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シャルル=フレデリック・ウォルト:ファッションの制作と経営の統合ビジネス

こんにちは♪
レコールドムジークの講師です(*^^)☕️🍪

今回の記事はファッションで、
文庫クセジュの『オートクチュール』を読み、気になったことを深掘りしていく内容でございます。



フォーカスする人物は、シャルル=フレデリック・ウォルトです。

ウォルトさんがお生まれになって活躍するのは19世紀ですが、まずこの19世紀というのは、パリのモードの世界が急激な発展を遂げた時代であります。

それにはファッションの民主化、プレタポルテ(既製服)の流行など、様々な事情が起因しているようなのですが、モードの世界の発展に貢献した人物の一人として、シャルル=フレデリック・ウォルトさんという人物が挙げられます。
このウォルトさん、現代にも続くオートクチュールのメゾンの文化を確立した人物なのではないか、と言われている人です。

となると、オートクチュール確立の前後で様々な比較をしたいため、本記事ではまずオートクチュール確立前後の歴史を探ります。
その後、ウォルトさんの生涯をたどりつつ、オートクチュールの世界がどのように出来上がっていくのかを見ていきましょう。


■歴史

オートクチュールの確立以前の時代は、仕立服の業界に限らず、職業がさほど自由ではなかったという背景があるようです。これは何故なのでしょうか。少しずつフランスの歴史を深堀りしてみます。

[フランス革命以前]
職業に就くためには、特定の職人や商人の組織である「ギルド:guild」の一員である必要がありました。
ギルドは、技術の継承業種を厳密に管理する団体です。時期は異なるかもしれませんがドイツや日本にもそのような制度がありましたよね。
また同時に、世襲制を取っている職業が多く、お仕事を自由に選ぶことすら難しかった、という事情もあります。

この頃の服飾デザイナーさんは、王室または貴族のお抱えの職人として勤めていた様子。
但し仕上げに関しては、デザイナーとは別のお針子さんに仕上げてもらうという流れで制作されました。
布を選ぶこと、デザインを考案すること、仕上げることは分かれていて、一人でやらせてもらえなかったのですね。
そもそも当時のファッション業界の在り方として、流行を生み出すという概念が無く、ファッションの最大のステイタスはテキスタイル(生地)であり、デザイン面に関してはそれほど重要視されていなかったと言えます。

[フランス革命後(1789年~)]
ギルド制度は廃止されましたが、すぐに職業の自由が確立されたわけではありません。
ナポレオン法典(1804年)の中で、職業における自由や個人の権利を一部認めていますが、実態としては多くの規制が残ったままでした。
以前として国家や地方自治体による規制が存在し、特定の職業に就くためには資格や許可が必要な場合もありました。

[1850年代以降]
フランスでは産業革命が進み、経済が急速に拡大しました。
商業や工業の分野で新しい職業が生まれ、技術革新によって様々な職業が必要とされるようになり、人々が従事できるお仕事の範囲も広がっていきました。
それに伴い、ギルドのような職業を制限する組織は消滅し、職業の選択においても自由化が進みます。
労働組合の発展や、労働者の権利拡大も、職業の自由が広がる要因の一つです。
今回取り上げたウォルトさんは、フランス革命後から1850年代にかけての間にお生まれになっています。
歴史を少し把握できたところで、ウォルトさん自身の活躍も見ていきましょう。


■ウォルトさん (1826-1895)


ちょっと林家木久扇さんっぽさがあるような🍵( ・ω・)o
1826年、イギリス・リンカシャーのバーン生まれ。
英語読みだとお名前の発音がちょっと変わりますね。
お父様は弁護士だったようなのですが、放蕩気味なのと浪費癖が酷く、蒸発してしまします。^^;

1853年、ウォルトが11-12歳の頃には、貧困のために働かなければならなくなり、出版社で働き始めます。
のちにロンドンへ行き、Swan & Edgarというデパート(現在はもう閉まっているようなのですが、同じような名前の時計やジュエリーのブランドは存在しています)で見習いとして勤めた後、Lewis & Allenbyという、王室御用達の著名なテキスタイル(生地)メーカーで雇われるようになります。

雇われるようになった背景まではわからないのですが、彼は幼少期、ナショナルギャラリーに頻繁に訪れて、絵画の中に描かれている服飾を熱心に眺めていたということもあり、百貨店や生地メーカーで働くのは彼の意向に沿っていると言えます。

↑ お詳しい方が教えてくれています。

1845年、20歳で渡仏し、リシュリュー通りの有名な高級織物商「ガシュラン」に就職します。ロンドンの百貨店や生地メーカーで見習いをした後、パリへ行ってガジュラン店の販売員になった、ということですね。
ここで妻になるMarie Vernetと出会います。
妻はモデルとしても活躍し、彼女がモデル第1号であるとも言われています。

初めてモデルを起用したのもウォルト。
モデルさんが着ると、ドレスの見え方も全然違いますものね。


ウォルトはまもなく婦人向けのショールやドレスを制作し始めます。彼が生まれたイギリスでは紳士服が盛んに制作されていましたが、婦人服においては遅れをとっていたということもあり、彼の好奇心は婦人服に向かったのではないかと思われます。
彼の技術が認められ、お店の外に婦人服仕立て部門のアトリエを開くことを許可されます。
クチュリエとしての修行を積んでいる間、彼の作品がロンドンやパリで開かれた万博で評価されたという機運もあって、
1858年に独立します。スウェーデン人投資家ボベルグの資金援助や、織物業者から刺繍業者の協力よって、パリのリュ・ド・ラ・ペ通りに自身のメゾンを開きました。2 年後の 1860 年にはビジネスが軌道に乗ったということ。

