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1995年のバックパッカー 5 韓国3 仁川の夜に泳ぐ

東仁川は、ソウルから1時間だった。

到着は14時半。そのままホテルを探して歩き始めた。20分ほどで、ラブホテルのようなものを見つけチェックイン。部屋に入ると、コンドームの自動販売機があり、匂いからも、そこがラブホテルだと確信した。そうか、韓国ではラブホテルも普通に泊まれるんだと、新しいことを知った気になった。

荷物を置くと、すぐに東仁川の街を散策した。

ソウルから来ると小じんまりとした印象だが、若者向けのストリート、市場、スーパー、飲み屋街などが区分されていて、一通りコンパクトに揃っていて暮らしやすそうだった。東仁川というからには、元の仁川もあって、おそらくそちらの方が大きな都市なのだろうなどと想像しながら歩いた。

若者向けのストリートには、ベネトンやカルバンクラインとった欧米のものに混じって、VIVA YOUやNICE CLAUPなどに日本のブランドもあり、なるほどと思った。書店には、日本のファッション雑誌も多く並び、韓国での日本文化の位置の見当がついた。

 今では、韓国の音楽や映画などは日本人にとっても憧れになっているが、当時は逆だったことが知れる。

夕食は居酒屋で済ませた。

メニューは日本の居酒屋寄りで、焼うどん、焼きおにぎりまであったが、日記には何を食べたかは記されていない。特筆すべきものではなかったのだろう。

コンビニのミニストップによって買い物(おそらくバナナと牛乳)をしてラブホテルに戻ると、受付の青年が話しかけてきたが、何を言っているか全く理解できずに、茶を濁して自分の部屋に上がった。すると間髪入れずに部屋の電話が鳴り受話器を取ると、受付の青年の声だった。

やはり何を言っているのか分からないが、場所柄もあり、女の子を紹介しようとしているのだと想像した。セックスと聞こえる単語が彼の発する言葉に混じっていたのもその理由だった。

さらに、受話器の向こうでは、今行くからドアを開けて待っていてください、というようなことを言っているらしく、用心しつつ部屋のドアを開けて待っていると、すぐに彼が一人で現れた。どうやら食事に誘っているらしいことは彼の身振りでわかった。

これはあとで分かったのだが、シグサ(食事)をセックスと聞き間違えたらしかった。試しにシグサと声に出してみると、なるほど訛りのあるセックスに聞こえる。

夕食は居酒屋で済ませていたので、丁寧に断ると、ではビールでもどうかと彼はしきりに誘う。どこか垢抜けないが、素朴で嘘のない人柄に見えたので、せっかくなので受けることにした。

てっきり居酒屋でも行くのかと思っていたが、案内されたのはそのラブホテルの彼の住み込み部屋だった。

6階に行こうとはじめに誘われた時は、ラブホテルの6階にバーがあるなんて変だな、だけど韓国では普通なのかなと、訝しくついて行った。

階段の踊り場の奥の四畳半が彼の部屋だった。

中央には布団が敷いてあり万年床の雰囲気だ

った。その布団を中心にぐるりと囲むようにして、テレビ、ミニオーディオセット、本棚、そして大きなクマの縫いぐるみがあった。

ちょっと待っててくれという身振りで言い残して彼が部屋を出て行ったので、僕はまるでそこの住人のように一人ポツンとなった。

僕にとっては初めて訪れた韓国人の部屋であった。柴田恭兵と舘ひろしのステッカーを見つけたり、他にも多くの物で溢れていた。ラブホテルの中で働き、ラブホテルに住むというのはどんな感じだろう、という疑問はそれ以後持ったことがない。たまには両親や兄弟に会ったりするのだろうか。なぜここで働くことになったのだろうか。もし言葉の壁がなかったら、彼にいろんなことを聞いていただろう。まるで接点がないはずの2人がこうして東仁川の一部屋にいるというのが不思議ではあったが、これが旅というものだろう。

10分ほどして彼はフライドチキンとカップラーメンを手に戻ってきた。せっかくの気遣いなので、チキンを数個食べ、シーバスを飲んだ。お互い特に話そうともせずに、ほぼ黙りこくって食べ、そして飲んだ。見ようによってはシュールな光景ではあるが、黙食黙飲は、妙に優しい時間でもあった。そしてチキンは固かった。


