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【掌編】夢を見る星

 春の夜は時間をかけて地上を覆い、まるで出し惜しみするかのように、星の瞬きをひとつひとつ暗幕に灯し始めた。村の明かりは微々たるもので、高原と夜空との境界を曖昧にしていたが、西にそびえる連峰の冠雪の白さだけは、暗闇のなかに仄かな輝きを放っていた。

 若い村娘がひとり、ランプも持たずに暗い高原を渡っていく。青地のスカートの裾を持ち上げ、後にしてきた村を振り返りもせずに歩いている。ひたむきなその目は、闇夜に浮かぶ峻険な山影を見つめていた。立ち止まる意思はないようだった。
 棚引く雲の陰から、新たな星がまたひとつ現れたが、息を切って歩く娘がそれに気づくことはなかった。いまが夜であることさえ、彼女の念頭からは忘れ去られているようだった。行き先を照らすほどの光であれば、あるいは気に留めたかもしれない。しかし、その晩は月も風もなく、ただ微弱な星が無言で地上を見守るばかりの、どこまでも静寂に浸された夜だった。

 ◇

「年が明けるまでには戻るよ」
 青年は午後の陽だまりに寝そべりながら言った。
 十一月にしては珍しく暖かい、春を思わせる日だった。村外れにある樫の木のそばで、ささやかに愛を確かめ合ったあとのことである。
「もっと早く帰ってきて」
 青年の逞しい腕に頭を預けて娘は頼んだ。
「雪山に挑むというのは、普通に山に登ることとはわけが違う」青年は首を振って諭す。「これは、命を懸けた勝負なんだよ。できれば早く終わらせるだとか、途中で引き返せばいいとか、そんな悠長なものじゃないんだ」
 自分の幼さを叱られた気がして、娘は黙り込む。少しほつれた彼女の髪を、青年はくすぐるように指で梳いた。
「春になったら、結婚しよう」青年は言った。「村を出て、街で暮らそう。ヤギの世話や鍛冶仕事なんて、つまらない仕事をしなくてもいい生活を、ふたりで送るんだ。僕は機械工になる。そのために勉強もしているんだ。だから、心配しないで。僕が必ずきみを幸せにしてあげる」
 恋人の言葉が福音のように耳に響いたが、娘は頭を横たえたまま、どうしても笑顔になれなかった。幸せが胸のうちに積もっていくほど、得体の知れない不安が影法師のように背を伸ばしていくのを感じていた。幸福とは、雨水と同じだ。受ける器が相応しくないと、あっという間に溢れて氾濫してしまう。山間の村に生まれ、自分の境遇になにひとつ疑問を持たずに成長してきた彼女にとって、青年の描く夢の大きさは、夏の驟雨のように甘く、そして途方もないものだった。
「お父様が、きっと許してくれないわ」
「だから、僕は雪山に挑むんじゃないか」娘の不安を笑い飛ばすように青年は言った。「あの冬山を登り切ることは、勇者として認められるための儀式なんだ。いままであの山に挑んで、村の男が何人も死んでいる。僕の父も、そうだった。怖くないなんて言ったら嘘になる。でも、僕は死にはしないよ。偉大な人間として認められ、堂々ときみを連れて村を出る。それでようやく、僕の人生は始まるんだ」
「逃げればいいじゃない」娘はたまらず言った。「わたしを連れて逃げて。どうして、わざわざ命を落とすかもしれないことをしなければいけないの?」
 青年の瞳に、苛立ちと失望が綯い交ぜになってよぎった。
「僕は、自分の境遇から逃げるために夢を利用する気はないよ。そんな卑怯な真似はしたくない。自分の力だけで打ち勝って、後ろめたいことのないまま、きみといっしょに村を出る。わかるかい? 後ろめたさを抱えたまま幸せを手に入れても、一生拭い切れない影を背負うだけなんだ。そんなこと、僕には耐えられない。自分の夢を汚すような真似、僕にはできないよ」
 青年の勢いに圧されて、娘は口をつぐんだ。

 わたしといっしょに暮らすだけでは、あなたは満たされないの?
 わたしは、それだけで充分なのに……。
 たとえ、この村で一生を過ごし、ヤギの世話や鍛冶仕事に明け暮れる毎日を送ることになっても、あなたさえいれば、それだけでわたしの人生は報われるのに。
 あなたは、それ以上を望むの?
 わたしといるだけでは、足りないの?

 その疑問をぶつけたく思ったが、青年を困らせてしまうことを予感し、娘はなにも言えなかった。胸をナイフで刻まれるような疼きと痛みがあった。それが涙となってこぼれてしまわないよう、彼女は必死に唇を噛んで耐えていた。
 青年はじっと娘の顔を見つめていたが、やがて口許を綻ばせると、彼女の額へ天使のように無邪気な口づけをした。
「必ず帰るよ」
 青年は囁き、娘の頭を自分の胸板へ導いた。娘はまぶたを閉じ、ゆっくりと鼓動を打つ恋人の心臓に耳を澄ませた。恋人の胸は陽だまりに温められ、彼がまだ少年だった頃と同じ干し草の匂いを思い出させた。娘にとってそれは、まどろみを誘う幸福の形だった。

