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梅雨寒の病院で


 梅雨に入り、誰もが長雨と蒸し暑さに辟易し始めている頃、思わぬ季節外れの寒さが到来した。遥か北方海上で発生する高気圧がもたらす梅雨冷え、梅雨寒現象。
 気象現象など普段気にも留めない人でもさすがにこの気温差には戸惑っている風である。 
 この日病院の受付前ロビーに集った人びとも例外ではなかった。半袖の人もいれば、長袖の人も。なかにはカーディガンを羽織っている人も混じっている。
 この地域最大の設備が整った総合病院だけに、朝早くから多くの、それぞれに交わらない、結びつかない思いと事情を抱えた人が集まっている。
 受付前ロビーは休み明けで、ひときわ混みあっていた。
 途方に暮れて立ち尽くしている痩身の老人が目に入る。
「どうされました? なにかお困りですか?」
 案内係の病院関係の男性に声を掛けられる。
「胸がどきどきして、眩暈がするとです。診てもらおうと思って」
「受診ですね。ではこちらの受付で」
 ぼてぼてした足どりで、頼りなげな感じ。
「初診の方です」
 カウター越しに受付担当者の女性に声掛ける。
「どうされましたか?」
「胸がどきどきして、眩暈が」
「初診ですね。紹介状をお持ちですか?」
「いいや、なんも持っとらん」
「紹介状をお持ちでないと追加料金がかかりますが、よろしいですか?」
「よろしいもなんも」
「分かりました。そうしましたら、こちらの用紙にご記入をお願いします」
「具合が悪かとですよ。こんなもん書いてる場合じゃなかかと」
「申し訳ございません。お書きになったらすぐに受付いたしますので」
 老人は訳が分からない様子で、その場でしばらく渡された用紙に目を落としている。
「あちらで」
 受付カウンターから追い払われる。
「何べん言ったらいいんですか!」
 隣のカウンターから穏やかでない声がする。
「またですか? なんなんですか、さっきと同じことを。あれからなんの進展もなかったということですか?」
 小太りの中年のご婦人はかなりご立腹の様子。顔をやや赤らめて抗議している。
「いいえ、ちゃんと手続きを進めております。ご確認の意味もありまして」
「確認? 確認する必要があるんですか、今更そんなことを」
 ――なにしてんだよ。早くしてくれよ。
 その後ろで並んでいる人がイライラを募らせている。
 ――なにやってんのよ。なんでこんなに時間がかかるわけ。
 ――いつまで待たせる気なんだ、日が暮れちまうぜ。
 順番待ちをしている人の中には諦めて立ち去ろうとする人もいる。
 ――この調子だと……とても約束の時間に間に合いそうにないな。出直すか。我慢できないわけじゃないんだから。
 スーツ姿の会社員風の男がすっと列から離れ、出口の方へ足を向ける。
「入院される時にお渡しした預り金の領収書をお持ちでないんですか?」
 一番端の入退院専用カウンターの前で、憔悴しきった表情の白髪の老婦人がおろおろしている。
「どっかに入っているはずなんだけど」
 手提げカバンの中を弄りながら消え入りそうな声で呟く。
「領収書がなければご精算できません」
「できませんて言われても」
 手の動きがぎこちない……。
「お迎えの方は?」
「いえ、誰も」
「………………」
 領収書が出てきそうな気配はない。

