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1995年のバックパッカー 9 中国4 烏魯木斉

烏魯木斉での初日は、9時に起きた。快眠だった。

11時頃にホテルを出て、まっすぐ中国銀行に向かい、300アメリカドル分のトラベラーズチェックを中国元に両替した。

ちなみに2024年現在は、トラベラーズチェックという面倒なものは存在していないだろうと思っていたが、昨日町田駅近くのワールドカレンシーショップで、トラベラーズチェックを換金している人がいて驚いた。手間よりの安全性ということだろうが、あんな面倒なものは僕なら二度と使わないだろう。

さて、話を1995年に戻そう。

中国銀行を出ると、闇両替屋と思われる男が100元紙幣の束をちらつかせながら寄って来た。白昼に、しかも銀行前で堂々としているのが不思議だった。良いレートかどうかも確かめもせずに、断った。囮捜査の可能性だってある。僕は社会主義国にいることを今一度思い出した。一度捕まったらどうなるか分からない。まあ、ひとまず賢明な判断だろう。

その場を離れると、僕はいつものように勘を頼りに適当に歩き出した。旅の最中では目的地はあってないようなものだ。

解放南路を進むと、バイクの修理屋が並んでいた。ブロック作りの平屋群は、全体的に埃っぽく油の匂いが通りに漂っていた。そのうちの一つに、サイドカーつきのカーキ色のバイクが数台並んでいた。バイクに詳しくはないが、どれも年代物に間違いなかった。もしかしたら日本や欧米のコレクターにとっては垂涎物かもしれない。色といい形といい軍物に見えたが、わざとそう味付けしているのか、ただの払い下げなのか、それともこの土地ではありふれた大衆車なのかが分からなかった。


あまりにもかっこよかったので、記録として写真を撮らせてもらった。ファインダーを覗く少年に戻った僕の顔には自然と微笑みが浮かんだ。はじめは警戒していた従業員達もそれを見て我に帰ったかのように微笑みを浮かべた。笑顔は笑顔を生むなんていう言葉は当時の僕には恥ずかしい感じがしたが、日記にそのことが残っているので、印象的だったのだろう。そしてそれは本当のことだった。

車やバイクの修理工というのは、なんだか懐かしい気がする。僕が通っていた中学は不良が多く、友達のほとんどは不良だった。彼らは根が優しいというのが僕の印象で、粗野だが飾らない。烏魯木斉のバイク屋さんに揃っていた男達には、そんな同級生と同じ匂いがした。

その頃からか、僕は地元の人におすすめの場所を聞くようにしていた。ガイドブックなど持参していなかったというのもある。バイク屋の店主は、八路軍の記念館を勧めてくれた。僕は素直に従って指された方角へと歩き始めた。

その途中の路上で声をかけて来た李と名乗る青年が、八路軍記念館までの案内をかってくれた。小遣い目的なのかよく分からなかったが、断るのも面倒なので道連れになってもらった。途中で、炒麺と包子で昼食をとった。


八路軍記念館自体は、社会科見学でいくような場所で、共産党の八路軍の栄光の足跡と、指導者達の写真が飾ってあった。

そこで李君と別れ、僕は早速次の目的地までのチケットの状況確認をしようと民航の事務所まで北へと向かって歩き始めた。何度か通行人に道順を尋ね、ようやく辿り着くと、すでに16時になっていた。

僕はとにかく歩く。東京にいた時はバイクやタクシーが足だったが、新しい場所への好奇心を満たすには「歩く」しかないと考えていた。いや、きっとそんな考えすらもなく、当たり前のようにやたらと歩いていた。

僕は次の目的地上海行きの飛行機の予約を無事に済ませた。ここでも外国人価格と人民価格に結構差があったが、他の旅人達がよく口にするような不満はなかった。むしろそういうものだろうと考えていた。不平等はもっと別な大きな場所にあるに違いなく、ただそこへ好奇心は当時の僕にはあまりなかった。旅と政治は時に近づくが、大方離れている。

この烏魯木斉でも初日に次の目的地への足の確保を怠らないのは、のみの心臓とか臆病とかというよりも、効率重視の几帳面な性格と言うこともできた。

ちなみに僕の血液型はOだ。僕が避けようとしていたのは、土地を出る方法を失ったり、欠便などによる足止めを強いられることだった。つまり自分のペースを乱されるのを病的に嫌っていたのだ。

ともかく、出口を確保できた安堵感で、烏魯木斉の滞在を心に影のない状態でようやく始めることができた。


20時過ぎに、リィリィと彼女の友人の朱さんがホテルにやって来た。夕食を共にする約束をしていた。その前に滞在中の宿泊費の前夜精算を彼女達に手伝ってもらって済ませた。 このように前もって事務的なことを済ませてしまうのは、自分でパックツアーを作っているようで、なんだかなあという気はするが、まあよい。

ホテルを出る時に、入り口で割と可愛い女の子が僕に微笑みかけてきた。商売の人には見えなかったので、別人と人違いされたのだろうか。そう考えるのも不思議ではないような素敵な微笑みだった。

