見出し画像

1995年のバックパッカー8 中国3 北京から烏魯木斉へ列車の3泊4日

北京駅を出発してから最初の朝は、7時頃に寝台で目覚めた。気分は良く、すっきりしていた。
列車は鄭州から洛陽へと向かう途上で、窓の外には春の花々と田園が薄い霧に包まれている風景が続き、その淡く優しい色彩と甘い輪郭の世界は、まるで天国のようだった。

車窓の風景を、寝そべりながら楽しめる軟臥(ソフトベッドの寝台)はかなり快適で、これなら1週間でも乗っていられそうだと思った。日本にいる時でさえ寝台車の旅は未経験だったのに、いきなり外国で3泊4日というのには不安もあったが、取越し苦労だった。
朝食は服務員が手押し車に乗せて売りに来る。青梗菜と豚肉炒めを上に乗せた麺は、期待薄だったせいか、普通においしかった。「うん、このレベルなら食も大丈夫」。住と食に問題ないことが早々にわかり、あとはぼんやり風景を楽しんだり、本を読んだりしていれば、ウルムチに着く。これは最高だ。思う存分に惰眠を貪り、ぼんやり考え事をしたりしていればいいのだ。
だが、そうも言ってられなかった。
周囲の乗客たちにとっては、外国人の僕は格好の暇つぶしの相手であり、好奇心を思う存分に向けられるはめになった。ぼんやり考え事なんてしていられない。
もちろん、みんないい人達だが、休む間もなく次々に訪れてくる人を相手にするのは結構大変だった。コミュニケーションは筆談に頼るしかなく、入れ替わり立ち替わり話しかけてくる人たちに、同じような返事繰り返すのもまあまあ面倒だった。取材嫌いの著名人の気持ちが少しだけわかった。質問というのは、そもそも平凡で似通っている。
さらに食べ物もひっきりなしに差し出される。無碍にできずにそれを食べるのだが、中国の乗客たちは、食べることが大好きで、ずっと何かを口に運んでいる。鶏肉の燻製、足、ひまわりの種、その他ナッツ類、ソーセージ、パン、乾き物、メロンの種、にんにく、漬物、などなど。さらに熱湯はいくらでも無料で、茶葉の入った分厚い蓋付きのガラス瓶にそれを注ぎ、常に傍に置いていた。もちろんビール(ぬるい!)も飲む。だが、四六時中車内で酒を飲んでいる人は不思議とおらず、つまり酔っ払いの喧嘩やトラブルはなかった。
僕は筆談と飲食を常に強いられるという、まあまあ難しい状況を避けられずにいた。とはいえ、これは幸せなことだった。


本来、集団の中にいるのが不得意な僕は、時々身振りで眠いと周囲に示し、ベッドで寝ることで回避した。時々は狸寝入りであり、時々は本当に眠かった。列車の振動というのは元々眠気を誘うものだ。時に季節は春。もっともなことだった。
リィリィもちょくちょく僕の寝台のあるところへやって来て、筆談に付き合うことになった。
藤代は、トンダイと読むらしく、大きな声と大きな笑顔で、トンダイ!と叫びながら(誇張ではなく)登場するのだった。そのたびに周囲の人々の目が一斉に僕に向けられる。生命力を測ったら僕のは彼女の半分にも満たないだろう。結構大柄で、民族的には漢民族だと思う。そのことを尋ねはしなかったが。
筆談に詰まると、きまって彼女は「ジャペーン」とおっきな声で言うのであった。もちろんジャパンと言っているのだが、ちょっと違うことはあえて指摘しなかった。通じているのだからいいじゃないか。
北京滞在を早々に切り上げて、土曜発の火車(中国語で列車のこと)にしたのは、リィリィの旅程に合わせたからだったし、快適な寝台に恵まれたのも彼女のおかげだった。初対面の人の誘いによくも乗ったものだと30年後の自分は思うわけだが、27歳の僕が決して浅はかだっただけでなく、直感に従うことが自然にできていたとも言える。
そして考えてみれば、僕の半生はいつもこんな感じの場当たりなものだった。僕はそれを微笑ましく思い、小さな誇りさえ感じる。
僕の休息や惰眠を邪魔するのは、周囲の善良な中国人たちだけではなかった。
車内スピーカーから強制的に流れてくる音楽は、音量の調整もできなかった。とにかく聞き続けなければいけない。それらは外国の音楽も多く、例えば、オーバーザレインボウ、ドレミの歌、花、サザンオールスターズ、セイリング、鉄腕アトム、北国の春などだった。花は、かなり親しまれているらしく、中国の歌だと思われていた。確かにそれっぽいメロディにも聞こえる。
僕は音痴なので(自分ではそう思っていないから本物だろう)日本の歌をひとつ歌ってくれないか?という展開を恐れていたけれど、そうはならなかった。思いは現実化しない時もある。

