64 勝ちたい人に勝たせてやった、その先。
案内係の統括責任者として従事していた劇場の仕事は、アルバイトからスタートした。
姉がアルバイト募集のチラシを見つけてきて「アユ、こんなん好きそう」とかなんとか言って勧めてきた。私はなぜだかアンテナがピコンピコン反応。
ちょうど失業中。春から資格の勉強をするため学校に通うことを決めていた。それ以外の時間はヒマだったのもあって即決し、履歴書を送った。
入社前研修も超たのしくて、館内見学では講師(のちの上司)にピッタリ張り付いて歩いた。
ふいに飛び込んだ見たこともない世界でドキドキワクワク😍♥
常に音楽がそばにある心地良い環境だったこともあってか、すぐに夢中になった。
そうは言っても、父が家でクラシックを聴いていた程度で、私は音楽畑の出身ではない。ピアノとドラムの習い事はしてたけどもうとっくの昔に忘れた。もはや楽器はできないし、特にミュージカルや芝居が好きなわけでもない。バレエにも落語にも興味ない。てゆーか、音楽どころか世の中をあまり知らないのがアユミ。←勿論、当時無自覚。
例えば入社直後、手元の資料にアンコール曲目が載っていて驚いたぐらいだ。
アンコールが事前に決まっていることに衝撃😃💦
即興でアーティスト自身が気分で決めるのだとばかり思っていたのに、ちゃんとリハしてた・・・😅
私はそのくらいのレベルで「皆が大体知っているようなことを知らない人生」を歩んできた。
履歴書を送る時も「綺麗な劇場で座席の案内するんだー😍」とチラシの文言を額面通り受け取り飛び込んだのだから。
それでなくても過去のアルバイト遍歴は無惨なもので、まともに務まる仕事なんて一つもなかった。
実はこの無惨なアルバイト歴で一つ自覚してたことがあった。私はお金の計算が、ぽんこつを通り越して幼稚園レベル。数字と計算がすこぶる弱い。そもそもお金を触ることにも抵抗と嫌悪感(潔癖症とかではありません)。だから、案内スタッフならお金は触らないはず!と飛び込んだのである。
実際そんな生やさしい現場ではなかったけど、今
考えると私は鋼の魂の持ち主だったらしく、どーやらこの仕事は天職だった。
幸いなことに、人の顔色や感情を読むことに長けていたからお客様の伝えたいことは聞かなくても分かった。私は持ち前の感覚でメキメキと頭角をあらわし入社後3ヶ月でチーフに抜擢された😏✋そうして毎日アルバイトで経験を積んだ。
しばらく続け、社員になって統括の役割をやってみたいなーと思っていた矢先、尊敬する上司から「やってみないか」と打診を受け、ふたつ返事で道を決めた。まさにここが私の人生の重要な切り替えポイントとなる。
それまでの人生では、数ヶ月〜数年のスパンでフィールドをコロコロ変え、学びを完了させたり、もしくは見切りをつけていた。
でもここには10年もいた。
勿論、年数が全てではない。だが、しっかりと地面に根を下ろし大木へと成長する機会が訪れたということだった。
当時それを意識的に知覚していたかと言うとそうでもなくて、魂レベルでの判断だったようで夢中で突っ走っていたら10年が経っていた。無論、数年でクリアできるようなフィールドではなかった。
難易度も高く、だからこそ楽しかった。←たぶん変態😏✋
☽
人は肉体や精神がもたない時には一旦休んだり、新しいフィールドで仕切り直しをしている気がする。私は昔から、学ぶことが無くなってぬくぬくし始めると、なんだかいつもモヤモヤ居づらくなったり
追い出されるような現象に遭ってきた。だからいつも自分から見切りをつけて去ることが多いのだ。
そこで学びが済んでいるか否かは自分には必ず分かるはず。もしもその時点で分からなくても、次に出会う景色こそが次ステージへ切り替わったかどうかの答えになる。
例えば、肉体と精神が悲鳴を上げていても“乗り越えなければならない”という魂の声に気づく時がある。
つまり、人には絶対に逃げてはいけない正念場というものが必ずある。そこでしっかりと自分に向き合うことができれば、新たなステージへ歩を進めることができるのではないだろうか。正念場自体、自分で用意した機会が訪れただけなのだから。
私にとってそれが、この現場だった。
*
たくさんの魂との出逢いがあった。
魂目線では「全員で約束してたに違いない。」と思わせるほどに。
私にとって関わりの深い魂たちとの待ち合わせ場所だったのだろうと思う。
それとは別に、単純に出会った人数だけを見ても言える。
1公演で数百〜数千のお客様を迎える。
クライアントもほぼ毎日変わる。
少なく見積もっても通算500名の面接を担当した。
抱える自社スタッフも毎日異なる組合せで数十名と一緒に仕事をする。その日奏でるハーモニーはその日だけの奇跡の音色。二度と同じ音でハモることは無い。
