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1995年のバックパッカー23 中国13 チベット4 世界の屋根での大芝居 さらばチベット!

かくしてジープに乗り込んだ僕とグラントであった。
ティンリへの雄大な風景をグラントは楽しんでいたが、僕は病人のふりをし続けるために、後部座席で横這いになっているしかなかった。身を乗り出して風景を楽しんでいるのがばれたら、元気ならもう降りてくれと、言われかねない。僕は高山病という設定で頭が割れそうな呻き声を時々入れつつ(経験済みだったので簡単な演技だった)、チベットの空だけを眺めていた。
あの頃のチベットで、空だけを見続けた旅人といったら僕ぐらいだろう。だが、おかげで凍死はなくなった。僕にはそれだけで十分だった。


見ず知らずの中国人に車で運んでもらい、チベットを横断しながら眺めた青い空は、自分を遠い星から落ちてきた生物のように思わせた。エリア51で捕獲された宇宙人がアメリカ軍の秘密基地に運ばれていく時の気持ちは、こんな感じかなと。もしくは別の星から来た精霊たちは、地球をこんなふうに漠然とした気持ちで眺めるのだろうか。その後もこの星と僕との縁を曖昧にする様々な想像が去来した。

「チベットは宇宙に近いな」

小さな雲のように浮かんだ言葉。平凡だが僕にとっては至言であった。

僕の仮病はさらに2時間ぐらい必要とされた。
ジープは走り続ける。現実の出来事なのに、その時間を本当に生きているか確信が持てないような不思議な時間だった。


横ばいになったリアシートから撮影

やがて、ティンリに到着すると、世界一標高の高い宿泊所と壁に描かれたチョモランマホテルにチェックインした。僕たちはドライバーに丁寧に礼を伝えた。

そのホテルはベッドがあるだけの簡素な施設だった。チベット高原の荒野にぽつんと立つ白い野戦病院のようだった。それでも清潔なシーツが敷かれたベッドになんともいえない美しさを感じた。

水は外にある給水タンクから直接伸びたホースの先端で得られた。僕たちはそこで顔や髪を洗った。冷たいのだが心地よさが勝った。
日没まではまだ時間があったので、ゆったりと過ごせた。なんとなく映画「バグダット・カフェ」を思い出しながら。

そのチョモランマホテルでは、日本人の女性も滞在していた。名前はゆかさんといって、ネパールのバクタプルから来たという。ラサから地の果てに来たようなつもりでいたが、ネパールから来ると国境からそう遠くもなく、地の果てではないらしい。

そうか、火星の風景が続く辺境地の中心はすでに通過して、僕らは再び文明の地にかなり近づいているのだ。そう思うと、数日前にヒッチハイクでトラックを待ち続けたり、民泊したり、野宿したりしていたことが、愛おしく感じられた。安全地帯からの追憶とはいえ、そらは甘く美しい郷愁を早くもかもしだし始めていた。

ゆかさんは一人旅だった。ネパールのバクタプルでは英語を勉強しているという。ネパール訛りの英語をなぜ習う?という疑問は口にしなかった。いろいろ事情があるのだろう。たとえば、あるネパール人に恋をしてこの地に留まるために学生ビザが必要だったとか。

ゆかさんはチベットでやはり高山病になったということだった。頭痛がひどくてと言う彼女の話に僕の経験談が乗り重なり、互いの頭痛自慢となった。
そして彼女によれば、チベット人はなんだか怖くて、いい印象がないという。確かに眼光は鋭く強い人が多く、好奇心にまかせてじっと無言で見つめられたら、ちょっと怖いかもしれない。部族によっては気性が荒く、外国人とのコミュニケーションに慣れてないため、都会の感覚とはずれるだろう。

だが、意思の疎通がとれれば、普通に素朴ないい人たちだというのが僕のチベット人に対しての印象だった。野宿をした時に、燃料となる家畜の糞を一緒に集めてくれたおじさんや、笑顔の可愛い子供達などとの思い出は、まだ鮮やかに残っていた。そして意思の疎通はこちらからもちかけるのが一番だということも学んだ。