流れゆく大中国の車窓風景には、時に偏屈な僕の心にも普通に旅情を掻き立てられた。
西安、宝鶏へと向かう途中で見た油菜(ユーツァイ)の黄色い花はちょうど盛りで、ずっと眺めていても飽きなかった。植物が豊かに萌えて、花の黄色や黄土色の大地、赤茶けた煉瓦造りの古い家屋の景色には、郷愁が浮かんだ。平凡な言い方になるが、懐かしい風景になんだか泣きそうですらあった。そういう時間は貴重で、常に筆談攻めの呼び出しを気にしながら、文字通り息をひそめるようにしてこっそり眺めていた。
宝鶏を過ぎると急な斜面を持つ山々の間に黄河が見えてきた。もう上流域なのだろうか。川幅はそれ程でもない。水深たいしたことなさそうだ。流れのすぐ横を歩く人々と水面の高さはほとんど同じ様にみえた。
中国は人口が多いということを実感したのは、広大な風景の中にも、人の姿や家が必ず見つけられるということに気づいた時だ。人がいそうもない景観の中に当たり前の様に人が歩いていたり、家が建っている。中国の人口は、地方が都市部の4倍あると、この旅のどこかで一緒になった人が言っていたのを思い出した。本当に人が多いのだろう。


初日の中国はずっと曇っていた。 食べ過ぎで少し吐き気がしたので早めに眠ることにした。天水へ向かう途中で日は落ちた。その日車窓から最後に見たものは、列車に手を振る子供達だった。その子供達は写真の中で、そして記憶の中では永遠に子供達だが、2024年の現実世界では40歳前後になっている。僕は浦島太郎氏を思い、岡本太郎氏をも思った。


2日目の朝は、目覚めると雪景色だった。
蘭州から南武威に向かう途中だった。大平原に降る雪の粒さえも大きかった。
朝食の弁当は、白飯の上に昨日と同じ青梗菜と肉の炒め物が乗っていた。うまいので問題なし。冷水で顔を洗うと気持ちいい。今日が新しく始まった気になる。
食後は、金子光晴の「マレー蘭印紀行」をゆったり読んで過ごす。時々外を眺めるが風景はほとんど同じまま。降雪地帯を走っているだけに、車内も冷える。

昨日はリィリィのオープンキャビンに何度も呼び出され、常に何かを食べさせられたので、今日は自分の場所で過ごそうと決めていたが、やはり何度も強制召集を受け、またもや食べ続けるはめになった。リィリィの性格は大らかで大雑把で、そして優しかった。こういうのを大陸的というのかなと思った。同じ年頃だと思うが、姉貴肌で明るく声がでかかった。「ジャペーン」と相変わらずおっきな声で言うのだが、考えてみれば、コミュニケーションに行き詰まった時に、相手の国名をおっきな声で言う人は、後にも先にも彼女だけだった。僕は、決してカンボジア人に、「カンボージア!」などとは叫ばない。
リィリィのような人が家の中にいたら、間違いなく母権の強い家庭が築かれるのだろう。それはそれで良さそうだった。ぼんやりしていても、彼女が仕切ってうまくやってくれるだろう。僕は、食べて働いて、ぼんやりと人生をやり過ごすだけでいい。

昼食は朝と同じ弁当だった。そう日記に書いてあるが、リィリィにたくさんご馳走になっていたのに、まだ食べたのだろうか。
張掖を過ぎると南側に海抜5500メートルを超える山々が見え始めた。 山好きの僕としては、これまで見て来た中で最も高い頂を目にしたことになり、当然昂った。いつか、と未来の夢を想像しかけて、いや今すぐにでも行けないかと考えたが、そこへの直感は鈍かった。
窓から見える人々の暮らしは貧しい。黄土の土壁で作られた質素な家。電気も通っていない村も多い。荒れた台地を馬や牛を使って耕している。車窓に向かって構図を取るかの様に絵画的な間隔をとって点在する人々。線路脇に立ち、火車の乗客が窓から捨てた物を拾おうと待ち受ける人々。顔や髪は黄土色に煤けている。