そんな日々を重ねた。
統括責任者が対応するお客様は、皆「怒り」を掲げている。
本当のご要望や思いはココロの奥底に仕舞われており、その上に怒りでフタをしている。目に見えて怒っていなくても、大体は言葉や態度やオーラに怒りが乗っていて見えない槍や盾で「攻撃」している。
本当は困って助けを求めている。
私にはそーゆー風に見えた。だから怒りというフタを取り去る作業から始める。
その為にはまず武蔵坊弁慶のようにカラダで槍を受け止めることが必要になる。
一般的にご意見やクレームを挙げるお客様というのは精神が未熟で、自分の感情を自分で処理することができない。感情が揺さぶられる原因が、誰かや何かにあるのだと思っている。要は自分の中から湧いた感情の責任を自分で取ることができない状態なのである。
そのようなお客様というのは、別にここ(私の居る劇場)だけで大暴れしているわけではない。どこへ行ってもその方が見ている景色は変わらない。
どこへ行っても同じ。自分への怒りと拒絶と嫌悪が反射して返ってくるような現象に遭遇しているはずなのだ。
基本、傾聴し主張を受け止めてあげれば表面的には怒りが収まる。
つまり私がここでやってきたことは、鏡となって反射させることでは無く、その人の闇を吸収(肩代わり)してあげること。
だから、帰り際「あんたも大変やなー。また来るわ。ありがとーなー。」と気を良くして退館される。アユミという人は、すべての闇を吸収してあげるから男性客はアユミの中に「自分の闇」を見ることはない。だから心地良くなって帰ってゆく。
でもそれは一時的なもので、そこから先は私がどうこうできるものではなく、本当は自身で背負わなければならない闇(感情)なのだ。
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「怒り」はオペラで言うと“序曲”みたいなものだ。
序曲後、緞帳が上がれば、やっとこさストーリーが展開する。だから、序曲(怒り)が止んで本編(本当のご要望を言い出すターン)に入らないと話にならない。
私がいつも聞いていた序曲はこんなだ。
罵声、罵り、否定、怒鳴り声、暴言、妄想、虚言、つば…、、その他色んなものを受け止めてきた。
このターンで言い返したり口を挟むと、いつまで経っても序曲は終わらないのだ。たまに永遠に序曲が止まらない人もあった。
とりあえずひたすらすべて吐き出すまで私は黙る。
私の根気強さに勝てるお客様は皆無だからだ😃✌️
私はこの現場で様々な経験を重ね「自分の精神領域」を磨いてきたような気がしている。
統括責任者になり3年ほど経った頃、私は“序曲を聞き流す”という手法をあみだした。心無い状態で口走っているからどうせ覚えていないし、ただの暴言に中身は無い。
その間、足が疲れてきた時に備えて目線でベンチを探したり、顔のほくろを数えたり、他の考え事をした。全部受け止めるのも流石に辛くなりガス抜きの仕方を覚えた。そんなことをしながらお客様が正気に戻ってから真摯にご要望を傾聴した。
でもそれすらも私からすると“子どもが母親に対して言うワガママ”。
無理難題を言って自分の欲求を満たしてもらおうと愛情を試しているようなもの。だからその試し行動にはいちいち反応しない。悪意やずるさが透けて視える申し出は、うまく突っぱねた。基本、真のなる困りごとにだけ対応した。まぁ、“真なる困りごと”を装う「悪意」を受け入れてあげることも多かったが。
つまり、クレーマーとは子ども時代に十分にそれを満たしてもらえなかった人が、大人になっても家族やパートナー、周囲や社会に同じことをやっているに過ぎない。
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出逢う人というのには必ず理由がある。
私が毎日毎日ハードなお客様対応をこなしていたのには、理由があった。
人間の輪廻の集大成とするべく今世は、とうに捨て去った感情を再吸収し統合させる必要があった。
一度自分の中に戻し、そしてその後完全に切り離していく必要があったのだ。
劇場に来る前にも心地良い居場所は無く、ある意味精神修行を行っていたような人生だった。
だがその強さを携え、基盤とし、この10年間で人間の持つ感情というものをある程度取り込めたような気がしている。
🐰「あぁ…そう反応しちゃう時あるよね」
「あぁ…そう思っちゃうこともあるよね」
「あぁ…それは腹立っちゃうよね」
「あぁ…そりゃ嬉しいね」
お客様が仰る内容すべて既に私は経験済み。
まるっと受け容れが完了している感情だった。
