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【掌編】ゴッド・セイヴ

 わたしにとって、十七歳という年齢はもっと神聖で眩しいもののはずだったのに、いまこうして十七歳の終わりに振り返ってみると、なんとみすぼらしい一年だったのか、と愕然としてしまう。

 十八歳の誕生日まで、あと五分を切っていた。
 真夜中の時計は普段よりも精確に時を刻んでいる気がする。一秒、二秒、と時間が降り積もっていく様子が、肉眼で見えるかのようだ。それはいつも、火葬場の棺に残された遺灰の山を、わたしに連想させる 。
 その遺灰は、かつて樹里の体だったものだ。
 姉の樹里が死んで、三年が経つ。こうして彼女の部屋で独り膝を抱えていても、その歳月の経過が未だにしっくりこない。
 わたしの掌には、ロザリオがあった。
 まだわたしたちがひよこみたいに小さかった頃、近所の教会で開かれた催し物で、樹里が貰ってきたものである。わたしはそのとき、人生初のインフルエンザで寝込んでいて、綺麗な十字架を得意気に首からぶら下げて帰った姉を、心底羨んだものである。「神様って、けっこう不公平だ」と悟った決定的瞬間でもあった。
 それからというもの、わたしたち姉妹の間では、このロザリオがちょくちょく話題に挙がるようになった。勝手に持ち出し、紛失しかけた責任をなすりつけ合うなどして、見苦しい姉妹喧嘩の火種になることも頻繁だった。しかし、白状すると、わたしなんかよりも樹里が身に着けているほうが、それはずっと似合う代物だった。子供のときから、うっすらと自覚していたことだ。だからこそ、わたしはあれほど姉に嫉妬していたのかもしれない。

 三年前の夏の終わり、樹里は呆れ顔をして言った。
「ほかのロザリオ買えばいいじゃん。来年からバイトもできるんだし。おんなじようなやつ、お店にいけばすぐ見つかるよ」
「やだ。それがいいの」
 中学三年生にもなって駄々をこねる妹を、姉はおかしそうに眺めていた。彼女は当時高校三年生の十七歳で、十四歳のわたしには、なんだか姉が神聖で眩しいほど年上の女に思えた。それくらい十七歳の樹里は綺麗だったのだ。
「じゃあ、優里の十八歳の誕生日に、これプレゼントしてあげる。大人になった記念に」
「先が長ぇっつの。いまちょうだいよ。大事なのはいまなんだよ。ナウ!」
 樹里はげらげら笑うばかりで取り合わなかった。

 その一か月後に彼女が死ぬなんて、いったい誰が想像できただろう?
 神様はやっぱり不公平だ、と思った。

 学校帰り、坂道を自転車で下っていた樹里は、一時不停止のトラックにぽーんと撥ね飛ばされ、なんと七メートルも宙を舞ったらしい。笑ってしまうくらいあっけない最期だが、それ以来、わたしはお腹の底から笑うことができなくなった。友達と馬鹿話をしている間も、美味しいものを食べている間も、幸福は常にわたしと距離を置いた場所でぼんやりと漂っているだけだった。それはもう二度とわたしの許に戻ってこないのかもしれない。樹里が死んだあの日から、わたしは幸福という言葉の意味さえ、よくわからなくなってしまったからだ。
 姉の葬儀のあと、形見としてロザリオを貰えることになったけれど、それを自分の所有物だと感じたことは一度もなかった。ただ預かっているだけだ、という意識が振り払えなかった。わたしが十八歳になるまでの、長い三年間の、預かり物だった。

 その長いはずの三年も、蓋を開ければあっという間に過ぎていった。

 今年、樹里の命日に家族で霊園を訪れた際、教会のおばさんと鉢合わせた。わたしたちにとっては子供の頃から慣れ親しんだ人で、彼女も樹里の墓参りにきてくれたのだった。
 わたしの首元に例のロザリオを見つけると、おばさんは懐かしそうに目を細めた。
「そのロザリオにはね、樹里ちゃんの祈りがこもっているのよ」
 わたしは咄嗟に理解できず、おばさんを見つめ返した。
「優里ちゃん、あのとき、インフルエンザでひどかったでしょう? だから、樹里ちゃん、妹が治りますように、妹が元気なまま大人になれますようにって、必死でお祈りしていたのよ。それで、当時の神父さんが気にかけてくださってね、そのロザリオを樹里ちゃんに贈ったのよ。優里ちゃんが早く元気になるように、神様にいつでも祈りが聞こえるようにって」
 その話を聞いても、わたしは葬儀のときと同様に上手く泣けなかった。
 ただ、神様というのは、じつは恐ろしく公平な存在なのではないか、という考えが頭をよぎった。
 当時の姉の、ちっぽけで無邪気な祈念ですら神様は抜かりなく拾い上げてくださって、その代償の帳尻をきっちりと合わせていくのではないか、と思ったのだ。
 首元のロザリオが、ぐっと重くなった気がした。小さな十字架の中で、神様が姉の祈りを、大人になろうとしているわたしを見届けている気配がした。それはひょっとしたら、悪魔よりも恐ろしいのではないか、とわたしは思うのだ。

 そして、あと五分足らずで、わたしは十八歳になる。
 十七歳の樹里を追い越し、わたしは永遠に姉を失う。
 時間が止まってほしい、と切に願う。それが叶ってもどうしようもないのに、空気を求めるように強く願ってしまう。姉の祈りが成就してしまうことを、姉の犠牲が成立してしまうことを、妹であり子供でもあるわたしは、受け入れることができないのだ。
 それでも時計は進む。
 なぜなら、わたしが無事に大人になることが、樹里の祈りなのだから。
 それまでの間、わたしは神様に守られているのだから。
 怖くなって自分の肩を抱きしめた。握ったままのロザリオが肩に当たって、ひとときもその存在を忘れようがなかった。

 それから、わたしはふいに予感した。
 十八歳になった瞬間、わたしは洪水のように泣くかもしれない。
 ロザリオの似合わない自分に。
「おめでとう」と微笑む姉の不在に。
 いままで味わったことのない、新たな形の喪失に。

 神様はいまも、精確に時を数え続けている。



<了>



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※2018年頃執筆。(改題)
 見出し画像:みんなのフォトギャラリー(もとき様)

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