日没迫る夕暮れ時、四方に地平線の広がる中で火車と並走する一台のバイクが視界にあった。乗っているのは一組の若い男女だ。後部シートに坐る女子は寒さをものともせずに微笑んでいる。二人もこちらに横顔を見せたまま、まっすぐに向いている。美しくて切ない光景だった。彼らの帰る場所はいったいどんな所なのだろう。私は彼らの幸福を祈った。
酒泉を過ぎた頃、陽は沈んだ。ガラスの破片がくだけて最後の西陽に照れされて輝いていた。

3日目は窓からの朝陽を受けて目覚めた。
夜は冷え込んだが、真冬対応の寝袋のおかげでぐっすりと眠れた。朝からの晴天は、この旅で初めてだった。
7時40分から営業開始の食堂車で、昨夜乗って来た隣人と共に朝食をとった。彼は38歳。3歳の子供がいて、上海に住んでいるという。名前は周さん。烏魯木斉(ウルムチ)へは商用で、彼は牛乳飴のビジネスをやっていた。烏魯木斉には安い仕入先があり、添加物を含まない素朴な製法のため、都市部で健康食品として高く売れるとのことだった。僕が11歳年上の人にこう言うのもなんだが、元好青年風な爽やかな人で、ミルクキャンディを売るのが似合うなと思った。
周さんが言うには、子供には、実の父母の他にそれぞれの祖父母まで数えると、6人の親がいて顧客数をかせげるから、子供相手のビジネスはいいよとほくほくとした笑顔を見せた。
そして昼食も周さんのおごりで食堂車を利用した。なんだかリィリィに悪いなと思いもした。
彼の烏魯木斉滞在は2日のみで、食堂車からの去り際に、本当は台湾から来ているんだと僕に打ち明けた。台湾からだということが知られたら得にはならないらしい。政治に疎い僕は、なんとなく察してうなずくだけだった。

シルクロードで有名な吐魯蕃(トルファン)辺りから土漠の風景に植物の緑が戻って来た。電柱が地平線まで並び立つが、電線がない。原子力発電所らしきものも見えた。

19時15分ごろに烏魯木斉に到着した。
僕が想像していた中国西部の都会というイメージ以上に、烏魯木斉駅の周辺は栄えていた。まるで北京だなというのが第一印象だった。
僕はリィリィに連れられて駅からバスに乗り、そのまま民主路にある新疆電力賓館にチェックインした、というよりさせられた。
リィリィの後ろについて行く僕は、まるで尻に引かれる旦那のように見えていたに違いない。だが、かなり助かったのは事実だった。見知らぬ街での夜到着の宿探しはストレスが多い。そういうのにまだまだ不慣れだった。
夕食はホテル近くの店で、リィリィの友人たちも合流した。リィリィ軍団御一行様といった威風堂々とした集団だった。
その後、ホテルの部屋に戻り、軍団みんなで少し過ごしたあと、それぞれがぽつりぽつりと帰り始め、最後になぜかリィリィだけが残った。そしてなかなか帰ろうとしない。
なんか変だなと思いはしたが、まさかそういうことじゃないよなと思いつつ、それでもリィリィは会話も尽きたのに居座っている。思えば先に帰ったみんなも、邪魔しないように気を遣ったようにも思えなくもなかった。帰る人たちどおしでアイコンタクトをとって、そろそろだよ、的な相槌があったような。
「ジャペーン」
唐突にリィリィが大きめではない普通の大きさで言った。なんともシュールな余韻が残ったが、僕は実際結構疲れていたので、もう寝るからバイバイみたいな素振りをナイスな雰囲気でやったつもりだ。
部屋を出て行く時のリィリィは、僕の気のせいか少しだけ寂しげで、悪いことをした気になった。結構遅い時間だったし、彼女はただ疲れていたからただ一泊したかっただけかもしれない。ベッドもふたつある部屋だった。僕を弟分だとみなしていて、疲れたから私も泊まってこうかな、家は遠いし、ということだったかもしれない。ただそれなら筆談してくれたはずだ。
正解や答えというのは、時に風に吹かれている。そしてそういうものが必要ではない2人というのもいるだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?