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松野志部彦
2021年6月20日 20:12
吹き抜け式の待合ロビーには秋の陽射しが満ちていた。縁起でもないことに、俺にはそれが天国の入口みたいに思えた。それくらい幸福そうなムードだったのだ。 頻繁に病院を訪れていると、そのうち誰が患者で誰が見舞い客か見分けられるようになる。まぁ、服装で判別はつくのだけど、それ以前に表情や仕草ではっきりしている。おおまかに言えば、リラックスしている奴が患者で緊張している奴が見舞い客だ。この差はたぶん、どの
2021年6月18日 06:53
春の夜は時間をかけて地上を覆い、まるで出し惜しみするかのように、星の瞬きをひとつひとつ暗幕に灯し始めた。村の明かりは微々たるもので、高原と夜空との境界を曖昧にしていたが、西にそびえる連峰の冠雪の白さだけは、暗闇のなかに仄かな輝きを放っていた。 若い村娘がひとり、ランプも持たずに暗い高原を渡っていく。青地のスカートの裾を持ち上げ、後にしてきた村を振り返りもせずに歩いている。ひたむきなその目は、
2021年5月16日 10:51
タンポポ丘と名付けられたその場所は、施設の裏手にある沢を渡り、整備された坂道を上った先にあった。傾斜が終わり、頭上を覆っていた林のトンネルが途切れると、途端に見晴らしのいい景色へと出た。草原といってもいい広場だった。 夢を見ているような気分で、少年はしばらくその場に立ち尽くした。「ほら、あそこ」隣の少女が指をさす。「あの辺りだけ、白いでしょう? タンポポがたくさん咲いているの。だから、タンポ
2021年5月6日 08:40
わたしにとって、十七歳という年齢はもっと神聖で眩しいもののはずだったのに、いまこうして十七歳の終わりに振り返ってみると、なんとみすぼらしい一年だったのか、と愕然としてしまう。 十八歳の誕生日まで、あと五分を切っていた。 真夜中の時計は普段よりも精確に時を刻んでいる気がする。一秒、二秒、と時間が降り積もっていく様子が、肉眼で見えるかのようだ。それはいつも、火葬場の棺に残された遺灰の山を、わた
2021年5月5日 12:30
池袋にあるその水族館に僕と妻がやってきたのは、十一月の終わりの、肌寒い日曜日の朝だった。 その前夜、妻が唐突に「明日、人魚を観に行かない?」と提案したのがきっかけだ。提案の中身よりも、彼女と言葉を交わしたこと自体がずいぶん久しぶりな気がして、僕は半ば気圧される形でうなずいていた。 館内は家族連れよりも若いカップルのほうが多かった。三十路に近い僕たちはなんとなく場違いな気がする。そもそも、池
2021年5月5日 09:26
ロビーで一服つけていると、待合ベンチに見覚えのある男が座っているのに気がついた。飲み終えたコーヒーの紙コップを捨てにいく間に、その男のことをなんとか思い出せた。高校時代の友人だ。「久しぶり」と声をかけると、彼はぶたれたように目を瞠って俺を見つめ返した。十五年ぶりの再会だったが、どうやら思い出してくれたようだ。「あぁ」と溜息のように漏らしてから、「久しぶり」とひっそり笑った。昔と比べてかなり太っ
2021年5月4日 11:01
快晴とまでは言えないものの、ほんの一時間前まで空は明るく、夏の陽気を湛えていたというのに、なにが気に食わなかったのか、重々しい雲を呼びこんで不機嫌になり始めた。海岸と山々に挟まれたその町は、なにより天候が崩れやすいことで知られていた。 間もなく最初の一滴が落ちてくると、少年はランドセルを鳴らして駆けだした。傘を持っていなかった。朝、うっかり忘れてしまったのだ。坂道のカーブを上がり、段々に連な
2021年5月3日 17:30
花摘みの帰り、河原で騒がしい一団に出くわした。 橋の建設にあたり、村の子供が人柱にされるという。 興味のままに人だかりをかきわけていくと、まだ骨組みしか出来上がっていない支柱の一本に、たしかに少女がくくりつけられていた。騒がしい観衆とは対照的に、赤染の上等な着物を着た彼女は、いたって平静な澄まし顔である。前髪の下にある一対の眼が、女と呼ぶにはあまりに少年じみていて、まだ私とそう歳が変わらな