そのすべてが今回の人生で得たものなのかどうかは分からないけれど、私の魂はもうそれについては“終えた”内容だった。
つまり“分からない感情が無かった”のである。
*
ある日、スタッフによる明らかな案内ミスが発覚しお詫びに伺った時のこと。金品の要求を跳ね除け、謝罪を続けていた。対応に長時間費やした。
劇場職員に隣で控えてもらっていたけど、案内スタッフに係る事柄は私が主体で対応(謝罪)するのが暗黙のルールだ。私から今後の再発防止のための具体策をご説明していたのだけれど、男性はそれを無視し、私に「土下座しろ」と言ってきた。
一歩下がりしゃがみ込もうとした瞬間、私は職員に腕を掴まれ無言で制止された。そして職員は男性に向かって「こういうことは恐喝罪と強要罪になります」とひとこと。このときばかりではない。職員には他にも色々助けてもらった。
ただ、私は土下座でもなんでも構わない。私は「それで満足して帰るなら全然するけど。」みたいな気でいた。恥をかくのは私じゃない。お客様だ。
アユミはただ正座で床におでこをつけるだけ。
そんなお祈りの儀式があったなー。みたいな。
まぁ、劇場的にはNGだったようだけど。
☽
実は、この世はこれができるかどうかなのだ。(←土下座はしなくていいと思うケド。)
最近気づいた。
『60「光を選ぶ」とは』で少しだけ話した。
この世的な価値観で見ると、男性は私に勝った。
統括責任者と対峙しようなんて人は最初から勝つ気満々で、荒く体当りしてくる人ばかり。
私は男性に負けた。しかし魂の領域では私が勝ち。
勝ち負けに興味は無いけど、たぶん魂さん的な目線から見た場合そーゆーしくみっていうだけだ。
この世とあの世は反転していて、コチラの世界で勝てばアチラの世界では負け。逆さま。
クレームや罵声を浴びて黙ることができるか。
ご希望に沿い続け、相手を気持ち良く勝たせてあげられるか。理不尽な要望を受け容れられるか。自分が間違っていない場面でも相手に花を持たせてあげられるか。
男性客に映った闇を「他者の闇」とせず、大昔に捨て去り自分から分離した闇として捉え、再度対峙する。
統合させるために必要な手法だ。
10年という月日をかけ、晴れて私は様々な闇を吸収し終え、自らこのフィールドを去った。
勝ちたい人には勝たせてやればいい。
私は一回りも二回りも大きく成長した。
*
つい昨年秋…、、そんな私が、
『鬼滅の刃〜刀鍛冶の里編』を見た。
あの小さい鬼には、まいった。😃💦
【以降、ネタバレしています。
まだ見ていない方は、ここで閉じてね。。🐰🌼】
あの小さい鬼に、私は心底腹が立った。
相手と対峙しない。逃げ続ける。
目の前の出来事、自らの罪、受け止めるべき感情からひたすら逃がれようとするあの小さい鬼。
喜、怒、哀、楽、恐れ、恨み、憎しみ、、
受け止めたくない感情から逃げれば逃げるほどに
自分が分離し、新たな鬼が生まれていく。
物語とは言え、私はどーにもこーにも腹が立ち、
血圧は上がり、手はグー👊。
あの小さい鬼相手に、今さらなぜここまで腸(はらわた)が煮えくり返るほどの苛立ちを覚えるのか。
最近になってようやく理解できたうえ、このように言語化出来るまでに至った。
私はあの「小さい鬼」のような人間が大嫌いなのだ。理解ができない。理解したくもない。なぜ嘘をつくのか。なぜ、嫌なことから逃げるのか。なぜ自分の負の感情から逃げるのか。なぜ自分の犯した罪にたいして責任を取らないのか。目をふさぎ、他者のせいにし、自分以外の誰かや何かに罪をなすりつけるのか。
上の画像の中にいる太鼓を背負った鬼は、あの小さい鬼から分離した“憎しみ”という名の鬼だ。
小さい鬼が対峙しなかったものは分離して新たな鬼を生み出した。本人(鬼)はそれすら自覚がないのである。
鬼滅の刃ではそれを「極悪人」と題している。
極悪人は、対峙しようとしない。対峙したとしてもなお「“憎しみ鬼”など自分では無い」とのたまうだろう。まさにねじ曲がった性根だ。
そして、“憎しみ鬼”は当然、やさしい人(炭治郎たち)が引き受ける(対峙する)ことになる。
私はずっと「精神的に未熟な人たち」の荷物を
代わりに持ち続けてきたのである。
私の荷物じゃないのに。
他者が持つべき重たい荷物を肩代わりしてあげつつ、道を歩んできた。
最終的にそれに気づいた。
私はもう、人の荷物は持たない。
本人に投げつけてお返し申す。
これで私は晴れて身軽になった。
炭治郎たちはどう対処するのだろう…。
『刀鍛冶の里編』以降の物語を、私はまだ見ていない。楽しみである(*´艸`*)✨
Ayumi☽
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