【掌編】チル

 タンポポ丘と名付けられたその場所は、施設の裏手にある沢を渡り、整備された坂道を上った先にあった。傾斜が終わり、頭上を覆っていた林のトンネルが途切れると、途端に見晴らしのいい景色へと出た。草原といってもいい広場だった。
 夢を見ているような気分で、少年はしばらくその場に立ち尽くした。
「ほら、あそこ」隣の少女が指をさす。「あの辺りだけ、白いでしょう? タンポポがたくさん咲いているの。だから、タンポポ丘」
 少女の言う通り、広場の平らな一角には綿毛をつけた花が群生していて、その一帯だけを白く染めている。そこ以外は、草むらの絨毯がわずかな起伏をつけて広がっているばかりだ。春の陽射しが、遮るものなく柔らかく降り注いでいる。
「よく知っていたね、こんな場所」少年は言った。「僕、ずっとこの町にいるけど、ここのことは知らなかったよ」
「こっちに来たばかりのころ、あちこち探検していたの」少女が得意そうに答える。「一日中あそこにいたんじゃ気が詰まるでしょう?」
 施設のことを言っているのだ。少女はいまそこで暮らしているのである。
 親と離れ、知らない人々と共に暮らすという生活が、この町の家で生まれ育った少年にはうまく想像できなかった。ときどき施設に新しい子供がやってくることは知っていたけれど、学校に通う子供たちは皆、自ら進んで彼ら彼女らに近づこうとしない。少年もそのうちのひとりだったが、町のお祭りでたまたま言葉を交わしたのをきっかけに、少女と仲良くなったのである。それ以来、二人はお互いに人目を忍んで頻繁に会うようになっていた。
「あっちに行ってみようよ」
 少女が誘って、少年の手をとって歩き出す。
 少年は顔に熱が集中するのを感じた。こんなところを学校の友達に見つかったら、どんな恥ずかしい噂を立てられるかわからない。しかし、広場には人影がひとつもなく、誰にも見咎められる心配はなさそうだった。
 白いワンピースから伸びた、溌剌と歩を踏む少女の脚を、少年は盗み見る。その元気の良さが彼には愛おしく、そして心配の種でもあった。施設にいる子はみんな病気にかかっている、という噂を聞いたことがあったからだ。少女が体力を使い果たし、電池切れの玩具みたいに、いきなりばたんと倒れ込むのではないかと不安だったのである。
 少年がそんなことを考えているうちに、二人はタンポポ丘に着いた。白綿の冠をかぶった植物たちは、町の道端で見かけるそれとはなんとなく違って見えた。ここには違う空気が流れているのかもしれない。そんなふうに少年は思い、二人でくぐってきた林のトンネルのほうへ振り返ったが、遠くに並んでいるのはどれも同じような恰好の木々で、自分たちがどこからやってきたのかひと目ではわからなかった。
「綺麗でしょう。これ、ぜんぶタンポポなんだよ」
 少女が足許にあるひとつを手で引き抜き、ふっと息を吹きかける。いくつもの綿毛が宙へと散っていく。風のない晴天の日だったので、白い欠片が二人の周囲でしばらく漂った。
「ここ、誰かが世話してるんじゃないの?」
「知らない」少女がしゃがみこむ。「どうでもいいよ、そんなこと」
「でも、勝手に抜いて叱られたりしたら、いやだろ」
 少女は無視して二本目を摘み、また綿毛を吹いて飛ばす。シャボン玉みたいだな、と少年は思った。その眺めが、彼の心配や不安を多少やわらげてくれた。
「きみもやってみたら? 面白いよ」
 少女が遠慮なしに摘み取った三本目を、少年は慎重に受け取る。息を吹きつけると、白い綿毛がふわふわと飛び立った。いまよりずっと子供の頃にやった憶えのある遊びだが、久しぶりにやってみるとたしかに面白い気がした。
「ここのことは、誰にも内緒にしてね」
「施設の子にも?」
「施設の子にも、学校の子にも」
「わかった」少年はうなずいた。「誰にも言わない。秘密にする」
 少女はにっこりすると、おもむろに腰を上げてサンダルを脱いだ。
「ほら、こうやると、もっとすごいんだよ」
 そう言って、素足でタンポポを軽く蹴る。いくつもの綿毛が舞い上がり、二人の肌をくすぐりながら昇っていく。白い旋風のなかにいるような心地を少年は覚えた。
 少女がさらに勢いをつけて蹴り上げる。たくさんの綿毛がまた巻き上がったが、少年は、今度は種子の行方よりも、少女の高く上がった右脚と、ワンピースの裾口から覗いた中身に視線をやってしまった。少女が目敏く気づき、素早く膝の辺りを押さえる。少年は言葉に困ってうつむいた。
「いま、見たでしょ」
「見てないよ」少年はむすっと答える。
「うそつき」少女は照れ笑いだった。「えっち」
 最近、少女の肌に目を釣り込まれるようになってしまった自分に、少年は困惑していたところだった。少し前までは意識したことさえなかったのに、その急激な変化が自分で恐ろしかった。恥ずかしさもあるし、情けなくもある。そして、なによりそれを素直に認められない自分に腹が立っていた。少女に嘘をつきたくないのに、咎められてどうしても嘘をついてしまう自分が、卑怯に感じられてしかたなかった。