3人で歩き出し、映画館である人民電影院から解放北路へと抜ける市場にその火鍋店はあった。おそらく生まれて初めての火鍋だったはずだ。結構辛かったが、羊肉が美味しくて感動した。食は現地の人と一緒だといろいろ経験できていい。中国人はマナーという点ではマイペースだが、前屈みに片肘をつき、足を組んで、音をたてて食べ、屈託なく楽しんでいる彼女達を見ていると、それはそれだと全く気にならないのだった。

食後は、閑散とした光明路を紅山方向へと散歩した。辛味とビールでほてった体に夜風が心地よかった。だだっ広い光明路は人通りも少なく、小さな滑走路を思わせた。電灯は明るすぎず、デートするにはいい道だった。

中国人の女性2人と日本人の男が1人。おそらく同年代で、昔の同級生と歩いているような雰囲気だった。

朱さんは外見が僕の好みだった。性格も男っぽいリィリィとは対照的で控えめで静かだった。さらに少し酔った様子の朱さんは色っぽかった。もし北京からウルムチへの列車旅を共にしたのがリィリィではなく朱さんだったら、間違いなく恋をしていただろう。その展開がどうなったかは分からないが、きっと烏魯木斉の街も違って見えていただろう。毎日夕食の約束をして、それだけが楽しみで、昼間はただの暇つぶしになったに違いない。飛行機チケットの予約もせずに、ただ成り行き任せの本来の風来な旅になっていただろう。

3人は夜の散歩をたっぷり楽しんだ後、僕が泊まるホテルの前で別れた。彼女達2人が見えなくなったあとで、夕食前にホテルを出る時に見かけた女の子がその辺にいないか見渡してみた。あの微笑みは一体何だったのだろう。

部屋に戻ると、4階担当服務員の方さんという女性にベッドメイクをしてもらい、郵便局の場所を教えてもらってから寝た。小柄で若く、ショートカットで英語が通じ、聡明な感じだった。ここでも方さんがもしリィリィだったらという想像をした。方さんにも恋をしていたと思う。ショートカットが似合っていて、私服はおしゃれなんじゃないかなと思った。記念にポートレイトを撮らせてもらった。

それから数日は、淡々と過ごした。

相変わらず毎日たくさん歩いた。その合間に、洗濯をしたり、動物園に行ったり、映画館でハリソン・フォードの「追跡者」を観たり、書店やデパートを覗いたり、郵便局に行った。手紙や葉書は割とまめに出していた。

烏魯木斉から何かを学んだり得ようする意欲もなく、ただ気ままに過ごしていた。リィリィも仕事で忙しいらしく、訪ねてこなかった。新しい友達もできず、それでも暇つぶしには事欠かず、烏魯木斉での滞在はあっという間だった。

烏魯木斉では、大人の夜の娯楽の一つとして屋外ビリヤードが人気だった。それは日没後にどこからか十数台も舗道に運び出されて来て、それを取り囲む客達も熱心に魅入っていた。


走る車やバイクの種類は古く、ファッションや街の色彩など含めて全体的に日本の昭和30年代を思わせた。人も風景もフォトジェニックだったが、撮影には積極的ではなかった。暇つぶし程度であった。

食事はイスラム教徒であるウイグル人の食堂をよく利用した。それがほぼ唯一の新疆自治区らしい体験だった。毎日羊肉を食べていたし、臭みもなく口に合った。彼らのソウルフードなので、食材の回転も良く、肉自体の鮮度が保たれているからだろう。

街全体の印象としては、開発の真っ只中で、そこらじゅうが掘り起こされていて、建設中の建物も多かった。車が通り過ぎると口と鼻を手で覆わずにはいられない埃っぽい街だった。多分、30年後の現在に再訪したら全く違う街になっていることだろう。


最終日の夜は再びリィリィがどかどかやって来て相変わらず大きな声で喋り、笑った。誰かに似ているとずっと思っていたが、和田あき子さんだった。容姿までは似ていなかったが。

リィリィは僕の翌朝の出発が早いのを知っていて、空港まで僕を送るつもりで、近くに一泊するためにホテルを探したがなかなか見つからない。事前に調べておくことをしないリィリィは、行き当たりばったりの過去と未来にいつも挟まれていた。それでもうまく行くのが彼女の人生なのだ。

その時も通りがかりのウイグル人に声をかけて、まんまと手頃なホテルを教えてもらい、そこにチェックインした。僕たちはそこで早々に別れ、そのウイグル人にホテルまで送ってもらう途中の屋台で、その彼に新疆ビールをごちそうになった。最後の夜にふさわしい爽やかな温かい酔いであった。

翌朝、6時半に方さんからのモーニングコールがあった。彼女に日本のコインを記念に渡すと、方さんは胸ポケットに指してあった万年筆をくれた。あまりに不釣り合いのプレゼント交換だったが、彼女は押し付けるようにして私にくれた。可愛い笑顔だった。


リィリィは時間には正確だ。軍服姿の友人と共に現れると、一緒に空港へ向かった。僕たちはその車内でどんな会話をしたのだろう。リィリィはジャペーンと言ったのだろうか。

ありがとう、リィリィ。そしてさよなら、リィリィ。僕らは二度と会うことはないだろうと勘付いていたが、それを互いに口にしなかった。美しさには光と影があって、僕たちはそれを転がし続けて人生を作っている。









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