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あの日、あの時に

 
 都会のど真ん中に取り残されたように自然池を中心とした公園がある。常緑樹や落葉樹に囲まれ、憩う人々に豊かな四季を感じさせてくれている。
 池の周りのところどころに古木の長椅子が置かれていた。いまそのひとつに一組の夫婦が夕陽を受けて坐っている。
「出会ったばかりの頃もよくここに来てたわよね」
「そうだったね」
 誠は見遣るような眼を朱に染まる落葉樹の林に向けている。
「ここの販売機にだけまだ瓶のコーラが売られてたんだ」
「他所は缶ばかりだったものね」
「そうだったんだよ」
「あの時もそんなこと言ってたわ、あなた」
「違うんだよな、唇に当たる感触とか、入ってくる量とか……」
「確かにおいしかった、あの時のコーラ」
 透かし絵のように艶やかに映える眺めにうっとりしている。
「……この公園にはホントよく来たわよね。初デートもここだった」
「瓶コーラだけが目当てで来てたわけじゃなかったけど」
 渋い笑みを浮かべる。
「そりゃそうでしょ。普通だったら」
「普通?」
「そう。普通の若いカップルだったら、映画館とか、喫茶店に行くでしょ」
「お金なかったからな、俺。普通のデートができなかったんだよ」
 濃紺のローキャップをとり、白髪交じりの前髪をかき上げた。
「でも美咲は一度も文句を言わなかったぞ」
「……一緒にいられるだけで嬉しかったからよ」
 優しい笑みで返す。
「………………」
「会話らしい会話がなくても、いつまでも坐っていられた」
「薄暗くなるまでな」
「そう。お爺ちゃんとお婆ちゃんみたいに」
「今みたいにな」
 気紛れな風に転がる広葉樹の枯葉のように二人してコロコロと笑う。
「とっても幸せだった、あの頃」
 
 
 商品ケース越しに三角巾を被った店員たちが談笑しながら立ち働いているのが見えた。見覚えのある女の子がこちらに顔を向ける。
 誠の存在に気づくと小走りで近づいてきた。
「いらっしゃい」
 屈託のない笑みが眩かった。目が合うと誠はさっと目を伏せた。 
「いつものですね」
 店の娘なのか、アルバイトなのか。幼さの残る青白い顔をした彼女が誠の返答も聞かずに商品ケースを開けるとトングに手を伸ばした。
 慣れた手つきでトレーの中のきちんと並べられたメンチカツを挟み、紙袋に収めた。口を折り、さらにそれをビニール袋に入れてカウターから差し出した。
「はい、メンチカツ一個」
 一連の流れにわずかな滞りもない。 
 差し出された温かい包みを受け取る手が震えた。素っ気なく百円玉をカウンターの上に置くとすっと手を引っ込めた。 
「三十円のお返しになります」
 いつもと一言一句変わらない受け答え。彼女の手から直にお釣りを受け取る。顔が赤くなるのが自分でも分かった。
「毎度ありがとうございます」
 飾り気のない、無邪気な笑顔に見送られて店を出た。
 
「わざとだよね」
 初めてのデートの日、誠は分かり切ったことをあえて美咲に訊ねた。
「なにが?」
「メンチカツのこと」
「ああ、そのこと?」
「どういうつもりだったの?」
「……言いたくない」 
 子どものような茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべていた。
「なぜ?」 
「………………」
 
 下宿にかえって包みを開封して驚いた。紙袋にメンチカツが二個入っていたからだ。
 間違いかと一瞬そう思ったが、釣り銭のことに思い至るとすぐに売り子の微笑む顔が浮かんだ。好意からなのか、憐れみからなのか、彼女の思惑に思いを巡らせ、頭を悩ませた。
 いやな感じがした。単なる気まぐれであったとしても有難くなかった。メンチカツに乗っかっているなにがしかの感情がちらつき、引っかかった。
 これからも通い続けるであろうはずの惣菜店に、これまでのように気軽には足を向けることができなくなってしまった。
 悪気のない、純真さからでたことだとは思い遣ることはできたが、そんな好意やおせっかいは煩わしく、うるさかった。
 
「教えてくれよ」
「じゃあ、逆に訊くね。どういうつもりだと思ったの?」
「同情、憐れみ……」
「違う、違うね。絶対」
「じゃあ、正解は?」
「ずっと一個買ってたよね。いつもメンチカツだけを。でもあの日から二個入ってたでしょ」
「ああ気づいてたよ。だから」
「だから……」
 
 日を隔てて、誠はまた同じ惣菜店へ足を運んだ。
 前回と同じように一個注文した。あえて指を立てて。ところが彼女は一個の価格で二個包んでくれた。
 また別の日、再度その惣菜店へ。
 今度はあえて二個注文した。すると一個分の値段で処理しようとする。二百円だして、お釣りが百三十円。六十円でいいのに一個分の七十円しかとらない。
 誠は彼女に質すべきかどうか迷った。それが伝わったのか、追い払うように「毎度ありがとうございます。またお願いします」と言って、早々に追い払おうとした。
 店頭でその間違いを質そうとすれば、間違いなく彼女は苦境に立たされる。誠は咄嗟に判断して、黙ってお釣りを受け取り、そのまま店を出た。
 
「だから?」
「ごめんね。お金ないのかなあって」
「やっばり、憐れんだんじゃないか。俺のこと」
「憐れんだりなんかしてない、決して」
「じゃあ……」
「なんか考えがあってのことじゃなくて、あの時は……あの時はなんだかそうしてあげたくなっちゃったんだよね。これからはいつも一個の値段でいいと思ったんだよね」
「なんだかって?」
「そう、なんだかって。そのくらいのサービスなんて、私たちの裁量でなんとでもなるから」
「サービスで」
「そう。なんだかふっとそうしてあげたくなっちゃったのよ」
「………………」
 
 
「あの時、美咲がメンチカツを二個入れてくれてなければ、恐らく一緒に暮らすようにはなってなかったと思う」
 パーカーの風防をローキャップの上から被せた。
「なに今頃、そんな昔の話を」
「今だから分かるんだよ。美咲と俺の出会いは偶然のようで偶然じゃなかったんだなって」
「えっ、どうしちゃったの? センチなスイッチ入っちゃった?」
 神妙な顔をしている誠と違って、美咲は初デートの時に理由を訊かれて苦し紛れに見せた悪戯っ子のような笑みを浮かべている。
「赤い糸で結ばれていたなんて言い出すんじゃないでしょうね」
「少なくとも、美咲のことを意識するようにはなってなかったよ」
「出会っちゃったんだ」
 満更でもないという顔をしている。
「人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」
「あら、まあ。ホントどうしちゃったのよ? 仏様みたいなこと言っちゃったりして」
 その時自分の腕を誠の腕にすっと絡ませた。
「でも良かった……」 
 古池の向こう岸で水面を覆うように枝を張る大楓がひときわ彩りを濃くしている。その梢に小綬鶏が飛んで来て、呼びつけるように喧しく鳴き始めた。
「あなたに出会えて」
 
 
引用名言――
森 信三(もり のぶぞう/1896~1992)。京都哲学派の流れを汲む哲学者・教育者。 
 
 

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