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1995年のバックパッカー 2 日本 出発前夜 「旅に出る理由」

 1995年。27歳の僕は、カメラマンであるということに、人間であることに、暮らしていくこと、生活費というものに、甚だ呆れ返っていた。

 誰もがその上を歩かざるをえない社会的な軌道の存在が、不思議でならなかった。いったい何なのだろう?この仕組みは、という違和感。

 馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しい、と声にこそ出さなかったが、心と魂がそういうものを抱えていた。

 約束された成功の軌道に乗ったカメラマンとしてのまあまあなポジションを意識しつつ、東京の享楽的な生活を楽しんでいた僕だったが、心の底には「暮らしていくのは面倒くさい。朝起きたら社会というのが待っていて、そこに出社しなくてはいけない」という違和感が居座り続け、今は暇つぶしがうまくいってるが、それは運が良かっただけで、そのうちそうでなくなるだろうと予感していた。

 だが、そういった思考の螺旋には、納得する何かへと続く気配がまるでなく、僕は東京から一旦自主退場するように旅に出ることにした。ひとまずカメラマンの双六ライフからずらかろうと企んだのだ。このままだと、そこそこ成功したカメラマンになってしまう。そんな未来図に漠然とした不安もあった。僕は本当にそこを目指しているのだろうかと。

 服飾、芸術、流行、美食美酒、肉林、なんにも興味がなくなっていた。それらは全て既存の社会に紐づいていて踊らされるのは嫌だった。馬鹿馬鹿しい空騒ぎ。人生の時間はまだたっぷりあったが、酔っ払っている暇はない。さっさと生き切ってしまおう。それだけが目印だった。自死の誘惑は皆無だったが、早くゴールのテープを切ろうとだけ考えていた。

 今思えば、僕には体力と気力が単に有り余っていたのだ。



東京駅

 あれは、ある春の日。

 その日の日記を見ても、天気のことは書いていない。天気は大切だ。きっと僕はあの時、大切なものを見失っていたのだろう。

 4月2日の日曜日に僕は妙子(仮名)に見送られて、新幹線ひかり号に乗って東京から旅立った。映画のワンシーンのようだったかもしれないが、やけにさっぱりとしたものだったかもしれない。二人ともそういう別れのシーンに不慣れだった。

 とにかく、妙子と僕は不器用に離れた。ぎこちなかったが、何にも覆われていない純粋な心の訪れは、2人の間に一瞬ぐらいはあったと思う。ドアが閉まり、動き出す新幹線。

 切なかった。

 

 

笑顔の外国人をなぜか撮影していた


品川あたりかな


オウムの事件もあった

ひかり号は新横浜を過ぎ、熱海を過ぎ、小田原を過ぎて行った。

 おそらく右手に富士山を眺めて天晴れだと感心し、浜名湖あたりで鰻の夢を見て、京都では左手に東大寺、立体曼荼羅に畏敬の念を抱き、そして個性のない新大阪で降車した。

 

京都通過

その夜は、心斎橋のビジネスホテルに荷物を下した。ミレーの80リットルサイズのバックパックは沢山のモノが押し詰められていた。重さは実に30キロ。長旅のあらゆる局面に対応できるようにと、考えられる全てを詰め込んでいた。

 当時僕は身長175センチだったが、そのミレーを背負うと165センチになってしまうのだった。なにしろ直立できずに腰から前方に曲がってしまう。ちょうど小学生をおんぶしているようなものだ。

 その荷物の多さは、用意周到を求めてしまった僕の臆病が表現されていた。

 チベットではダウンジャケットとマイナス20度対応の寝袋がいるよな。バリでは強力な蚊除けは必須だろう。だがもしも万が一奮発していいホテルに泊まることになり、プールサイドで寝そべって素敵な出会いを期待するなら、グッチの海パンも要るな、などと馬鹿を並べた挙句が30キロのミレーだった。臆病もあるが間抜けでもあった。

 だが、それらは残念ながら当時の僕が冗談抜きでかなりの時間をかけて選抜したモノたちだった。

 今となっては微笑ましい。まあ、仕方がなかった。旅は結局2年に及ぶのだが、そんな長い旅をしたことはなかったのだから。

 心斎橋ではアルフォンシとフサエに会った、と日記にある。正直誰だかはっきりと覚えていない。確かアルフォンシはイタリア人のアートディレクターで、おそらく一緒に仕事をしたのだろう。フサエは彼のパートナーに違いない。美男美女だったような、素敵なカップルだったような、そんな漠然とした記憶はあるが、二人の顔は綺麗に消えてしまっている。

 僕は東京にいながら外国人の知り合いも多かった。ほとんどはクラブで知り合った人たちだった。それぞれ浅い関係ではあったが、そもそも僕は深い関係を求めていなかった。そういう性分だった。

