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物価の高さ、そして私を閉じ込めている真犯人

今日こそは、前回書くつもりだった「カウンセリングを受けて感じたこと」を書こうと思っていた。
しかし、つい今しがた、アメリカの物価について改めて衝撃を受けたので、自分の中でホットな話題を優先して書くことにする。

リアルなアメリカの物価

ここ数年、各種メディアで「日本は安い国になっている」と騒がれている。
日本にいた時には気づかなかったが、ハッキリ言って、事実である。
昨年までヨーロッパに住んでおり、現在アメリカに住んでいる私は、そのことを肌で感じている。

例えば、この写真のココア。一体いくらだと思われるだろうか?

これはつい先ほど私がオーダーしたもの。
ご覧の通り、100均で売ってるような単なる白い紙コップ(しかも小さい。スタバのショートと同じ位のサイズだろうか)に入っている、なんの変哲もないココアである。

答えは8.38ドル。
本日のレートで計算すると1,130円。(1ドル=134.82円)
夏目漱石”一枚では足りないなんて、信じられるだろうか?
(なんだか漱石先生を侮辱されたような気さえしてくるのは私だけだろうか)

ちなみに、より正確に商品の値段を説明すると、商品自体は7.38ドル。
これに追加でチップが発生する。
私は選択肢の中で最低限のチップ、1ドルを選んだ。よって、合計8.38ドル=1,130円。
(チップがまた曲者なのだが、話すと長くなるので、これついては別途投稿したい。)

「ここは特別高いカフェなのではないか?」と思われるかもしれない。
しかし、写真を見ての通り、超オサレなワケでも、こだわりの高級カフェでもなんでもない。そこら辺にある、ごく普通のカフェである。(それどころか、店員の対応は超無愛想で雑だった)

私を軟禁生活に閉じ込めている真犯人

と、ここまで書いてふと思ったが、そもそも物価というのは相対的なものなのかもしれない。比較をするから「高い、安い」と感じるわけで、比較しなければ「高い、安い」とは感じないだろう。
それこそ、日本にいた時には「日本が安い国になっている」と気づかなかったように。
逆に、アメリカにずっと住んでおり、海外旅行にもほとんど行かないアメリカ在住の人は、アメリカの物価を高いと感じないのだろう。
クロワッサンやらシナモンロールやらを躊躇なくコーヒーと一緒にオーダーしまくる地元民の購買行動を見ていると、そう感じずにはいられない。

そのように考えると、私が「アメリカの物価が高い!」と感じるのは、日本やヨーロッパの物価を知っており、比較をしてしまうこと。それから、私がアメリカでの収入がないこと。この2つが原因なのだろう。
ただ現実問題として、今の私は上記のような状態にある。
つまり、「アメリカの物価は超高い!カフェでほっと一息つくことさえ、躊躇してしまう」と感じる状況であり、そのような私の経済感覚もまた、アメリカでの暮らしを「軟禁生活」と感じ、自由に行動できないと感じる理由なのかもしれない。

実際、近所の高級住宅街を散歩していると思うことがある。
「お金があれば、軟禁生活のストレスも、和らぐのかもしれない」
と。
ちなみに、日本にも高級住宅街は存在するが、アメリカの高級住宅街はスケールがちがう。
近所の高級住宅街は、ビバリーヒルズなどに比べたら小さな家だが、それでも、背丈以上の立派な鉄の門扉に、遥か遠くに見えるプライベートホテルのような建物。庭にはテニスコート2面に、プールの1つ2つは当たり前、という豪邸が建ち並んでいる。
それらを見ていると、正直、「お金さえあればいい暮らしができる」「お金をたくさん稼ぎたい」と、とにかくお金、お金!お金が欲しい!という気持ちになってくる。
と同時に、えも言われぬ哀しさも感じる。
「行き過ぎた資本主義、お金と仕事中心の生活から抜け出したくて東京を離れたのに。生きること、生活を楽しむこと、ライフ・ワークバランスの良い暮らしをしたくて、意を決して単身ヨーロッパに移住したのに。私はここで何をやっているんだろう?」
と。

私は弱い。
私がもっと強い人間だったら、きっとどんな環境にあっても、自分の信念を貫き、感情を乱されず、振り回されず、淡々と、”今、ここ”にある幸せに目を向け、自分の内側と繋がり、いつでも、誰といても、どんな状況にあっても、自分らしく、幸せで在れるのだろう。
しかし、今の私には、まだそれができない。
そんな自分が、とても悲しく、情けない。
自分が弱いゆえに、今の状況を「軟禁生活」と感じ、アメリカについて不平不満を感じ、文句をたれ、パートナーに対して不機嫌な態度をとってしまっている。
そんな自分は大嫌いだ。

私は、自分に怒っているのかもしれない。
アメリカやパートナーに不満を感じ、時々、静かな怒りさえ感じているけれど、本当は、私が怒っているのは、自分自身に対してなのかもしれない。

弱い自分。
無力な自分。
情けない自分。
不甲斐ない自分。
ネガティブな自分。
文句を垂れる自分。
幸せを自分の内側ではなく、外側に求めている自分。
状況に文句ばかり言って、自分がすべきことから逃げている自分。

そんな自分に一番、私はイライラしているのかもしれない。
私を小さな枠に閉じ込め、軟禁しているのは、アメリカでも、パートナーでもなく、私自身なのかもしれない。

この窮屈な檻から自由になるには、私がわたしと向き合うしかない気がする。
私が変わるしかない気がする。

ここで言う「変わる」というのは、昆虫などの「変態」に近い。
誰か違う人格に変わるわけでも、弱さを克服して強くなることでもなく、それとは逆に、私がわたしの中に入っていくこと。
私がわたしの弱さを認めること。
ダメな自分に寄り添ってあげること。
脆い自分を、それも大切な自分だと、かけがえのない自分だと、心から愛おしく抱きしめてあげること。
そういう、変化。変態。
外側に向かう変化ではなく、男性的なパワーな強さではなく、深く自分の内側に入り込み、すべてを慈しんで抱きしめる、母性的な優しいつよさ。
いまの私に必要なことは、そういうことな気がする。

そう思うと、私がいま、なぜか好きではないアメリカに住むことになり、しかも軟禁状態になっているのは、大リーガー養成ギブスのように、私に必要な”つよさ”を身につけるためなのかもしれない。
自分の内側からの、本当の自由と幸せを手に入れるために。

幸か不幸か、まだ当面この国で働くことができない「軟禁生活」なのだから、この時間を天からのギフトととらえ、明日から改めて、徹底的に自分自身と向き合おう。


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