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1995年のバックパッカー 4 韓国2「ソナさんの浅さについて」

僕はソナさんの綺麗さに、なんだか緊張した。
神戸のあの夜は、本当に現実に存在したのだろうか、咄嗟になぜかそう思った。

「わたし、浅くない?」

あの夜、彼女がつぶやいた問いは、僕の中に小さくない何かを残していた。そういう質問を受けたのは、生涯であれっきりだ。僕がどう答えたのかは覚えていないが、確かに彼女の言う通りだった。

そんなソナさんが、あの時と同じ綺麗な姿のままで現れた。僕は最初から動揺した。僕たちは、ホテルのバーでビールを一杯ずつ飲んだ。ついこの前までなら、東京のそう言う場所で過ごすことも時々あった。大人たちに混じり、それなりにお金を使い、それなりの服装と在り方で、楽しむこともできた。もしかしたらこの旅では最初で最後の贅沢になるかもな、と思いつつ支払いを済ませるとホテルを後にして彼女の案内するレストランへと移動した。

それは楽しい夜だった。
僕たちが会うのは2回目だったが、すぐに打ち解けて、マッコリをたくさん飲んだ。宣陵の土壌という店で、今はもうないかもしれない。ちなみにググってみたが出てこない。すでに記憶の中の幻の店になってしまっている。

そこはヘルシーな韓定食を出し、韓国料理といえば焼肉のイメージしかなかった僕には、小皿がずらりと並んだその雅さは驚きだった。宮廷料理が元々の姿だとソナさんが説明する横で、僕は彼女の色っぽさに動揺して、顔を直視できずにいた。彼女はまだ浅いのか?おそらくそんなことを考えていただろう。
現在の僕はアルコールを一滴も飲まなくなっているが、その頃はそこそこいけた。ソナさんも結構飲む方らしく、いいペースで楽しい食事だった。僕は彼女の浅さに向かって確実に降下している実感があった。

お互いほろ酔いだったのだろう。駅までの心地よい帰り道、ごく自然にキスを交わした。

「韓国では、路上でキスすることはまだ珍しいこと」と彼女の言葉が日記に残っている。もしその記述がなかったら、そのキスのことは忘れてしまっていたかもしれない。「昔と同じ匂いがする」ソナさんはそう言った。30キロの荷物の中には、香水もあったのかもしれない。それはそれで役に立ったのだろうか。

別れ際に、僕がソウルにいる間に、もう一度会おうと約束を交わした。



その夜、東京の妙子さんから電話があった。

彼女は一つ前の恋人のことをよく聞かせてくれた。もちろん頼んだわけでなく、ひとつの話題としてごく普通に彼女は話すのだった。日記は、その内容までは触れていない。

東京にいる間に聞いた妙子さんの元の恋人の話で印象に残っているのがいくつかある。
その彼はプライドが高く、それを支えるだけの学歴と背景もあった。そして外見にも恵まれていた。就職先は、大手広告代理店だった。そのため駆け出しの僕の存在も知ってくれており、それは妙子さんが仕事を共にした相手として話題に上らせてくれていたのかもしれないが、とにかく僕を知っていて、職種こそ違うが業界内の同い年ということもありライバル視しているのだと、確か妙子さんは言っていた。そして僕は撮る写真とセットで元彼には認められていなかった。むしろ攻撃の対象だったらしい。

あと、こんなのもあった。

妙子さんは、彼がいつも長いフェラを要求していたと笑い話にしていた。そして彼のそれは大きいらしく、僕のよりも大きいと妙子さんは言うのであった。僕はまったく気にしなかったが、なぜそんなことを言うのかは不思議だった。ただの事実を伝えていただけで他意はなさそうだったが、妙子さんにはちょっと変わったところがあった。

僕がその夜の電話で、ソナさんのことを話題にはしなかった。きっと妙子さんなら言うのかもしれない。

翌日は、11時にアストリアホテルをチェックアウトして、裏手に見つけておいた安宿へと移動した。バストイレ、オンドル付きのベッド部屋で、広さは四畳半。だいぶくたびれていたが、衛生面は大丈夫そうで、問題なかった。



その日は気の向くままにぶらぶらして過ごした。

写真を撮るために旅に出たわけではなかったので、その気にもならなかった。きっと本物の写真家ではないんだなと自重気味でもあった。

秋葉原の路地に似た乙支路三街、鐘路五街、おしゃれな大学路などを歩いた。中央郵便局へ行き、妙子さんに手紙を出した。僕は筆まめだった。手紙は出すのも貰うのも好きだった。今では一切書かないけれど。