 夜な夜な彼らと遊びながら、自然にその背景の国々や街に、僕は触れていったに違いない。それは日本ではない場所へと既に漕ぎ出していた旅の始まりとも言える。

 

車内吊り広告全盛期

 日記によれば、大阪での滞在中に甲子園球場で高校野球を観戦している。星稜と観音寺。どんな心境だったのかは分からないが、なんでも見ておこうという旅人の貪欲さかもしれないし、ただの暇つぶしかもしれない。

 アルプススタンドで5回まで観戦し、数段下に座っていた恋人たちがうどんを食べていたことを記している。日記というのは、どうでもよさそうなディテールが面白い。夕食はオーパの和幸でとんかつ。いたって普通の日常だ。世界一周の旅は、日常からの飛躍というよりも、日常の繋がりの中にあることを既に語っている。

 

 別の日には、その年の四月一日に開通したばかりの神戸線で移動し、三宮と新長田を歩いている。

 言うまでもなく、1995年は阪神淡路大震災の年だ。

 僕はしっかりと裸眼で見つめ、カメラのレンズで触れ、シャッターで記録した。

 

電車からの被災地



被災地2


被災地3

新長田で入った回転寿司ではフリッパーズ・ギターと浜田省吾が流れていた。それらは、出国前に耳にした最後の邦楽の記憶となった。

 震災の跡を歩きながら撮影した写真には、エロ本のページが水溜りに浸かっているカットがある。印刷された女の肌が水の中にあるという非日常に、目よりも心が奪われたに違いない。

 このエロ本は誰が持ち込んだのか。地元の人か。復旧作業員か。だが、そういうストーリーよりも、即物的な何かに僕は動揺していたと思う。そしてさらに、美しいと感じたことも覚えている。

 偶然、事故。それらが美には必要だ。少なくとも僕はそういうのがないと心が揺さぶられない。そして、本当に美しいものは、突然現れることが多い。

 そしてさらに、本当に美しいものは静かだ。本質的に。そう僕は思う。

 女、肌、水。それらが合わさると激しさが生まれているが、それは波の表面のようなもので、潜ってしまえば分厚い静けさが横たわっている。

 崩れた街を歩きながら、偶然目にしたエロ本。そこには「旅の感触」があった。知らない世界があった。その時は気づきはしなかったが、時を経て今こうして見ると、新長田の水溜りが、この長い旅の起点だったとわかる。東京から続いていた日常が終わり、新しい何かが開いたのだった。


 

これが旅の出発となった。

そして4月4日、水曜日の朝に、大阪と神戸で撮影したポジフィルム数本を、当時マネージメントをお願いしていた事務所へ郵便局から送った。スタッフの方には、現像と保管をお願いしておいた。

 新大阪と姫路間の新幹線が震災の影響で不通だったので、在来線で一旦姫路まで移動し、そこから新下関駅までの新幹線のチケットを買った。移動中は、西日本の車窓風景を楽しみにしていたのに不覚にも眠ってしまった。

セマウル号のチケット購入


 

新下関駅

 新下関から山陽線に乗り換えて下関へ。そこから徒歩でフェリーターミナルへ。やはり30キロが背中に方に乗り掛かり、腰は曲がったままだった。

 港には16時半前に着いた。乗船や手続きはスムーズだった。

 少しでも節約しようと選んだ二等雑魚寝船室は、思っていたよりも広く、清潔だった。

 乗客も少なく、話し声からほとんどが韓国からの人達だとわかった。

 夕食時には、韓国人おばさんグループに囲まれて、手作りのおかずを振る舞われた。すでに食堂で済ませていたので、丁寧に断ると、「あれ、この人、日本人だよ、へええ、韓国人にそっくりだわ~。笑い声」な感じの反応をされた。

 まあ、似ているかもな、と僕は納得し、それなら最初に訪れる国では楽しく過ごせるかもしれない、などと期待も高まるのだった。

 下関と釜山間の定期船であるセマウル号は歴史も古く、庶民の交通手段として、二つの国を結んでいた。

 敢えて飛行機を使わなかったのは、旅の予算による理由とは別に、なるべく陸路、海路を使おうと決めていたからだ。限りある時間の中で工面する旅とは違い、とにかく時間だけはあるのだから、距離を体感しながらのんびり行こうと決めていた。

セマウル号は日没の頃に、下関港から放たれた。

 僕は、デッキから船と陸を結ぶ綱が解かれるのを観察していた。そしていよいよ陸との結びつきが無くなるのを見届けた時、意外にもそれなりの感慨があった。

 日本との断線。

 東京、仕事、恋人、それらが一緒くたになった有るはずだった未来。僕はそこから千切れてしまったのだ。想定していた清々しさ、明るさ、軽さはなく、またしても去来するのは「なんだか、面倒なことになったな」だった。

 とにかく僕は1995年の4月4日に旅立った。

 初日の夜の日記は、感情などは記されていない。締めにはこうある。

 10時消灯。




 

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