矢羽野恭一(Yauno,Kyoichi)
十数年前のことになる。師事していた方から「好きにしてよい」と、かなりの分量の原稿を託された。早速この随想を一冊の本にするべく、編集し、企画書をつくり、当時関わりがあった出版社数社に持ち込んだ。 ところが、滋味深いが目新しさに欠けるとの見立てで、出版にはこぎつけなかった。 その翌年、翁は八十四歳で亡くなった。遺稿は日の目を見ることなく、私の家の書棚の引き出しにしまい込まれたままになった。 眠らせておくのは、託された者として恥ずべきことと思い至り、このウェブサイトに少しずつ公開していくことにした次第である。
「悔しいよね」 ちらっと悲しそうな表情を浮かべて、そのタレントは呟くように漏らした。 ――心からそう思って言ってるんだろうか。演技じゃないんだろうか。 そ…
「彼女が言ったんだよ、あたしはあなたのご先祖さまの生まれ変わりだって」 「マジかよ。冗談じゃなくって?」 「ああ」 「初対面なのに?」 「ああ。そう言ったんだよ」 …
「有無、有無、有無」 「無有、無有、無有」 呟き続けていると、唸り音のように聴こえる。 「ウュン、ウュン、ウュン」 「ウュン、ウュン、ウュン」 共振し、…
一語一語に余韻が残る。 一語一語に色や薫りが宿る。 研ぎ澄まされた文には意を超えるものがある。 滋味深く、奥深く、広がりがある。 異なる資質や…
都会のど真ん中に取り残されたように自然池を中心とした公園がある。常緑樹や落葉樹に囲まれ、憩う人々に豊かな四季を感じさせてくれている。 池の周りのところどこ…
梅雨に入り、誰もが長雨と蒸し暑さに辟易し始めている頃、思わぬ季節外れの寒さが到来した。遥か北方海上で発生する高気圧がもたらす梅雨冷え、梅雨寒現象。 気象現象…
大愚(たいぐ) 生涯懶立身 生涯立身に懶(ものう)く 騰々任天真 騰々(とうとう)と天真に任す 嚢中三升米 嚢中(のうちゅう)に三升の米 炉辺一束薪 炉辺に一束の薪 誰問迷…
「あの時死んだのかもしれない」 健次は茜色に染まりいく空を見やりながら深い吐息を洩らした。 「鍛錬しかないんだ。でなきゃあ、絶対強くなれねぇんだよ」 同じ黒の…
立ち留まってはいけない 歩むのを止めてはいけない なにも求めず なにも怖れず 倦まず、弛まず、怠らず ただひたすらに ただただひたむきに 精進 持…
欲望は拡大、膨張し続ける。 欲望に限界、終焉はない。 どうしても手に入れたいのか。 どうしてもそうあらねばならないのか。 満たされないのは不幸なこ…
――音速を超えるとどうなるのだろう。どういう感覚なんだろう。 今朝目覚めと同時に、ふっとこんな疑問が浮かんできた。 空を飛んでいる夢でも見ていたのだろう…
ミュウがまた今夜も私につき合ってくれている。 ――おいおい、そんな狭いところでお尻を舐めないでおくれよ 私の心の声が聴こえたのか、不意にこちらへ顔を向…
祈り、願いは、明日のためではない。 明後日でも、明々後日でも、 そのずっと先の日のためでもない。 ただ今、この瞬間のためにこそ生まれいずるものなのだ。 力強い励ま…
「今朝もまた同じお花畑の夢を見たよ」 目覚めて間もなく武瑠が意味深げに呟く。 「へぇー、そうなの?」 智香はあまり関心がないという風。伸びとあくびをして武瑠の…
ただいま、お亡くなりになりました。 医者が聴診器を外して告げた。 なぜ君はひとりで逝ってしまったんだ……。 夫は泣き崩れた。そして妻の躰を強く抱きしめた…
「あの痩せぎすのお年寄りのことかな?」 店主婦人はテーブルを拭く手を止めて、小奇麗に束ねた髪にちょっと手をやって思い返すような目つきで答えてくれた。 「あなたが…
2024年7月20日 10:53
