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1995年のバックパッカー12 香港1  巨大な龍の街とドミトリー



香港へ降り立つと、久しぶりの陸地の感触に浸る間もなく、僕はそそくさと歩き始めた。

フェリーのレストランで同テーブルだったカナダ人の老夫婦が安宿への道案内をかってくれたので、黙ってついていった。のんびりとしたフェリーの上とは違って、巨大な生物のような蠢きが香港にはあって圧倒された。十数分で到着したチュンキンマンションと呼ばれる巨大な雑居ビルは、ヨドバシカメラ新宿西口本店を思い出させた。もちろんチュンキンマンションはそれよりも巨大ではあったが。

階段を数段上がり、エレベーターホールのある吹き抜けのフロアに立つと、裕福ではなさそうな、あらゆる人種たちでごった返していて圧倒された。

これまで韓国、中国という自分と風貌の似通った人の住む国だけしか訪れていなかったので、いきなり現れた人種のカーニバルのような混沌に面食らった。彼らは誰もがエネルギーを持て余しているようで、目はキラキラとギラギラと光り、食べ物と安香水と、汗と、息とが混ざった匂いがその混沌を縁取っていた。インドらしき音楽が奥からこちらに流れ、話し声、がなり声、笑い声などが分厚いノイズとなって迫り、ニューヨークこそが世界一のエネルギーと混沌を持っているという認識が一気に崩れた。チュンキンマンションこそが現時点で世界一の混沌であり、そこには「住めば都」という言葉が簡単に打ち消される世界だった。


こんなところから1秒でも早く立ち去りたいと願いながら、その希望が叶えられない苛立ちを常に抱えているんだ、といった表情を皆誰もが浮かべていた。

そんな中を、まるで透明のシールドに包まれたかのようにゆったりと平然と進むカナダ人の老夫婦は、別の惑星からの王族のように見えた。この匂いと喧騒の中で、彼ら二人を癒すベッドなどこの巨大雑居ビルの中にあるのだろうか。僕は明日の夕食を一緒に楽しもうという彼らの誘いを受け入れ、この混沌としたエレベーターホールで19時に待ち合わせることになった。


彼らが立ち去ったあとで、僕はしばらく呆然としてエレベーターの入り口上に掲げられた各階のテナント案内の文字に視線を預けていた。
しばらくして我に帰った僕は、当面の寝床を確保するべく、ゲストハウスと名のついたいくつかを訪れ見学させてもらい、ワンダフルというホステルにチェックインした。ワンダフルという形容詞が、このホステルのどこにも掛ってないことは言うまでもない。多人数で一室をシェアするドミトリー部屋は一泊500円ほどだった。湿っていて暗くて臭い。その他にこの「宿泊施設」を形容する日本語ははない。

僕はバックパックをドミトリーの床に下ろし、チェーンでベッドパイプに繋ぎ、開口部のジッパーは全て小型の南京錠をかけた。ナイフで開かれたら諦めるしかない。


ひとまずチュンキンマンションを出て、近所を散策した。そこはアジアの摩天楼の足元にひしめき合う世界だった。初めての香港は極彩色のネオンと二階建てバス、香辛料の匂い、マネー信者の塔である商業ビル、海からの風、極強の室内冷房、などが乱反射する街だった。ただ、そのエネルギーには新宿歌舞伎町のような影はなく、無限の迷いなき上昇志向は狂信というより欲望の純粋さを感じさせた。日々の苛立ちを吐き出す夏の祭りのようでもあった。

僕は世界の味であるマクドナルドのハンバーガーで夕食を済まし、さらにそぞろ歩いた。夜が更けても、街路にはしつこく熱が残り、冷房の室外機からの温風は香港の絶えない吐息だった。テンプルストリートのナイトマーケットを覗き、23時頃にチュンキンマンションに帰った。

ドミトリーは冷房がなく、天井からの扇風機のみだった。蒸し暑さで眠れずに、小さな受付ロビーで、フィリピンからの楽団メンバー達とどうでもいい話をして過ごした。女5人男1人の彼らのことは日記に少しだけ触れてあるだけで、全く記憶にない。写真も撮っていない。それでも香港初日に同宿のフィリピン人たちと夜遅くに話していたという事実があったことがなんとなく嬉しい。僕はいつも一人だったが、時々一人でなかったのだ。