僕たちは、チベット人への印象について議論をすることもなく、日本から遠い場所で同胞に会えた居心地の良さに浸って過ごした。

相棒のオーストラリア人グラントと二人で自転車とヒッチハイクで抜けてきたことを知ると(ほとんどヒッチだったが)、ゆかさんは心底驚いていた。よく無事だったねと。


雪が降る標高5000メートル地点

おそらく自転車での旅に慣れた人たちなら、ヒッチをしなくても完走できるのかもしれない。飲食物の補給の術などは僕にはわからないが、きっと特別なやり方というのがあるのだろう。それにしても4000メートルの高地のラフロードを、補給なしで690kmというのは、タフであることには変わりないだろう。ただぶらりとやって来て、思いつきで自転車旅を始めたような僕らには、歯が立たないどころか、やってはいけいない旅だったと思う。

そして残念なのは、ゆかさんとチョモランマホテルの写真を撮っていなかったことだ。そもそも写真を撮ろう!という意気込みが皆無な旅だったので、まあ仕方がない。こんなものだろう。というわけで、ゆかさんの顔はまったく覚えていない。髪の長さも年齢も。辛うじて日記が彼女について語ってくれた。

今となっては世界で最も標高の高いチョモランマホテルで数泊すればよかったと思うが、僕たちはさっさと移動することが目的であるかのようになっていた。

翌朝5時に起床し、6時発のいすづ社製のトラックに乗りこんだ僕とグラントは意気揚々と国境の集落ダムへと向かった。もしかしたらその6時発のトラックに乗れることができたので、早々にチョモランマホテルを去ったのかもしれない。

途中で雪が降る中をトラックは順調に走り続けてくれた。おそらく2度と見ることのない荒涼とした高地を抜けながら、4月に下関から釜山へと出国した頃には想像すらできなかった景色の中にいる不思議さを思った。きっとこれからも多くの未知がやってくるのだろう。


トラックに居合わせた者たちは、口数も徐々に減り、ほぼ無言で5000メートルを超える場所を通過していった。時々トイレ休憩が入った時に、その固い大地に立つのだが、かつて島だったインド亜大陸がユーラシア大陸と衝突した衝撃でヒマラヤやチベット高原ができたことが、なんとなく体感できた。それは僕が生まれて初めて、地球を生き物だと意識できた瞬間でもあった。


やがて僕たちを乗せたいすづトラックはつづら折りの道を降下していき、ネパール国境の中国側の集落ダムへと到着した。

その谷間の村は、湿度があり、空気が濃かった。僕は、その空気に懐かしさを感じた。ただただ、空気が濃いことに感動した。

国境というのは周辺や遠方からの人々が集まる場所でもある。チベットを抜ける時には、ほとんど人とは会わなかったが、久しぶりに多くの人間を目の前にして、そのむさくるしさを新鮮に感じた。なんとなくどこかに似ているなと思っていると、スターウォーズの異星人たちが集まるバーのような雰囲気とそっくりなのだった。

僕とグラントは、国境線をなしている渓谷にかかるフレンドシップ橋を渡りつつ、パスポートチェックなどの必要検査を通過して、チベットを去り、ネパールへと入国した。国境を抜けたのだ。

ネパール側の村の名はコダリ。ダムからコダリ。それぞれチベット語が元にあるような響きがあった。


標高5000メートルを超える高地を抜けて来た僕らには、国境の湿った渓谷の姿は異教徒の土地といえるくらいに別世界だった。小雨の降る中を渓谷の底を左手に見下ろしながら、僕とグラントは自転車を引きつつすすみ、やがて国境から最初の市場のような場所に辿り着いた。市場といっても屋外に勝手に物を広げて売っているような様子で、僕たちは早速チベットヒッチハイク用品を売り捌き始めた。

まずは、自転車である。驚きだったのが、これがすぐに売れたことだ。使用日数は確かに少なかったが、トラックの荷台に砂利や石と共に揺られ、悪路を走った自転車はそれなりにダメージがあったのだが、買値の半額ですぐに売れた。もしかしたら中国とネパールの為替の事情を知っていたら、もっといい値段で売れたのかもしれない。僕たちは値段を言うやいなや、即決になったのだから。その他、テント、ランプなど全てが完売し、僕たちは身軽になった。