ランチはKFCでさくっと済ませた。コーンがキムチ味なのはさすがであった。なぜ、韓国に来てまでどこの国でもあるチェーン店を選んだのか不思議だが、日記にはこうある。
「口に合わない現地食しかない土地もあるだろうから、食べ慣れたものがあるうちはそれにしよう」
なんとも消極的だが、長い旅をするために体調を気にしていたのだろう。


一旦ホテルで昼寝をした後で、明洞で「スクラッチング」という映画を見た。女の執念の怖さを描いたものだが、そのラストシーンは明洞で撮られていて、映画の後でぶらぶらしている時に気づいた。自分が外国にいて、外国の映画を見て、映画の中に現実の風景があってと、入子構造なのが面白かった。

夜の街を歩いていると、女を紹介してやると身振りで示す男が寄って来た。韓国人に似てはいる気が自分ではしていたが、やはり僕は見るからに外国人らしい。

翌朝は、旅館の主人に頼んでもいない8時のモーニングコールで起こされた。正午までいさせてほしいと身振りで頼み許された。
その日は、ホテルを再びアストリアホテルに変更した。夜に会うことになっていたヨナさんとの「もしも」に備えたつもりだったに違いない。

30年前の自分の姿は、なんだか別の男のようだ。今の僕ならそんなことはしないだろう。倫理的なことではなく、そういう情熱はかなり静まってしまっている。仮にそうなったとしたら、その時に考えればいいことだと構える経験もある。だが、どちらがいいかは分からない。


ソナさんとは、午後3時に一昨日と同じコンチネンタルホテルで待ち合わせた。会うなり「今夜は一緒にいられない」と言われた。彼女の父親の体調が悪く、さらに母親の帰宅が遅くなるせいで夕食を家で作らなくてはいけなくなったとソナさんは謝った。

「浅さ」は遠のいた。

僕たちは江南の押鴎亭1時間半ほどを歩き、ハグすらせずに別れた。もちろん同じ匂いがするとは言われなかった。

ソナさんとはそれが最後になった。

手紙も電話もないまま今日に至っている。今となっては連絡先も分からない。フルネームや電話番号が書いてあったはずのメモも消えてしまっている。

別れる前に、ソナさんのポートレイトを2枚だけ撮った。1枚は風を気にしたソナさんが半目になってしまっている。そしてもう1枚は、こちらを見て微笑んでいる。その微笑みに、30年分の歳月を足した姿を想像してみる。だが、うまく描けない。今、ソウルの街ですれ違ったとしても、お互いに分からないだろう。僕はもう香水もつけていない。

その夜は、ホテルの部屋の衛星放送で日本の7時のニュースを見た後、明洞の路地裏を歩いた。

母が生まれたソウル、ソナさんと過ごしたソウル、そして一人ぶらついたソウル。それらへの想いが重なる中、視線を泳がせネオンとネオンの間を歩いた。

下関を出て、最初の街。
旅はまだ始まったばかりだと言うのに、やたらと物語が生まれたようだ。いったいこの先、どんな物語が僕を待っているのだろう。どんな出会いと別れが待っているのだろう。未来は漠然としつつも、確実に存在することを、その夜に感じた。

そして、その未来は神様が準備してくれているのではなくて、僕の一歩一歩が創り出していくのだろうと思った。北西に向かえば、北西の未来が。南東に向かえば南東の未来が、それぞれシネマコンプレックスの別のドアのようにあって、中で上映されている物語も全く違うのだ。

そして、上映されている映画は、誰かの作品ではなく、僕がゼロから創り上げるものだ。おそらく何処かの誰かのためではなく、自分自身のためだけに。

東京でカメラマンをしていた数日前の自分は、自由のようでいて、実際はクライアントからの仕事を、空から降ってくる何かが地面に落ちてしまう前に受け止めるように動いていただけだった。それを社会性とか社会との結びつきと呼ぶのだろうが、僕が旅に出たのは、そこから一旦解き放たれたいという願いのためだった。

 少し歩き疲れて、明洞の路地裏の焼肉屋に入った。変化をつけようと初日入った店の隣に入ったつもりだったが、全く同じ店だった。ちょっとした異空間へのドアを通ってしまったのだろうか。だが、もう引き返せはしないだろう。さすがに注文は変えて、キムチと味噌仕立ての海鮮鍋にした。野菜が大盛りだったが、煮込むと小さく縮んでうまく収まった。

さらに忠武路のコンビニでバナナと牛乳を買い、屋台で鶏の串焼きを食べた。主人や客といくつか言葉を交わし、この街になじみ始めたことを感じた。新しい街も、こうして旧知の街へと変わっていくのだろう。そして旅は、旧知の街を増やしていくことなのだろう。

また来るだろうな、と思った。

ソウルよ、ありがとう。

そして、母よ。



 





 

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