隣の部屋のイギリス人がトイレの水が止まらないとパニックになっていたので、応急処置を施して水を止めてあげると、明日の朝食は一緒にと誘ってくれた。お礼ということだったのだろうが、翌朝のことについては日記は何も語っていない。そして香港到着日の日記は次のように終わっている。

「麻のベストとTシャツを買う」

30年前の僕には麻のベストを着たのだろうか。おそらく人生最後の麻ベストになるだろう。現在の僕には、用をなさない中途半端な代物だ。


香港2日目の朝は10時に起床した。

肩幅ほどの空間でシャワーを浴びた。ドミトリーの男たちは、この空間で射精したりするのだろうかと、ふと思った。使い込んだ靴下と下着のパンツを一つずつ捨てた後、昨日予め見つけておいたBブロック、4階、Bー3のスプレンデッド・アジアに引っ越した。同じ料金だが、ファンとエアコンが付いていて、清潔感があった。


午後は香港島を端から端へと2階建てトローリーバスで往復。昨日九龍の繁華街をすでに見ていたので、目新しさはなかったが、動植物公園とその周辺は素晴らしい。 そこでは動物と植物が共生するように配置され、ディスプレイの仕方としては、今まで見てきた動物園の中で一番の印象だ。場所は坂を登った高台にあり、勾配の向こうのビル群の景観も素晴らしい。その後中国銀行と香港銀行のビルを見物。両銀行の位置関係は風水上の戦争の様相を呈していると聞いていたので、どっちが優勢なのかを感じようとしてみた。私はトライアングルが重なる刃物の様な中国銀行の建物が好きなのだが。 風水の勝敗はともかく、人工の建築物が青空や周囲の緑と毅然と対峙している姿に、切ないほどの美しさを感じた。香港の美しさは人と自然とのこういうシャープな対峙の中にあるのではないだろうか。海へと迫り出した丘々の中に林立するビル群は、夜よりも晴天の昼にこそ、美しさが映える気がした。それは青空に映える出雲大社の美しさの類に思えた。



その後 フットロッカーでサンダルと夜寝る時のための短パンを700香港ドルくらいで買う。当時の日本円レートで600円くらい。

19時からAブロックのエレベーターの前で フェリーで一緒だったモントリオールの老夫婦(夫は65歳)と落ち合い、隣の地下の24時間営業ののレストランでベトナムラーメンで夕食。

彼らはシアターを経営していてそれを売ったお金で世界旅行をしている。家はモントリオールと田舎に1つずつ持ち、いずれモントリオールの家も売って老後の(といってもすでに老人だよ)楽しみのために使うらしい。彼らと住所を交換し別れた後、九龍の埠頭へ行って夜景をしばらく眺めた後、1香港ドル40セントでスターフェリーに乗って香港島へ渡った。

香港島は美しいのだが、今ひとつそこまでの感動はなかった。上海からフェリーで来た時に最初に見えた眩しいほどに白く輝くビル郡の印象の方が強かった。中環から地下鉄で九龍側に戻り、周辺を散歩してからドミトリーに帰った。23時頃寝る。


翌日のランチは、インドのカルカッタから来ている60歳くらいのバスさんと2Fのインド食堂でほうれん草とチキンのカレーを食べた。チュンキンマンションは、各国の食堂、様々な小売店、事務所、そして安い宿泊施設などが入る雑居ビルで、外に出なくてもこのビル内で完結できる懐を持っていた。

バスさんは痩せて小柄な人で、黒縁の眼鏡と七三に髪を分けた姿が誠実な公務員のような雰囲気を醸し出していた。かたや冴えないロン毛の

二十七歳とはなぜか気が合った。バスさんはこの旅最初のメンターといえる存在だった。なぜなからバスさんには数日後にとてもお世話になるのだが、その時はまだそうとは知らずにただの世間話をしていた。

バスさんは、日本はアジアの誇りだ、と割と真剣な眼差しで僕に語り、欧米と肩を並べてやり合う姿は、我々アジアの人間にとってリスペクトしかない、といったようなことを言うのだった。そうか、そんなふうに日本を見ているアジア人もいるんだな、などと褒められているので気持ちよく聞いていた。

