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1995年のバックパッカー 7 中国2 北京

到着した日の翌朝は、9時に起き、北京駅まで歩いた。

昨日の夜、天津からのバスで降ろされた辺鄙な所は、実は駅から徒歩圏内だったが、40分は歩いた。ホテルでもらった地図だと近そうに見えたのだが、区画のサイズが日本とは違った。

北京駅では次の目的地ウルムチまでのチケットを事前購入するつもりだった。

到着した日の翌日からそういう動きをするのは、自分の用意周到を好む性格の表れだった。言い換えれば、気の小ささとも言える。行き当たりばったりで事を済ます度胸がなかった。次のことを確認し、用意してからでないと安心してその土地での滞在を楽しめない、そんな性分だったのだ。少なくともその頃の自分はまだそうだった。宿題をさっさと済ませてから漫画を見るタイプ。

中国はとにかく人口が多いという僕の稚拙なイメージ通りに、北京駅の構内に収まりきれずに溢れ出た人々が、バスのローターリー沿いに弧を描きながら長蛇の列を作っていた。


さすがにその最後尾には並ぶ気になれずに、駅の周辺をぶらついて時間をしばらく潰すことにした。

北京は言うまでもなく巨大な中国の首都だ。

だが、その首都の駅周辺は、大通りを一本入るだけで田舎町のような佇まいを見せていた。時代も二、三十年は遡るような街並みで、僕の親世代が若かりし頃の写真の背景のようだった。

そういう街の姿は旅先の風景として貴重なものに思えた。地平の横軸だけでなく時間の縦軸をも揺らぐ旅となった。いったい僕はどの時代のどこの場所に紛れ込んでいるのだろう?まるでタイムマシーンの最安運賃で行けるような遠くない過去。

僕は、「とりあえず持っていくか」と切り捨てられずに持参してきたカメラを出し、そのレンズを北京の裏道に向け、静かに、そして熱くシャッターを押していった。とはいえ、バシャバシャ撮る感じではなく、コトンコトンと目の前のことを整理するような静かなシャッターだった。こう言う時に、ライカはいいなと思った。派手な巻き上げモーターの音などで意味もなく「撮ること」に煽られることはない。むしろ無意味な高揚を抑え、落ち着かせてくれる。

1995年の北京
このバランスに魅入る。
自分の姿が映り込んでいる

昼食は、いかにも地元の名店といった感じの面構えを持つ食堂で、ラーメンと回鍋肉を。肉は脂身ばかりだったが、味は良かった。

満腹になると、気持ちが大きくなり、北京駅で長蛇の列に加わろうじゃないかという気になった。

駅に着くと、どこにも貼ってなかったので仕方なく時刻表を買い、列に加わった。自分の順番が巡ってくるまでに、時刻表を熟読し乗る便を選び終えた。間違いがないか十二分に確認もした。あとは係員に時刻表を開いて指で示せば買えると見込んだ。

二、三時間は並び続ける覚悟だったが、意外にも1時間ほど並んだだけであっさり買えた。寝台のソフトベッドを意味する軟臥は無理だったが、ハードベッドの硬臥を手にできたので、まずは安心した。とにかくこれで烏魯木斉まで行けることになった。

列に並んでいる時に知り合ったウルムチに行く女性リィリィが、チケットを手に入れた僕のところへとやって来て、僅かな英単語と身振りで何かを切実に頼んできた。

とにかく一緒に来て欲しいということは分かり、彼女とその女友達について駅舎の横まで行くと、そこはどうやら荷物の配送受付所のようだった。僕はリィリィと係員のやり取りに意識を集中して、目の前のことを理解しようとした。不思議なもので、言葉が分からなくてもだいたいのことは推測できる。場所柄、荷物を送りたいのだろうということは誰でもわかる。そしてここからが想像になるが、荷物だけ出発日より先に送ってしまいたい、なぜならすでに荷物はここに持って来てあるから。そしてその受付のためには、あなたの荷物だということにしてほしいからチケットを貸してくれない?といった感じだった。

これは旅慣れていない人でも怪しいと思うはずだ。何か違法な物品を送ろうとしていて、何かあったらこの外国人のせいにすればいい、としか考えられないケースだろう。

そして、僕はここで100%断るべきだったはずだった。自分でもそれはわかっていた。だが、口から出て来た言葉は、「オーケー」だった。

リィリィは、荷物を預けることに成功し、それなりの満たされた笑顔で僕に感謝を示してくれた。

「わたしたちは、土曜日に出発するから、よかったら一緒に同じ便で行かない?あなたが既に買ったチケットは変更すればいいから」

というようなことを言い残して去っていったリィリィと彼女の女友達。僕は、3泊4日の列車旅には道連れがいた方が心強いと考えて、チケットを変更することにした。長蛇の列のことは、まあいい。

私は再び、列に並び直し、チケットを交換しようとした。 もちろん日本のみどりの窓口のようにはいかない。 結論から言うと、先に買ったチケットは中国人専用のチケットだった。当然外国人は使えない。つまり私はそのチケットを捨てて、新たに外国人用のチケットを買い直すことになった。リィリィたちと同じ日の同じ便である。ただ、待ち合わせもしていなかったので、あとは運まかせだった。

車両の多い寝台車でうまく出くわせる確率は2割かなと感じていた。あとは縁だなと自分に言い聞かせた。とにかくあのまま人民用のチケットしかなかったら、乗車すらできなかったはずだ。もしリィリィたちと合流できなかったとしても、それはそれだ。むしろ僕はついているとさえ思った。

その後は天安門まで歩いた。

有名な広場は、警備兵の交代式を目当てに集まった群衆で混んでいた。それにしても天安門広場は大きかった。僕がこれまで見た中で最大の広場だった。


名所というのは、本当にこの場所に来たんだなという現実感を与えてくれるばかりか、これは夢なんじゃないだろうかという真逆の思いも与える。映像や想像で何度も見ている景色を、実際に初めて目の当たりにすると、妙なブレが生まれる。あれはいったいどういう現象なのだろうか?

