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【掌編】栄光のタンバリン

 ロビーで一服つけていると、待合ベンチに見覚えのある男が座っているのに気がついた。飲み終えたコーヒーの紙コップを捨てにいく間に、その男のことをなんとか思い出せた。高校時代の友人だ。
「久しぶり」と声をかけると、彼はぶたれたように目を瞠って俺を見つめ返した。十五年ぶりの再会だったが、どうやら思い出してくれたようだ。「あぁ」と溜息のように漏らしてから、「久しぶり」とひっそり笑った。昔と比べてかなり太っていたものの(俺もあまり人のことはいえないが)、その内気な笑みには高校時代の面影が鉄サビのように浮かんで残っていた。
 挨拶をひと通り交わしたあとで、なぜ平日の真っ昼間から病院にいるのかという話題になった。
 俺は会社の健康診断で肝機能に異常ありとの診断を受けて来院していた。じつは健康診断の前夜にうっかり酒を飲んでしまったのだ、と強面の医師に言い出せないまま、二度目の血液採取を終えて出てきたところである。
 友人は、家族の見舞いにやってきたという。
「母親が入院しているんだ」彼は眼鏡を外し、寝不足らしい目をまぶたの上からもみながら言った。「大腸がん。末期で、もう長くないんだ」
 俺は咄嗟に言葉を返せなかった。この場面で当意即妙に返答できる奴がいるのなら、そいつの厚顔をぜひ拝んでみたい。
「それは、大変だな」十五年前には絶対に作れなかったであろう表情を作って、俺は慎重に答えた。「仕事しながらの世話だと負担も大きいだろ」
「いや」と彼は首を振った。「じつは、仕事してないんだ」
「え?」
「高校出たあと就職したんだけど、上手くいかなくてさ……、それからはずっと仕事してない」
「じゃあ、えっと、生活費とかは……」
 俺の知る限り、彼はひとりっ子の母子家庭だった。それで大学に行かなかったのだ。俺たちがいた教室で、就職の進路を選んだのは彼だけだった。
「母親がパート勤めだったから」彼は膝に目を落とした。「これからどうしようかなって、考えていたところ」
 またしても言葉に詰まってしまった。肩を落とす旧友から、不幸の臭気が立ち昇った気がした。
「そうか」と俺は曖昧に頷く。「じゃあ……、俺、このあと予定あるから、そろそろ行くよ」
 俺の動揺を、彼も察したのだろう。「あ、そう」と諦めたように頷くだけだった。十五年ぶりの再会だというのに、ずいぶんあっさりした別れである。連絡先の交換もなければ、酒の誘いの一つもなかった。
 玄関ロビーを出て、夏の分厚い陽射しにあてられながら、俺はバス停までそわそわと歩いた。自然と早足になりながら、途中で何度も背後を振り返ってしまう。後ろ髪を引かれたわけではない。旧友が物乞いのようについてきていたらどうしようかと不安だったのである。不幸というのは、溶けたゴムみたいに厄介な代物だ。周りにいる人間だけでなく、遠くで傍観している者の心にまでまとわりついてくる。関わってはロクなことにならない。
 忘れてしまおう。
 そう思いつつも、やってきたバスに乗り込み、車窓を流れていく街並みを目に映している間、俺は高校時代の記憶をなかなか振り切れなかった。