バスさんの素性について僕は問わなかった。ただの観光ではなさそうだった。60くらいに見えていたが、実は50くらいだったかもしれない。当時の僕は27歳で、インド人の年齢を当てられるほど旅慣れてもなかった。バスさんはもしかしたら香港で仕事を探していたのかもしれない。観光している感じはなく、いつもチュンキンマンションのどこかで過ごしているようだった。僕にとっては安食堂でしかない場所も、バスさんは倹約してたまにしか使わなかったかもしれない。いつも同じようなシャツとスラックス姿だったが、清潔感があった。


その日、僕は中国との国境まで行ってみようと思い立ち、電車に乗って羅湖(ローウー)という町を目指した。九龍では晴れていたのに、獅子山を越えると曇天になり、羅湖に着いた時には大雨になった。国境まで1時間もかからず、香港の小ささを実感した。

電車自体は近代的で普通に綺麗だった。僕は北京から烏魯木斉まで乗った火車(電車のこと)を思い出し、夢でも見ていたかのような気分になった。日本国内での移動ではこれほど大きな経済格差を感じることはない。方言や文化などの違いはあるけれど、眩暈がするほどの差はない。

だが、一歩国外に出て、韓国と中国、そして後日97年に返還される前の香港、この東アジアの三か所を巡っただけでも劇的な差を感じるのだから、これから僕が訪れる東南アジア、南アジア、中東、アフリカなどはいったいどんなことになってるのだろう。僕は羅湖で雨を眺めながら、この先の旅の大きさに身慄いした。

このまま香港から目の前の深圳を通って入国し、再び中国の旅を始めても良かったのだが、広大な中国を隈なく旅していたら、半年ぐらいすぐに経過してしまうだろう。

僕の今回の旅は、たとえ上っ面だけでもいいから、世界をざっと一巡りすることが目的といえば目的だった。それはチェ・ゲバラが大学生時代に南米をオートバイで一周した時に言っていたことからの影響で、確か「僕らには表面だけで十分だ」というような言葉だった。その真意はともかく、まずはざっと世界の粗筋を、それから特に興味を持った任意の点に深く潜るという流れを僕に促したのだった。

ということから、今回の世界一周では、あまり一国に長居するつもりはなかった。とはいえ、北京と上海だけでなく、西の果ての都市・烏魯木斉や、これから向かう成都やチベットは外せない中国の地点だった。成都は三国時代の蜀の都であり、三国志を読んで育った僕としては、どこよりも訪れてみたい土地だった。

羅湖を去り、九龍に戻る前にもう1か所、沙田競馬場を訪れることにした。学生時代は競馬が趣味で賭けもしたが、ギャンブルそりも競走馬自体の美しさと強さに惹かれていた。そして国内の競走馬が時々香港の国際レースに出走していたので、沙田競馬場の名だけは知っていた。

実際訪れてみると、広さはさほどでもなく、せいぜい大井競馬場ほどだったが、本場イギリスの影響からか、上流階級の遊びを感じさせる品の良さが漂い、手入れのいいターフ(芝)と背景の山並みがその美しさを更なるものに高めていた。向こう正面に見える高層マンションは現代の城のように優雅に見えた。僕はそこにイギリスの宗主国としての息吹を感じ、その本国との距離を思い、またもや眩暈を感じた。


その後は帰路の途中に九龍塘に寄り、普通の住宅地も散策した。そこは学校も多い文教地区で、ある一般層の生活を感じるにはいい場所だった。幼稚園とラブホテルが隣接していたり、そのラブホテルが緑に囲まれた平家や二階建ての一戸建てなのが面白い。頭上低くを旅客機が爆音で通り過ぎていくのも、今となっては95年の香港らしい情景だ。

その夜は、なかなか寝付けないことが起こった。ドミトリーに遅く帰ってきたデンマーク人の女の3人がトップレスの下着姿で部屋をうろうろしていた。他の客の目はお構いなしで、まるで僕が女子寮にでも潜り込んでしまったかのようだった。しかもそれなりにみんな可愛い。もちろんじっと見ているわけにもいかず、すぐに背を向けたままでいたのだが、寝ついたのは2時過ぎだった。

だが、翌日に起こるとんでもない事件は、この世界一周の旅で最大の痛恨となるもので、寝付けないどころか、寝れない朝を迎えることになるのだった。今思い出しても、痛恨の極みである。



 

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