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「外国語を学ぶために恋人をつくるな、言語を恋人にしろ」

「外国語を学ぶために恋人をつくるな、言語を恋人にしろ」

これはいつか私がTwitterで見た言葉だ。

外国語というのは、よく恋人をつくるといいと言われている。

ロシア語がやりたいなら、ロシア人の恋人を作るといい。逆に、ロシア人の恋人ができれば、ロシア語ができるようになる。

ただ、それはひとつの大きな欠陥をもたらす。

日本人なら、日本語を教えられるのか?

日本人なら、日本語ができる。

それは海外暮らしが長く、かつ現地校に行っていた帰国子女などの一部の例外を除き、おおむねそうかもしれない。

じゃあ、日本語が教えられるだろうか?

特別な訓練を受けたひと、つまり日本語教師でないかぎり、それはかなり厳しい。

外国人に「は」と「が」の違いをうまく説明できる?

例題を出そう。

「私が田中です」「私は田中です」

この違いを説明できるひとはどれだけいるだろうか。

なお、私なら前者は「田中さんはどこにいますか」後者なら「あなたの名前はなんですか」への回答と答えるだろうが、おそらく日本語教師としては10点貰えたらいいくらいだろう。

日本人ということと、日本語を教えないといけないということは同義ではない

そして、さらに問題が生じる。

もしあなたが日本人で、かつ日本語を教えられるだけの能力があるとしよう。

じゃあ、日本語を目の前の外国人に教えなければいけないのだろうか?

答えは「そうとも限らない」だ。

恋人として語学を教えるということは、大概無料であるという大前提がある。

日本語教師として働けば時給1000円(日本の場合。最低賃金だとしても)が貰えるのに、それを貰わずに、無償労働するというのはなんらかの動機がないとできない。

よくあるのは、相手がロシア人だからロシア語を教えてもらう、あるいは相手が経済的に上なので自分は無償の通訳でいい、などだ。

ただ、教えないといけないという義務はない。やりたいならすればいいが、やりたくないひとにまで「彼氏なんでしょ、手伝ってあげて」なんて私は言えない。

恋人は最良の語学学習相手ではないことも多い

恋人というのは、たとえば価値観や将来への思いが合っているから、できるものだと思う。

たとえば、私は音楽が好き、彼氏も音楽が好き、だから仲良くなった、そして恋愛に発展した、といったものだ。

語学学習は、プロに頼るに限る。

独学するのもいい。

恋人が頼れるなら、もちろん頼ったらいい。

ただ、私が見てきたケースでは、たいがい共倒れになって、中は深まる者の、一定のレベルで頭打ちに合う。

また、たとえば私がロシア語がほとんどできず、相手が日本語流暢だった場合、会話が日本語になって語学学習どころではなくなることだってある。

語学レベルと熱意が同等な相手を見つけるのは、割と難しい。それが恋人であるならなおさらだ。

結果、言語を恋人にしたほうが早い

先に書いたいろいろな苦労を考えると、結局その言語というものを好きになってしまったほうが上達は早い。

ロシア語を学びたいなら、ロシア語を好きになろう。

その延長線上で、素敵なロシア人の恋人ができるかもしれないし、できないかもしれないし、たとえば日本人を好きになるかもしれない。

それでいい。

いい恋人がいたら、無理して別れたり距離を置いたりすることはない。そのままずっと仲良くいてほしい。

ただ、これから新しく言語を学ぼうとするなら、その言語を好きになる努力をしよう。

勉強はなんでもそうだが、やっていればだんだん楽しくなってくる。

そうしたら、自然とその言語自体を好きになることも十分ありうる。

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