 彼は、クラスの中でも飛び抜けておとなしい奴だった。いじめられていたわけではないが、影の薄さのために自然と教室の隅へ追いやられてしまうタイプだった。風貌は冴えず、成績もパッとせず、運動神経も人並みで、観葉植物のようにひっそりとしている存在。どこの学校のどこの教室にも、そういう毒にも薬にもならない人間が必ずいるものだ。
 それなのに、クラスで催される体育祭や文化祭の打ち上げにはまめに出席していたのだから、不思議だと思う。恐らく、教室内での自分の居場所を広げたかったのだろう。いま思い返すと痛々しい努力に思えるが、そのおかげで俺は彼の存在を認知し、彼の特技であるタンバリン演奏を目撃することができたのである。
 そうだ、タンバリン……。
 それが彼の唯一の栄光だった。
 どういう名目だったのかもう忘れてしまったが、なにかの打ち上げのあと、皆でカラオケに行ったことがある。彼はまるで幽霊のようにひっそりと紛れていた。歌うことは一度もなかったが(彼の歌声など想像もできない)、かわりに彼は、備品のタンバリンをずっと握りしめていた。安物の、簡単に壊れそうな黄色いタンバリン。女子の誰かが歌おうとした時、近くにいた彼にそれを押しつけ、自分の歌を盛り上げろと要求したのである。無茶ぶりにもほどがある。
 俺は笑ってそのやりとりを眺めていたが、いざ曲が始まると、誰もが彼に目を奪われた。彼のタンバリンさばきがあまりに見事だったからだ。それは大道芸の域にまで達していた。機関銃のように寸断なく刻まれるリズムに、マイクを握る女子ですら息を呑んで凝視した。
「すげーじゃん」曲が終わると、男子も女子も彼を取り囲んで持て囃した。「なんでそんなに上手いの?」
「家にタンバリンがあったから」はにかみながら、彼はぽそぽそと答えた。「子供の頃から、なんとなく練習してたんだ」
「あたしの曲でも叩いてよ」
 そんな具合に、彼はずっとタンバリンを叩き続けた。頼んだ憶えはなかったが、俺が歌う時にも叩いていた気がする。カラオケが終わるまでの三時間、それが彼の高校生活のハイライトだったのは間違いない。
 彼のタンバリンはたしかに見事だった。
 俺は音楽に関しては門外漢であるし、楽器の一つもまともに扱えないのだけど、そんな素人でも彼の技量が並ではないことくらいわかる。両手首がそれぞれ独立した生物のように高速でしなり、音だけでなく視覚的にも圧倒されてしまう。手だけでなく、肘や腰や脚まで使って叩くパフォーマンスには素直に舌を巻いた。
 ただ、俺はいまいち興奮に引き込まれない自分を感じていた。どんなに素晴らしくても、それがあぶくの栄光に過ぎないことを俺は知っていた。羨望や妬みとはまた別の、むしろ憐れむような気持ちで、彼の注目される様を眺めていたのだ。
 俺は小学生の頃、同級生の誰よりも脚が速かった。
 運動会では言うまでもなくヒーローだったし、それ以外の時でも、口の巧さで皆からちやほやされていた。小学校なんて、脚が速いこと、口が巧いこと、たったそれだけで持て囃される世界である。小学校に限った話ではない。ゲームが上手いこと、楽器を演奏できること、勉強ができること、恋人がいること。称賛の対象は移ろっても、原理はなにも変わらなかった。箱庭の世界にだけ通じる、有効期限つきのライセンスなのだ。
 中学校には俺より脚の速い男子が何人もいた。口の巧い奴はその何倍の数もいた。そして、俺が持っていない種類のライセンスを所持している人間が数え切れないほど現れた。
 そうなると、俺はあっという間にヒーローからその他大勢の一員へと格下げになった。何かに失敗したわけでも、誰かの顰蹙を買ったわけでもない。ただ自然と、波に押されて浜辺に漂着する貝のように、教室に満ちる砂の下へ埋没していったのである。
 こんなことは悲劇でもなんでもない。
 ヒーローになれる者などほんの一握りでしかなく、しかも、それもほんの一時のことでしかないのだ。そもそもヒーローにならなければいけない理由もない。いままで死んでいった人間たちの中で、銅像になった者がどれだけいるというのだろう? ほとんどの者は銅像を建てられることもないままに忘れられていく。それが普通のこと。偉くない人間のほうが、この世には圧倒的に多いのだ。
 悲惨なのは心だけだ。
 栄光の鮮烈さを知ってしまったあとの、ささやかな希望にも縋ろうとする心の乾きだけである。
 それから数カ月後に催されたカラオケでも、友人はタンバリンを振っていた。
 以前よりも期待に膨らんだ笑顔で……、皆がすでにその隠し芸に飽き、鬱陶しく思い始めているのにも気づかぬまま、彼は執拗にタンバリンを鳴らし続けた。街灯の周りを狂ったように旋回し続ける蛾のように。
 彼にマイクが回ってくることは、結局一度もなかった。

 乾いた笑みがうっかりこぼれ、斜め前の座席の老婆が振り返る。俺は慌てて表情を引き締めてから、降りるべき停留所を二つも過ぎていることに気づいて降車ボタンを押した。

 ◇

 彼の自殺を知ったのは、翌年に開かれた同窓会でのことである。
 旧友の死を知っていたのは地元の役所に勤めている者だけで、その他には誰一人として彼の死を知らなかった。母親が息を引き取ってから、二か月後のことだったらしい。遺体は長いこと放置され、ようやく発見された時にはひどく腐乱した状態だったそうだ。
「そういえばあいつ、タンバリン叩くの上手かったよな」
 誰かがそう呟くと、皆が思い出したように頷いた。でも、それだけだった。墓参りが提案されることもなく、話題はすぐに誰かの結婚話へと移っていった。いつまでも彼のことを考えているのは、どうやら俺だけのようだった。
 特技、自慢、武器。
 あるいは、光、希望、寄る辺……。
 なんでもいいが、それはもしかしたら、絶望よりもさらに残酷なものなのかもしれない。扉の隙間からかすかに射し込む燐光。しかし、それだけを追って生きていくには、人の一生はあまりにも暗く、そして長すぎる。
 はにかみながらタンバリンを握る彼の姿が目の奥をよぎった。
 ふいの感情が俺を揺さぶった。それは、あの時に目にした彼の特技よりも、ずっとずっと深い衝撃だった。
「どうしたの?」
 かつてのクラスメイトたちが俺の顔を覗き込む。
 どうもしていない。
 どうにかしたくても、どうにもならなかった。
 そして、それは悲劇でもなんでもないことだったのだ。
 俺はさりげなく目許を払い、それからビールを片手に提案した。
「みんなでさ、あいつの、墓参りに行かないか?」
 皆は怪訝そうな表情を浮かべながらも、ぎこちなく頷くのだった。



<了>



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※2020年執筆。
 見出し画像:みんなのフォトギャラリー(sayopiko様)

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