。彼がこの数時間で失った額は、シリー夫人からの借入分も含めて相当なものになる。
「妹に申し訳ない」とチャーリーはビッグマックを見つめながらつぶやいた。彼もハンバーガーを口にできる心境ではないらしい。僕たちはしばらくそれぞれに呆然としていた。あんなに真っ白な気分になったのは
生まれて初めてだった。
それから最初に沈黙を終わりにしたのはチャーリーだった。涙目が渇いたような赤い目をしていた。
「これからブルネイ人に連絡してみるけれど、あと1回だけブラックジャックをやってくれないか?」そう言ったチャーリーは何か覚悟を決めたように落ち着き払っていた。まるで僕たちが大負けした事実などなかったかのような感じだった。僕はプロのギャンブラーというのはこういう切り替えができるものかと瞬時に感心した。
「だが、元金がもうないじゃないか」僕は当たり前のことを伝えた。それはチャーリーだって分かりきっているはずだった。
「もちろん、シリー夫人がオーケーしてくれればの話だけど。そして君は何も出資しなくていい。ただ、ゲームを冷静にやってくれればいい。今度はさっきのようなミスはしないように。私もはっきりとサインを出すから、負けはない。ただ、やってくれればいい。君にはリスクがない。」
チャーリーは一応頼んでいるような形を取ってくれてはいるが、そこには断ることを許さないような静かな圧力があった。幾分彼の目が座っているようにも感じた。
「つまり、シリー夫人が出資を承諾し、あと1回をブルネイ紳士が承諾してくれたらの話だよな?そして僕は1ドルすら出資しなくていいんだね?」
僕がそう確認を入れると、チャーリーはサムアップしてそうだと頷いた。
「わかった。僕は自分のためというよりも、君のためにもう1回やろう。買っても負けてもそれで終わりにしよう。」
僕の言葉に、チャーリーは再びサムアップした。
「じゃあ私はこれから電話をしたりするんで、ひとまず帰るよ。妹がなかなか帰ってこないのも気になるから連絡したいし。そうだな、22時にチュンキンマンションのエレベーターホールに迎えに行くからそこで落ち合おう」
そう言い残して、チャーリーは去っていった。ビッグマックは手付かずのままだった。僕は少し迷ったが、彼のと僕のビッグマックをテイクアウトにして、チュンキンマンションに帰ってそのままベッドに横になって、いったん全てを忘れて休むことにした。もちろん、興奮していて眠れはしなかった。いつの間にか頭の中ではチャーリーのサインを復習していて、ラストゲームへと余念がなかった。そうしながらも緊張感で、なんだか吐き気もした。できることなら1日前に戻りたかった。大金を失わず、安食堂の食事に満足できていた昨日までの自分へと。

韓国、中国、そして香港へと続いて来た自分の旅の軌跡はまだこれから大きな絵を描くはずだった。だが、まさかのギャンブルでの大負けである。いったい下関から釜山行きのフェリーに乗った自分はどこへ行ってしまったのだろう。こんな馬鹿らしいギャンブルに巻き込まれたのは自業自得だが、あまりにも愚かだと思った。だが、あと1回チャンスがあるかもしれない。チャーリーのあの表情からして、きっとやることになるだろう。今はそこに全集中してとにかく勝とう。
僕はそんなことを頭の中で繰り返しつつ、やがて約束の22時が来た。すでにシャワーを浴びて着替えもし、無理やり気分転換させた僕はチュンキンマンションのロービーでチャーリーを待った。彼が現れるまでの間、次にこの場所に帰ってくる時は数百万円の勝ち分と共に戻ってくると誓っていた。
エレベーターホールを出入りしている人々がいつもと違って遠くに感じた。僕がこれから大きな賭けをすることなんて誰も知らない。僕は次第に昂ってくる心身を抑えるのが大変だった。
チャーリーはなかなか現れなかった。30分過ぎ、1時間が過ぎた。きっと何かに手間取っているのだろう、僕はそう信じて待ち続けた。
そしてついに2時間が過ぎて日付が変わった。1995年の5月5日から5月6日へと変わったのだ。
その時に僕は全てを悟った。
負けたのは、チャーリーと僕の2人ではなかったことを。僕だけが負けたのだと。つまり、ブルネイ紳士とチャーリーが僕をだましたことを知った。


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