 ◇

 出立の日、娘はほかの人々とともに青年の勇姿を見送った。雪山へ挑むための装備に身を包んだ青年は、それだけで偉大な人間と呼ぶにふさわしい気がした。
 牧師の唱える祝詞が、娘の耳にいやに残った。死を恐れることはない。たとえ死が我々を捉えても、それは、神が与えたこの人生で何度も繰り返される旅立ちのひとつに過ぎない。神は我々の生も死も同様に見守ってくださっている。そういう内容の言葉だ。子供の頃から何度も聞かされたお説教だが、青年は瞑目し首を垂れ、深く聴き入っている様子だった。
 何度か雪が降り、村を見下ろす山々はその白い化粧をさらに深くしていた。生命を拒絶する、毒々しいまでの純白だ。出発間際、青年は見送り人たちのなかに娘の顔を見つけ、ふっと微笑んだ。娘も、己の不安を薙ぐようにして微笑み返した。白い吐息が、ふたりの様々な想いを包んで、灰色の空へと浮かんでいった。

 そして、青年は雪山へ消えた。
 二度と戻ってくることはなかった。
 年が明けても、彼の亡骸が発見されることはなかった。幾度も起こった雪崩が村民たちの捜索を阻み、山へ近づけようとしなかったのだ。
 長い冬が終わり、高原を覆う氷の隙間でフキが花を咲かせた頃、村の石碑に新しく青年の名が刻まれた。これまで雪山に挑み、命を落としてきた勇士たちの名を連ねた石碑だった。

 ◇

 豊穣の春がやって来て、村は慌ただしくなった。男も女もたくさんの仕事を抱え、山に消えた青年を偲ぶ機会もだんだんと減っていった。
 娘は手が空くと、樫の木のそばでひとりぼんやり過ごすようになった。冬の間に流し続けた涙も、その頃にはほとんど枯れてしまっていたが、その場所に行きさえすれば、また新たな涙が湧いてくる。青年と愛を交わしたあの陽だまりの、疼くような痛みと干し草の匂いが、何度でも体の奥底に蘇る。
「春になったわ」彼女はそよ風に向かって呟く。「結婚してくれるんじゃなかったの? わたしといっしょに村を出るんじゃなかったの?」
 答える者はいない。娘は永遠の孤独に残されていた。
「後ろめたく生きていたって、よかったじゃない」娘は草をちぎって、虚空に投げつけた。「死んで嘘つきになるより、ずっとずっと、マシじゃない」
 そんな恨み言を吐いて、やっと目に涙が滲むのだ。
 旅立った者と留まる者。死者と生者。そのふたつを日々引き離していく距離が、娘にとってはなにより悲しいことだった。次の春がやってきても、わたしはまだ彼のために泣けるだろうか……、その疑問が頭をもたげるたび、彼女を言い知れぬ不安に沈めていくのである。
 青年を呑み込んだ連峰は、まだ山頂に雪を深く残しているが、裾野へ下るにしたがって春の気配をだんだんと現わしている。それを上手く憎悪できないことが娘はつらかった。季節はすべてを包んで移ろおうとしていた。
 青年が語っていた街の暮らしを、娘は想像してみた。しかし、それはどことなく虚しく、張りぼてのように奥行きがないものだった。
「わたしは、あなたといるだけで充分だったのに」目尻から涙をこぼし、彼女は口にした。「あなたは、わたしといるだけでは足りなかったの? 街へ行かないと気が済まなかったの? あなたにとって、夢は、わたしよりも大事なものだったの?」
 陽はすでに傾き、樫の葉を黄金色に染めようとしている。
 娘はふいに立ち上がると、青いスカートについた草を払いもせず、ほとんど小走りになってその場をあとにした。

 ◇

 娘は村へ戻らず、西にそびえる山々を目指して高原を進み続けた。近づいていくほどに、その傾斜の険しさが鮮明になった。恋人はそれに挑んで命を落としたのだ。やがて陽は落ち、冷たい夜闇が辺りに降りたが、娘はそれにも構わず、ただただ冠雪の白さを見つめて歩き続けた。

 まだ若い星のひとつが、棚引く雲の隙間から娘を見つめていた。自分がここにいることを彼は告げたかったが、おぼろげに瞬きを繰り返すのが精いっぱいで、娘を引き留めることは叶わなかった。
 死者は旅立ちなどしないことを、星はすでに知っていた。旅立つのは、死んだ者たちではなく、生きている者たちだ。自転する惑星に生きる限り、一秒たりとも同じ場所には留まれないのだ。死者は違う。どこにも行けない。こうして夜空の彼方にへばりついたまま、一ミリたりとも動けない光になる。それが死ぬということであると、彼は星になって初めて知ったのだった。

 きみのことを、いまでも愛している。
 ただ、僕は、戦わずに幸福を手にする度胸を持たなかった。
 立ち止まる勇気がなかったんだ。
 夢を拵えなければ、挑み続ける相手がいなければ、毎日やってくる変哲のない現実を生きていく自信がなかった。自分のつまらない人生を受け入れる勇気がなかった……、ただそれだけの話なんだ。望みを叶えられたとしても、僕はきっと、また新たな望みをこさえて挑んだに違いない。きみを繰り返し悲しませ、疲弊させたに違いない。だって、ほかに生き方があるなんて、僕は知らなかったのだから。
 ここではない場所、それを目指さなければ生きられないなんて……。
 なんて、不自由な精神だったのだろう?

 地上へ向け、星は繊細な明滅を繰り返したが、娘が気づくことはついになかった。やがて夜闇が薄らぎ、東の空が白み始めると、星は青みを含んだ朝の大気へ溶けていった。
 それから間もなく、無口な太陽が光の腕を伸ばし、渡る者のいなくなった高原を優しく撫でたのだった。




<了>



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※2021年頃執筆。
 見出し画像:みんなのフォトギャラリー(ガル様)

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