僕には結構しみったれた所があって、自分が使った品々はずっと大切にとっておきたがる傾向がある。チベットを共に旅した自転車などの類は、ずっと家に飾っておいたりするような男だ。だが、この時ばかりは、手放してすっきりしてしまった。

チベット横断中になかなかヒッチできずにいた時や、悪路の上り坂に息が上がってなおも漕ぎ続けた時など、僕は「国境を越えたらこの重たい自転車をすぐにでも捨ててやる」などと悪態をついてストレスを発散していた。それを聞いたグラントは僕の言葉に耳を疑うといった表情を見せていた。そしてそこには悲しそうな気配もあったのだ。僕はそんなグラントをとても優しい男なんだなとみなしていた。そして僕は彼のその表情によって、暴言を内心反省したりしていた。

だが、コダリの青空市場で自転車を売ったあとで、グラントは「やっとゴミにしてやったぜ」みたいなことを言い、ちょっと悪びれた表情を浮かべた。それはいつも優しいグラントにはまるっきり似合っていないものだった。僕は、チベットで自転車に悪態をついていた僕に同調したふりをしてくれているのかな、とすら思った。おそらくそうだったのだと今でも思っている。本来の彼ならば自転車にキスをしてありがとうと言っていただろう。僕は、グラントの気遣いすら感じて、さらに内心反省した。


当時の事はいろいろ忘れてしまったが、グラントのあの時の表情は今でも、そしておそらくずっと覚えているのだろう。物は大切にしようと今の僕が心がけているのは、あの時の反省も大きい。
自転車よ、あの時はありがとう。君のおかげで僕は大きな旅をできたのだ。

コダリでは問題なくカトマンドゥ行きのバスを見つけることができた。そこからさらに標高を下げていく途中の風景は忘れ難い。緑と水の溢れるネパールの田園は、まるで天国だった。

火星の風景のようだったチベットと違い、標高を下げていく道すがら、緑は濃くなり、空気はまるで酸素が見えるかのように濃くなっていく。口を開き息を吸えば、まるで蒸気となった水分が入って来るようだった。

鳥の鳴き声は、天上で奏でられてる音楽のようで、人間以外の動物たちが存在している様子は、目の前の世界のすべてが生命の讃歌のように現れていた。

僕にとって初めてのネパールは、このように天国のような土地だった。たとえバスから放り出されてても、木々のフルーツをもぎったり、頼めば誰かが何かを食べさせてくれるだろう。路上で寝ても凍え死ぬこともない。薄着の僧侶を車窓から見かけると、ここなら僕はどうやってでも生きてしまえるだろうと思った。

バスは、およそ4時間後に首都のカトマンドゥへと到着した。

僕たちはホテルを探す前に、目についたレストランに入り、空腹を満たすことにした。注文したのはピザとコーラ。あんなに美味しいピザはなかった。あんなに喉が喜んだコーラもなかった。僕とグラントは心からの微笑みを浮かべ乾杯し、ピザを頬張った。幸せだった。

2年後に世界一周の旅を終えた僕が、東京で受け取った手紙には、あの時のチベットの僕を撮った写真が数枚入っていた。もちろんグラントからだった。彼は3週間の旅を終え、オーストラリアのどこかのハイアットホテルの仕事に戻った。街の現像所から写真のプリントを受け取り、僕が写った数枚を短い手紙と共に封筒に入れ、郵便局に行き、国際便で東京の僕の仮の住所へと送った。

それは僕が帰国する2年近く前の出来事だった。写真を受け取ったあと、僕はお礼の手紙を返した記憶がない。薄情といえばそうである。僕には悪気なくそういうところがある。なんとなく通り過ぎてしまうのだ。

初めてのカトマンドゥでピザとコーラを楽しんだあと、僕とグラントはしばらくその場でまどろんだ。グラントはこれから帰国までネパールで適当にぶらぶらすると言っていた。僕は東南アジアへ一旦東へと戻ってから、スリランカ、インドへ行くつもりだったので、そう伝えた。その後、僕たち二人はカトマンドゥで再会することもなかった。いや、今日まで再会どころか音信不通である。おじさんになった僕らは道で会っても分からないだろう。

ピザ屋を出ると、僕たちは握手とハグを交わしてそれぞれの夕刻と夜と明日へと別れていった。またね、とだけ言って。





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