「悔しいよね」 ちらっと悲しそうな表情を浮かべて、そのタレントは呟くように漏らした。 ――心からそう思って言ってるんだろうか。演技じゃないんだろうか。 それを観ていた私は、一瞬疑った。あからさまでもなく、過剰さもない。さらっとクールに言ってのけた。「悔しいすよね」 呟かれたもう一人の後輩は調子を合わせるように応じていた。悔しくともなんともないのが表情にも口ぶりにも透けて見えた。彼にと
2024年7月1日 10:58
「彼女が言ったんだよ、あたしはあなたのご先祖さまの生まれ変わりだって」「マジかよ。冗談じゃなくって?」「ああ」「初対面なのに?」「ああ。そう言ったんだよ」「マジかよ」 チェ・ゲバラの顔がプリントされた濃い萌黄色のTシャツを着たやさぐれ男が、ウォッカの入ったショットグラスに手を伸ばす。「ショートの、セミロングの、いやロングの、うーん、ストレートだったか」「おい、おい。大丈夫か? そん
2024年6月22日 10:06
「有無、有無、有無」 「無有、無有、無有」 呟き続けていると、唸り音のように聴こえる。 「ウュン、ウュン、ウュン」 「ウュン、ウュン、ウュン」 共振し、膨張し、拡大し始める。 無窮の天空を吹き渡る悠久の風のように、 大いなるものと共鳴するかのように。 覚醒の兆しに心躍らせ、 香皿にお香を点て、坐禅を組む。 共振、共鳴……思念が巡る。 有は無であり、無もまた有であり無で
2024年6月20日 10:02
一語一語に余韻が残る。 一語一語に色や薫りが宿る。 研ぎ澄まされた文には意を超えるものがある。 滋味深く、奥深く、広がりがある。 異なる資質や感性に補われ、完成される。 余計なものを添えてはいけない。 邪魔をしてはいけない。 一語一語に余韻が残る。 一語一語に色や薫りが宿る。 沈香の言の葉を紡ぎたい。 言霊を遺したい。
2024年6月9日 09:42
都会のど真ん中に取り残されたように自然池を中心とした公園がある。常緑樹や落葉樹に囲まれ、憩う人々に豊かな四季を感じさせてくれている。 池の周りのところどころに古木の長椅子が置かれていた。いまそのひとつに一組の夫婦が夕陽を受けて坐っている。「出会ったばかりの頃もよくここに来てたわよね」「そうだったね」 誠は見遣るような眼を朱に染まる落葉樹の林に向けている。「ここの販売機にだけまだ瓶の
2024年5月30日 07:08
梅雨に入り、誰もが長雨と蒸し暑さに辟易し始めている頃、思わぬ季節外れの寒さが到来した。遥か北方海上で発生する高気圧がもたらす梅雨冷え、梅雨寒現象。 気象現象など普段気にも留めない人でもさすがにこの気温差には戸惑っている風である。 この日病院の受付前ロビーに集った人びとも例外ではなかった。半袖の人もいれば、長袖の人も。なかにはカーディガンを羽織っている人も混じっている。 この地域最大の設備
2024年5月17日 07:13
大愚(たいぐ)生涯懶立身 生涯立身に懶(ものう)く騰々任天真 騰々(とうとう)と天真に任す嚢中三升米 嚢中(のうちゅう)に三升の米炉辺一束薪 炉辺に一束の薪誰問迷悟跡 誰か問わん迷悟(めいご)の跡何知名利塵 何んぞ知らん名利の塵夜雨草庵裡 夜雨の草庵(そうあん)裡に双脚等閑伸 双脚を等閑(とうかん)に伸ばす (意訳)生涯、立身出世にうとく自然のままに任せてきた。 いま手
2024年5月7日 09:15
「あの時死んだのかもしれない」 健次は茜色に染まりいく空を見やりながら深い吐息を洩らした。「鍛錬しかないんだ。でなきゃあ、絶対強くなれねぇんだよ」 同じ黒のウィンドブレーカー姿の二人連れのひとりが、並走するもうひとりに諭すように告げた。「なにニャついてんだよ」「ニャついてなんかいないすよ」 語気強く言われた男は、無防備になにも考えずに半笑いで返す。「ニャつくんじゃねぇ」 男は立ち尽