日記によると、翌日、僕は北京を早々に発っている。

滞在わずか2日である。リィリィの旅程に合わせたにせよ、あまりにもせわしない。だが、これも自由な旅の一部だ。滞在期間の伸び縮みは気分次第になる。実際、北京に来る前に立ち寄るはずだった天津もスキップしていた。

翌日、正午に建国門飯店をチェックアウトすると、大観光地である故宮に向かい、16時半まで滞在した。表門前の出店でジュースを飲んだと日記にある。だが、故宮自体については何も書かれていない。おそらく思いの量と疲労度のバランスのせいだろう。書ききれないことは、時に全く書かないことになる。

だが、故宮の表門でジュースを飲んだという27歳の僕は、故宮についてのどんな巧みな描写よりも、その時の僕の雰囲気を感じやすいのは確かだ。何気ない事実というのは、何気ない分、その人を伝えてしまうと

思う。内面の記述よりも事実の羅列を日記は求めている。

記憶を辿れば、皇帝の側室たちが暮らした部屋の佇まいに強く惹かれた気がする。皇帝の寵愛を受けつつも、耐えること、倦むこと、麻痺することの多かった彼女たちの日常、そしてその集積の人生を思うと、愛用品の数々や豪奢な部屋に染み込んだ負の感情が迫り来るようで、切なかった。男の僕が、皇帝ではなく、女の側室に感情移入してしまうのは、果たして前世の影響だろうか。とにかく痛切であった。

ただ、これは僕が勝手に作り上げたストーリーに自ら勝手に切なくなっているだけかもしれない。こういうのは、よくあることだ。いわばでっちあげに包まれてしまう現象。

故宮
側室の品

故宮を切り上げ、18時に人力車で北京駅に着いた僕は、郵便局で日本の友人2人に手紙を出している。

今、彼らは僕からの30年前の手紙を保管しているだろうか。おそらくしてないだろう。僕も多くの手紙を処分してしまった。理由はわからない。誰にでも過去を切り捨てようとするタイミングがあって、それに物理的な痕跡も切り捨てようとすることもあるだろう。

郵便局のあとは、構内にある食堂で夕食を済ませた。ひどい味だった。中華でも下手に作るとこうなってしまうのかと驚いた。国営サービスは時に競争相手の不在による質の低下を見せる。僕はそれを責める気にはなれない。ただ、そうなるよな、と思うだけだ。

出発ホームの確認も済み、僕の準備は万端となった。まだ時間のゆとりがあったので、その辺に座って読書でもしたかったが、構内は床に直接座り込んだ人とその荷物でひしめていており、がやがやと騒々しかった。

僕は5元払って、有料休息所を利用した。今で言うラウンジにあたる。所外の喧騒とはうって変わり、シンプルだがゆとりのある広い空間で、テレビに向かって10列ほどのソファが並び、利用する人は少ない。僕はそこで出発の40分ぐらいまで悠々と過ごせた。おそらく5元は、地元の人によって1000円くらいの感覚なのだろう。

時間が来たのでホームに行くと、すでに乗車が始まっていた。少し不安だったリィリィとの合流も、あっさり彼女を群衆の中に見つけられた。

僕の硬臥は、想像よりも悪くなかった。これなら3泊4日でも大丈夫だと安心した。進行方向を背にした窓際というのも、隙間風が直接当たらないし景色も楽しめる。うん、悪くない。僕はなんだかわくわくしてきた。

周囲の乗客も人の良さそうな者たちばかりで、約束された上々の旅立ちに気分が昂まった。

出発はほぼ定刻通りだった。見るからに漢民族とは容貌の異なる西方ウルムチ出身と思しき者たちが、テレビでも入っていそうな大きな段ボールを勝手に網棚に押し込み上げて、近辺の乗客たちとちょっとした諍いを起こしていた。

遠隔地を結ぶ車内では、流儀が異なる者たちによるトラブルが起こりやすく、客観的に見れば、国際問題の縮図が目の前にあるようであった。

ともかくほぼ定刻通りに大都市北京から列車は紐解かれて、自らの体重移動を確かめるようにゆっくりと進み始めた。

出発は何度繰り返しても同じような胸の高まりと共にある。そしてそこに含まれる若干の不安が、リアルな旅の横顔だ。

そんな出発の明るい動揺が冷めないうちに、突如リィリィが笑顔で目の前に現れた。その手には僕のために彼女が新たに手に入れてくれた軟臥のチケットがあった。彼女は誇らしげだ。硬い寝台から、クッション付きの寝台への誘いを断る理由なんてない。僕は彼女に感謝し、打ち解け始めたの硬臥寝台の乗客たちに挨拶してから引っ越しをした。

硬臥から軟臥へ、硬いベッドから優しいベッドへと移ると、その差はやはり大きいと思った。なにしろ3泊4日の列車の旅だ。ちょっとの差が大きくなるのは疑いようもない。

僕は引っ越し先でも周囲の人たちに温かく迎えられた。ざっと見ても唯一の外国人であるらしかった。きっと質問攻めや、おやつ攻めにあうのだろう。まあ、それはそれとして、ウルムチというエキゾチックな地名の場所へと向かうことになったのだ。

中国大陸を横断していく列車からの風景も楽しみであった。その時の僕は、千昌夫さんの「ふるさとの春」が中国で大人気であることをまだ知らずにいた。


リィリィさん、世話になった




 

 

 




 

 

 

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