「心配しただけだよ」
 言い訳するにはだいぶ間を外していたが、少年はたまらず言った。
「心配って?」
「きみ、病気なんだろ。運動とか、していいのかなって思って」
 少女の表情が初めて曇った。唇を尖らせて横を向く。
「意地悪で言っているんじゃないよ」なにも言わない少女に、少年は焦った。「本当に心配しているだけなんだ。どんな病気なのか知らないけど、具合が悪くなったらどうしようって」
「どうして、病気だって決めつけるの」
「だって、施設の子は、病気だから施設にくるんだろ。発作とか、そういうのが起こって、だから施設で暮らしているんじゃないの」
「発作なんてないよ。勝手な心配しないで。なにも知らないくせに」
「知らないのは、きみが教えてくれないからじゃないか。なんの病気って訊いても、いつも怒って黙るばかりで」
 少女はタンポポをむしって少年に投げつけると、また押し黙って向こうを向いてしまった。少年も頭に血を上らせていたが、やり返そうという気は起きなかった。ただ、力のない、へたりと折れたタンポポの茎の感触が、無性に悲しいだけだった。
 綿毛のいくつかが、少女の髪にくっついていた。
 少年は無言でその白い髪飾りを見つめる。自分の苦し紛れの言い訳が、目の前の少女を深く傷つけてしまったことを、彼はようやく理解した。
「ごめん」少年は謝った。「もう、病気のことは言わない」
 少女はなかなか答えなかった。少年はあの愛らしい笑顔が振り向くのを待ったが、彼女はあちらを向いたまま動かなかった。
 やがて少女が静かに問いかけた。
「あたしが病気だったら、もう会わない?」
「そんなことないよ」
「でも、きみだって、病気がうつるのは嫌でしょう?」
 見えていないのを承知で、少年は首を横に振った。
 嘘ではなかった。たとえどんな病気であっても、彼は伝染を恐れているわけではなかった。少女と同じ病気になって、彼女と同じ施設に移されるのであれば、それはそれで少年は本望だった。いまみたいにこそこそとするのではなく、堂々と彼女と会えるようになるからだ。朝起きて、彼女に「おはよう」と告げ、同じ食事をとり、いつでもこうして一緒に出掛けることができれば、どんなに素晴らしいだろうと思う。二人が同じ境遇になれれば、きっともっといろいろなことができるに違いない。魚釣りをしたり、絵を描いたり、夜の丘で星座を探したり……、そういうことがたくさんできるはずだった。
 まるでなにかの合図のように、タンポポ丘へ風が吹いた。種子がいっせいに飛び立ち、逆巻くように青空へと昇っていく。空にはいつの間にか雲がいくつか出ていて、巨大な船影を草原のあちこちに落としていた。
 少女が振り向き、少年を見つめる。笑顔はなく、いつになく緊張した面持ち。大人になった未来の少女を、少年は垣間見た気がした。
「それなら、見せてあげる」
「なにを?」
「あたしの病気」戸惑う少年のそばから、少女は一歩だけ下がった。「そのかわり、約束して」
「約束?」
「あたしのこと、離さないって」
 意味を計りかねて少年は見つめ返す。
 そのとき、ひときわ強い風が一陣、丘に吹いた。よろめくほどの突風で、少年は思わず腕をかかげて目を細める。狭まった視界に、少女の素足と、はためくワンピースの裾が見えた。
 それから少年は、白い綿毛となって散り散りになっていく少女を見た。
 頭のてっぺんから分散は始まり、少女のなびく黒髪も、閉じた目許も、緊張して引き結ばれた口許も、すべてが白い欠片となって流されていく。その変化は瞬く間に全身へ広がり、ほかのタンポポの種子と入り混じりながら、ばらばらになって空へと昇っていく。風が治まると、地上に残されているのは、少女が脱ぎ捨てたサンダルとワンピース、そして、からっぽのタンポポだけだった。
 少年は茫然と立ち尽くしていたが、少女の言葉を思い出し、無我夢中に草原を駆けだした。彼女はこのことを言っていたんだ、と思った。あの綿毛を集めなければならない。だって、彼女とそう約束したのだから。
 飛んでいく少女の欠片を、少年は必死に追った。しかし、無数の綿毛は風の余韻で拡散を続け、もはやどれが少女の欠片なのかさえわからなかった。少年は林のほうを見るが、遠くにある木々は無表情に立ち並ぶばかりで、容易に帰り道を見つけられそうにもない。だいたい、助けを呼ぶとして、どう説明すればいいのだろう? いったいどうやって彼女を集めればいいのだろう?
 途方に暮れて泣き出した少年の髪に、白い綿毛がくっついた。
 それは少女の欠片のひとつだったが、少年はそれに気づく余裕もなく、息を喘がせ、両手を広げながら、再び種子を追いかけ始めるのだった。




<了>



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※2021年執筆。
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