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書評「兼好 露もわが身も置きどころなし」

こんにちは。

牧 菜々子です。

『徒然草』を書いた吉田兼好は、どんな人だったのか。

孤独で、悲観的。

書くことで、明白になった、精神の危機。

教養と、表現力があるばかりに、自分の文章が、自分を追い詰める。

そして追い詰められた兼好が、ふと思い出したエピソードを書き付けた途端、脱力とユーモア、そして「人との交流」が生まれた。

「人生の達人」のイメージは、それ以降の兼好を示すものなのかもしれません。

著者の島内裕子氏は、そう語ります。

兼好の生い立ち

兼好は、神道の家に生まれた。

家ぐるみで仕えていた人物の娘が、天皇家に嫁いだことから、兼好は19歳でのちの天皇となる人物に仕えることとなる。

神道の家柄から、出世するのは難しい。

そんな中、兼好が仕えていた天皇が、若くして亡くなった。

兼好は、このまま天皇家に仕えることを続けるかどうか悩み、徒然草を書き始める。

精神の危機

兼好は、未成熟な精神を、執筆行為によって目の前に引きずり出した。

そして、自らの教養と表現力によって、自己を論破し、追い詰められた。

徒然草第1段ではまず、願望から書き始めている。

いきなり「天皇に生まれたかった」と言っているのだ。

第2段では政治、第3段で恋愛について書いている。

平安時代の政治に、色事はつきものだった。

第7段で、急に普遍的な内容になり、「世の中は無常だが、人生は長い」と見通している。

そのうえで、女性の魅力についての記述が続き、現実的な内容になる。

本当に分かり合える友人というのはいない、書物が友だ、という孤独が見て取れる。

中国の賢者への共感、悲しい経験に思いをはせるなど、行ったり来たりする。

動揺のピークが、第38段。

人生の目的とは何か?

財産も空しい。

地位や名声も空しい。

知恵と人格といっても、誉めた人も悪口を言った人もすぐに死んでしまうのだ。

「万事は皆非なり」

精神の危機、ここに極まれりといった風情。

危機からの脱却

ここで終わっていてもおかしくなかった、徒然草。

次の第39段は、脱力している。

ある人が「念仏を唱えると眠くなるのはどうしたらいいですか」と尋ねた。

法然は「眠くないときに念仏しなさい」と答えた。

第40段は、栗しか食べない美しい娘に、婿が来ないという話。

この話を、兼好はふと思いつき、この場所に置いた。

ユーモラスに見えて、外界と隔てられている娘と自分を重ね合わせ、「その話をここに書く」ということを通して、外界との隔たりから脱却した。

第41段以降から、兼好は、ついに見知らぬ人とのコミュニケーションを取り始める。

批評家の誕生

ここでブレイクスルーを果たした兼好は、批評家となる。

際立つのは、抽出という方法。

あの聖徳太子について、他のことには一切触れず、「子孫はいらないと言った」というところだけを徒然草に引用している。

また、「勝とうとしてはいけない。一番遅く負けることだ。」という箇所にも、抽出という批評方法が見て取れる。

書かなくなった兼好

孤独で、悲観的だった兼好は、書きながら精神的に変貌を遂げ、抽出という批評法を展開した。

そして、『徒然草』以降、没するまで20年以上、書物を書かなかった。

どうして、兼好は書かなくなったのか。

それは、兼好が書いていたのは「書物」ではなかったからだ。

自分に必要だから書く。

精神の成熟を果たした今、後世に残すために書くことは必要ない。

そのうえで著者島内氏は、「精神の成熟を果たした後に書くものは、自己模倣になる」と説く。

自分が書きそうなことを自分で書くことは、とてもじゃないが続けられない。

だから兼好は、ついに書くことを終えたのだ、と。

気分の良い読書体験

この本を読むと、著者島内裕子氏の育ちの良さが感じられます。

こんなに無邪気で品のいい毒があるものでしょうか。

小気味良い、ユーモアとツッコミの数々。

歌人としての兼好について、「兼好の家集を読むと、恋愛体験があったことがわかる。

ただし、歌を贈られた相手の女性が、ますます兼好を厭う気持ちが強まるような、そんな歌である。」と。

また、「徒然草の内容は矛盾している」と説く者を批判し、「そのようにしか徒然草を読めないのなら、翻って自分はどうなのかと問うべきである。」と。

思わず笑ってしまいます。

興味深いのは、徒然草のぶつ切りの断章スタイルに惹かれて研究を始めた著者が、逆に「徒然草連続読み」を徹底することで、全く新しい評伝を生み出した点です。

大学院入試の口頭試問で、試験官から「徒然草って、まだ研究することがあるの?」と問われた次の瞬間、その隣の試験官が、「ええ、まだあります。」と答えたというのですから、著者の「応援される」人柄が目に浮かびます。

兼好について分かっている史実は、ごくわずか。

だからここでは、「立ち入った記述」を、あえてする。

そう冒頭で潔く明記するのは、著者の愛の表れです。

連続読みによって兼好の内面を追求する以上、「立ち入ったことを書く」ことは避けられません。

賛否はありますが、著者の率直な愛に触れる読書体験は、大変気分が良いものです。

孤独で悲観的だった青年が、自らの教養と表現力によって追い詰められた結果、ふと思い出して書き付けた続きの文章から、外界へと脱却していく。

批評家となり「人生の達人」となった末には、自己模倣にやりきれなくなり、ついに書くことを終える。

「『徒然草』の吉田兼好って、どんな人だったんだろう?」

この問いを、私の人生の今の時点で完結させてくれた本書を、決して忘れることはありません。


『兼好 露もわが身も置きどころなし』島内裕子著(ミネルヴァ書房)

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