2024年4月30日 09:59
立ち留まってはいけない 歩むのを止めてはいけない なにも求めず なにも怖れず 倦まず、弛まず、怠らず ただひたすらに ただただひたむきに 精進 持戒 忍辱 智慧 布施 禅定①精進[しょうじん](励み)②持戒[じかい](自戒)③忍辱[にんにく](忍耐)④智慧「ちえ」(思索)⑤布施[ふせ](積善)⑥禅定[ぜんじょう](瞑想)
2024年4月27日 08:10
欲望は拡大、膨張し続ける。 欲望に限界、終焉はない。 どうしても手に入れたいのか。 どうしてもそうあらねばならないのか。 満たされないのは不幸なことなのか。 忌み嫌われなければならないことなのか。 「もっと、もっと」 狂騒、狂乱の悲鳴が聴こえる。 「もっと、もっと、もっと」 餓鬼の雄叫びのよう。 満たされないことがそんなに怖ろしいか。 堪えがたいか。
2024年4月22日 13:17
――音速を超えるとどうなるのだろう。どういう感覚なんだろう。 今朝目覚めと同時に、ふっとこんな疑問が浮かんできた。 空を飛んでいる夢でも見ていたのだろうか。それとも昨夜遅くまで観ていたトム・クルーズ主演の映画のせいなのだろうか。 なぜだか分からないが、なんの前触れもなく音速を超える瞬間の感覚が知りたいと心底思った。 実は、これが初めてのことではなかった。 バリバリという耳を劈くよ
2024年4月20日 09:27
ミュウがまた今夜も私につき合ってくれている。 ――おいおい、そんな狭いところでお尻を舐めないでおくれよ 私の心の声が聴こえたのか、不意にこちらへ顔を向けた。 目が合う。なんか文句があるのか、というきつい眼光をしている。 ――おっと。文句はありませんが、ただ…… また届いたのか、捨て置くように何事もなく先ほどと同じ行為に耽る。 よくもそんなに足をぴんと上げていられるものだと感心
2024年4月20日 06:53
祈り、願いは、明日のためではない。明後日でも、明々後日でも、そのずっと先の日のためでもない。ただ今、この瞬間のためにこそ生まれいずるものなのだ。力強い励ましと勇気と、そして限りない希望を与えてくれる。
2024年4月16日 09:16
「今朝もまた同じお花畑の夢を見たよ」 目覚めて間もなく武瑠が意味深げに呟く。「へぇー、そうなの?」 智香はあまり関心がないという風。伸びとあくびをして武瑠の方へ体を向けた。「実はね、二日連続なんだよ、昨日に続いて」「………………」「夢の中だけじゃなく目覚めてからも、ずっと満たされた感覚が後引いてて。……もしかするとこれが俺の理想郷ってものなのかもしれない」「死ぬんじゃね」 うまいツ
2024年4月10日 08:48
ただいま、お亡くなりになりました。 医者が聴診器を外して告げた。 なぜ君はひとりで逝ってしまったんだ……。 夫は泣き崩れた。そして妻の躰を強く抱きしめた。 医者は黙礼すると病室を出ていった。看護師は残り、見守ってくれていた。 泣き止んでも離そうとはせず、抱いたまま腕をゆっくり擦っている。 深い薫りがする。お香が焚かれたのだ。 まだ温もりの残る躰からいま魂が離れたのだと告げ
2024年4月7日 14:56
「あの痩せぎすのお年寄りのことかな?」 店主婦人はテーブルを拭く手を止めて、小奇麗に束ねた髪にちょっと手をやって思い返すような目つきで答えてくれた。「あなたがいま坐ってる所に坐って、じっとあたしのこと見てるのよ。最初はその視線が邪魔臭くて、邪魔臭くて。だってそう思うでしょ、誰だって。知らない年寄りがずっと目で追ってくんだから、無遠慮に」 ――先生がやりそうなことだ。 その場の様子が目に見え