 エスカレーターに乗って二階フロアーへ。
 各科診察室の前に浮島のようにそれぞれの受付カウンターが設けられている。それを囲むように設置されたソファーには診療待ちの人が陣取っている。
 ほぼ満席状態。一階受付前ロビー同様、高齢者が多い。健康な人間でも思わずため息を吐きたくなるようなどんよりとした空気が漂っている。一様に曇った表情をして、あらぬ方へ眼を泳がせている。
「そちらで血圧を」
「自分で?」
「はい、ご自分で」
 消化器科の受付カウンター。杖を持った老婦人が慣れぬ血圧計に戸惑っている。
「初めてですか?」
「はい」
「そちらの画面に受付用紙のバーコードをかざしてもらって、いえそこじゃなくて、はいはい、そこで」
 対応慣れした看護師がてきぱきと指図する。
 ――年寄りひとりじゃ、大変だよな。
 大腸内視鏡検査待ちの薄毛の中年男性が同情の眼差しを向けている。自分の母親のことを思い浮かべているのか。
「診察の後ですか?」
「はい」
 隣のブロックの泌尿器科カウンターでは、肥満気味の男性が膀胱内視鏡検査の説明を受けている。
「検査はどこで?」
「診察室奥で受けていただきます」
「診察の後すぐに?」
「はい」
「………………」
「お名前を呼ばれるまで診察室前でお待ちください」
 診察室前のソファーはすでにいっぱいで、彼は仕方なくフロアー通路で待つことにしたようだ。
「前に坐っていたお爺ちゃんのこと気づいてた?」
「ん? お爺ちゃん?」
 内分泌科前のソファーで診察待ちの若い夫婦が声を殺して会話している。
「看護師さんに血圧測ってもらってたでしょ」
「ああ、あのお爺ちゃんね」
「血圧高いですね、気分は悪くないですか、ちょっと横になってましょうかって気遣ってたでしょ」
「ああ、聴こえてたよ。連れてったよね」
「ふっふふ」
「なに?」
「あたしね、見ちゃったのよ」
「なにを?」
「あのお爺ちゃん、エッチな雑誌見てたのよ、血圧測られる前に」
「ええっ?」
「ふっふふふ」
「それでか?」 
「そうだと思う。看護師さんは気づいてなかったみたいだけど」
 笑いを抑えきれず口に手を当てて前倒しになった。その肩が小刻みに震えている。 
「良くないよ、面白がっちゃ」
「だって……」
 可笑しさを堪えきれず腰を捩らせる。
「ここ病院だよ」
 さらに背中が揺れる。
「これから診察受けるんだよ」
「かもしれないけど……」
 若夫婦の会話に興味をそそられ、その老人が連れて行かれた診察室へ。
「頭とか痛くないですか?」
「なにも」
「そうですか」
「悪いんですか?」
「良くはないですね、200超えてたら。もう一度測ってみますか?」
 若い医師は老人の腕に巻いたカフに空気を送りながら
「血圧が高いといいことはありません。脳の細い血管が破れたりでもしたら大ごとです」
 父親ほどの年恰好の相手に諭すように話している。
「先生、先生さ、俺は治りますか?」
「血圧が上がらないようにしていけば……」
「治りますか?」
「投薬と生活改善で、徐々に」
「治るんですね」
「治るという表現が正しいのかどうかですが、急にどうかなるというリスクは少なくなります」
 ――この患者と私がいま置かれている状況はまるで違う。深刻なのは間違いなく私の方だ。
「……ありがとうございました」
 老人は明るい顔をして診察室を出て行った。看護師がその後ろから事細かになにやら指示している。
 ――いま外来の診察なんかしていていいんだろうか?
 図らずも深刻な状況に置かれている、誠実そうな若い医師に出くわしてしまう。
 彼はその歳でステージ4の末期膵臓がんを抱えてしまっているらしい。
 ――なんで気がつかなかったんだろう? 腰や背中は痛かったが、疲労からだとばかり思っていた。
 そんなはずはないと思おうとしても、示す数値と画像は容赦なかった。明らかに施しようのないがん細胞の増殖具合をさらけ出していた。
 ――なんで自分が……。どうしていきなり末期なんだ。
 まだ自分の事として受け入れられていないようだ。
 沈黙の臓器がん。健康診断項目もない。見つかった時にはすでに手遅れ状態というのは珍しくない。
 この病院に転勤してきたばかりの若い医師。老いた母親との二人暮らし。趣味は絵画。見ることも描くことも好きだった。絵に触れている時はなにものからも解き放たれ、心が鎮まり、至福を感じる。命の躍動が感じられる。
 ――余命半年。早すぎはしないか。何も達成していないし、何の結果も残せていないじゃないか。この歳でもう自分の人生は、一生は終わりなのか。
 そう内心呟いているが、未練や後悔などの感情はいまのところそれほど強く現れていない。恐怖もない。ただぽかんと宙に浮いているような感じがしているだけだ。
 ――母にはなんて伝えればいいんだろう。先立つ不孝を許してくれるだろうか。終末を迎える息子のこれからの成り行きを、取り乱すことなく冷静に受け止め、見届けてくれるだろうか。変わらぬ優しいまなざしで見送っていてくれるだろうか。
「先生。次の患者さんをお呼びしてもよろしいでしょうか?」
 若い看護師の溌溂とした声と表情に彼は微かに頷いた。
 ――今は外来の患者さんに神経を集中しよう。これからの身の振り方はおいおい冷静にじっくり考えていけばいい。とは言っても、もうそんなに時間は残されていないのかもしれないだろうけど。

「ありきたりな励ましや慰めの言葉を期待してるんだったら、お門違いだよ」
 ――あの母のひと言は衝撃的だった。
 梅雨雲が覆いかぶさる薄暗い屋上庭園で、若い女性がひとりフェンスの網目に手を引っ掛けたまま立ち尽くしている。他に人の姿はない。車の走行音がかすかに聴こえてくるだけだ。視線の遥か先に防音フェンスに覆われた都市高速道の高架が見える。
「励ましや慰め……お門違い」
 家を飛び出してからほとんど交流を絶っていた母親に、最後の別れのつもりで会いに行った時に言われた言葉が深く突き刺さっている。
 病院のパジャマだけで寒くはないんだろうか。思い出したかのように触れてくる微風にレイヤーカットの前髪が震えている。後悔しているはずだ。ニットのカーディガンを羽織っている自分を想像しているに違いない。
 ――寒い……
 やはりそうか。掴んでいた手を離し、そばに置かれている白の長ベンチに移動した。腰を下ろし前かがみになる。体の熱を奪われなくさせるためなのか、それとも奪われた熱を取り戻そうとしているのか。その姿勢のまま動かない。
 いまにも大粒の雨が落ちてきそうな濃い灰色の雨雲が天空を覆っている。暖かな日差しは望むべくもない。
 ――もう建物の中に入りなさい。温調の効いた病室に戻りなさい。そして、副作用が治まった束の間の安楽を、戻ってきた前向きな気分を味わいなさい。
 そう優しく自分に語り掛けている。
 明日の朝にはまた同じ抗がん剤の筋肉注射が待っている。確実に何もかもが重たく、暗鬱な気持ちに落ち込ませてくれる。闘病などという意識などあざ笑うかのような深淵を垣間見させてくれる。逃れられない身の不運を呪うことしかできなくなる……。
 ――励ましや慰めの言葉を期待したからじゃないのに。
 体を抱くように強く腕組みしたままベンチから立ち上がった。病室に戻るつもりのようだ。




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