衣類に初めてラベルを付けたのもウォルト


独立後メッテルニヒ公妃や、ナポレオン3世の皇后ウジェニーのドレスを手掛けたことをきっかけに皇室の衣装を手がけていくことになり、クリノリンを発明します。

出典:アンティークジュエリー専門店エタラージュ
こちらはフランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルターが1865年に描いたエリザベート皇后だそうです。ウォルトがデザインした、シルクのチュールに金の刺繍の、クリノリン・スタイルのドレス。とってもきれいですね。
クリノリンドレスの下はこんな感じだそうです。Wikipediaより

クリノリンが考案された背景には、ウジェニー皇后・ヴィクトリア女王のマタニティラインを隠すため、という事情があったとのこと。


また年代は諸説あるようなのですが、プリンセス・カットのドレスを考案。
これは現代のウエディングドレスにも使われています。

出典:KCI Digital Archives

次いで下からペチコートをのぞかせるチュニック・モードを考案します。
チュニックは本来上着を指し、スカート・パンツ・レギンスなどボトムスの上から羽織るものです。

あとは彼が考案したわけではありませんが、バッスルスタイルを洗練させていったことでしょうか。

出典:KCI Digital Archives

この形を見ると、ディズニーアニメ映画の『シンデレラ』に出てくる意地悪な姉たちのドレスを思い出します。

バッスルのような、クリノリンのような。

このデザイン、ラクダみたいだなあと思っていました。
シャルル・ペローのシンデレラは、17世紀に作られた話ですが、ディズニーがそれを参考にしたということだったら、ドレスに関してはあまり17世紀という時代背景を意識せず、キャラクターに合ったデザインで描いた可能性があります。というのも、17世紀にはまだバッスルスタイルのドレスが考案されていないためです。ディズニーは意地悪な姉たちの欲深い性格を表すために、随分誇張されたバッスルスタイルのドレスを着せているようにも見えます。
※別にバッスルスタイルのドレスが図々しく見えるというわけではありません。

だいぶ脱線しましたが、メディアにオートクチュールデザイナーを指す「クチュリエ couturier」という言葉が登場したのは1870年前後。デザイナーが世界に認められ始めた頃、ということでしょうか。

1870年の普仏戦争&帝政崩壊後、これまでの皇室中心のファッションスタイルは崩れます。ウォルトは戦争中はメゾンを閉じて、喪服やスポーツ服、マタニティー服を手掛けるなど、時代に合わせてスキマ産業に取り組むようになります。
顧客も変化していき、新興のブルジョワジー(裕福層)、アメリカの富豪などが付くようになります。
ウォルトのフランス語が大して上達しなかったからアメリカの顧客とお話しする方が好きだった、ということもあるようなのですが、ビジネスの販路としてアメリカに着目するあたり、さすがの商才と言えます。

彼は晩年体調を崩しがちで、のちに肺炎で亡くなってしまったようなのですが、息子、孫、曾孫がメゾンを引き継ぎ、1956年まで続きます。
ウォルトの派生製品は、あまりメジャーではないものの、1924年以降に香水を販売し始めています。メゾンを閉じた後になって生まれた香水もあり、今でも通販などで購入できるものがあります。

■彼のお仕事スタイルと業績まとめ

ウォルトは、ドレスのデザイン考案、サンプルの作成を自ら手掛け、顧客をお店に呼び、それらを見せて注文をとるという方法をとりました。
そのため、ファッション業界では新たなトレンドとして、ウォルトなど優れたクチュリエの服を着ることが富裕層にとってのステイタスとなり、ファッションデザイナーという新しい職業が生まれ、着る側が主権を握っていたデザインに関しても、制作する側であるデザイナーが主権を提供するようになりました。

加えてアトリエやモデルの管理、年2回にわたるコレクション発表など、経営と創作を統合した組織を生み出し、今日のモード界の基礎を築きます。


ということは今までの内容をまとめると、彼は初めてモデルを起用し、コレクション発表のためのショーを催し、自身が手掛けたドレスにラベルを付けて、ファッションの主導権を顧客側からデザイナー側へ移してデザイナーの地位を高め、ビジネスの販路としてイギリスやアメリカの既製服企業を見出し、現代に通ずるオートクチュールの文化を築いた人、ということになります。凄すぎませんか。

彼は単なるファッションデザイナーではなく、ビジネスの才能も兼ね備えたイノベーターだということを学びました。
また彼が設立したメゾンは、ファッションの工房にとどまらず、組織的、且つ計画的にファッションを提供する、現代のオートクチュールの基盤となるものでした。こうした功績を考えると、ウォルトが「オートクチュールの父」と呼ばれる理由がよく分かります。予想以上に父です^^;

職業の自由化という追い風もあってのことですが、時代によく適応しながら業界のシステムを確立するという大きな業績を残した彼の行動力を少しは見習って、私も自分のことを頑張りたいと思います。
以上です。

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♪♡デザイナーさんに素敵なチラシを作成していただきました♡♪

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