思い返せば、お人好しの韓国人青年である彼に対しても、心のどこかで用心を解けずにいた。シーバスもおそらく彼が飲むまでは口をつけずに待っていたに違いない。旅をする者としては正しい態度だと思うし、油断して何かあったら当然自己責任だ。ただ、もし僕が韓国語を少しでも話せて、彼と打ち解けていたなら、東仁川の滞在も延び、韓国の港町で素敵な女の子と出会って付き合うことになり、世界一周なんかせずに日本食屋でもやり始めていた可能性もある。

実際日本を出た時、僕はこのまま帰らずに、どこかの国で別の仕事を就いてもいいと考えていた。僕はこの一生で、いくつもの別の夢を見たかったのだ。

あの時ラブホの青年と仲良くなってなかったら、今の僕と全く同じ人間はいないはずだ。そう、ほんのちょっとしたことで人生が大きく変わることだってある。

チキンを食べ終わると、彼は自分の持っているものを順番に見せてくれた。言葉の不自由な僕たちには、それくらいしかコミュニケーションの方法がなかったのだろう。

日本語の教科書。日本のメーカー・アイワのオーディオ製品、彼は少し得意げにそのアイワで韓国で流行っている歌を流してくれた。

おそらく彼は日本に興味があり、突然泊まりにきた同世代の日本人に対して好奇心を抑えられなかったのだろう。そもそもラブホテルに泊まる日本人なんてかなり珍しかったに違いない。彼はあまり考えもせずに迷いなく僕に声をかけた。そのおかげで僕は東仁川に住む青年の生活を垣間見ることができた。今ではこういうエピソードにも感謝しかない。その小さな一粒一粒が旅の中の僕を育ててくれたのだ。

彼はしばらくして仕事へ戻って行った。これから数時間、もしかしたら朝まで受付に座り、束の間の2人たちを通すのだ。彼を通り過ぎた男と女は、数分後には裸になる。壁に仕切られて見えないとはいえ、1つ屋根の下の空間に、裸の男女が交わったり、変な格好をしたり、変な声をあげたり、微笑んだりしているのだ。そしてそういうことを総じて愛の行為と呼んでいる。


彼の去ったあとの僕はといえば、仁川の夜空に吸い上げられるように屋上に上がった。

以下中国上陸までは日記からの抜粋だ。

「東仁川が一眺とはいかないが繁華街のネオン群が美しく、遠くの家々の灯の連なりも見えた。隣の国の小さな街のラブホテルの屋上で、僕は東京の自分の部屋を思った。渋谷の円山町のラブホテル街の近くにある部屋を。黄海(朝鮮半島と中国の間の海)から来る風がほろ酔いの頬に気持ちよくあたった。

明日は中国、天津へと向かう。


4月10日( 月)
8時起床。 ラブホテルを出て東仁川駅前の大通りでタクシーを拾い、仁川国際フェリーターミナルへ 。ターミナルは閑散としていた。 13時出港。昼食は食券を買い、レストランで。乗船者は若い人達が少なく、商用の人達が多い。 ほとんどが韓国人。 釡関フェリーよりは大きいが客室の作りは基本的に同じ。 28時間の予定。 ライアルワトソン『未知からの贈物』を読み終えてから眠る」



4月11日(火)
8時起床。

中国時間では1時間遅れの7時。チャージフリーの朝食。キムチにはいいかげんうんざり。昼食まで再び眠る。

昼食は、またもや、キムチとにヌードルと白飯。

キムチはもう当分見たくもない。

午後はデッキに出る。大きな船が何隻も通り過ぎていく。暖かい午後、水平線を眺める。現地時間の14時頃、天津港が西の水平線に現れる。

15時には入港。巨大な造船所が多い」


今でも天津港が巨大で無愛想に見えたことを覚えている。
初めての社会主義国ということで正直身構えてもいた。下手な態度を取ったら、税関やパスポートチェックで捕まり、あらぬ罪を被せられ二度と帰国できないのではないかと、そんな偏ったイメージがあった。

だが、実際に旅した中国は、そんなではなく、人々は親切で温かかった。そういうことも行かなかったら実感できなかったのだ。それは現在にも当てはまると思う。

韓国の旅は終わった。

母を育んだ街、ソウル。昔と同じ匂いがすると言ったソナさん。そしてラブホテルの受付をして暮らす青年。オンドル。

天津の港を見下ろしながら、僕は自分の高揚に気づいていた。全身の血がざわざわしていた。また新しい旅が始まるのだった。









 


 

 


 


 

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