マガジンのカバー画像

連載小説・海のなか

53
とある夏の日、少女は海の底にて美しい少年と出会う。愛と執着の境目を描く群像劇。
運営しているクリエイター

#青春小説

小説・「海のなか」(38)

小説・「海のなか」(38)



***


 夕凪は零れる涙を止めることができないのか、微かに体を震わせていた。けれどそのうち諦めて、流れてゆく涙をも食うように無言で食べ始めた。俺はといえば、どうすればいいのかもわからず、気がつけばつられるように食べ終えていた。味はしなかった。というよりも、覚えていない。そんなものよりも夕凪の涙の方がずっと衝撃だった。あんなに感情のない涙を、初めて目の当たりにした。なぜなら彼女は理解し

もっとみる
小説・「海のなか」(31)

小説・「海のなか」(31)

***



「さて。何を話そうか…」

 リビングのイスに腰を下ろすと、父は向かいにわたしを座らせた。こうして相対するのも久しぶりだった。朝早くから夜遅くまで働いていることの多い父は、家族でありながらほとんど会うことはない。それはわたしがほとんど自室に引きこもっているせいでもあるけれど。いつからだろう。誰かがいる空間に耐えられなくなったのは。それが家族なら、尚更だった。その目で見られるだけで、

もっとみる
小説・「海のなか」(28)

小説・「海のなか」(28)

***

20××年 10月5日

溺れている。
深い色。
上の方に光が見える。

***

20××年 10月6日

「はやくおいで」
と誰かが呼んでいた。
顔がない女。
でも、笑っているのがわかる。

***

20××年 10月7日

「 」
 誰かに呼びかけている。
 手は冷たいままだ。
 あの人は、振り返らない。

***

20××年 10月8日

指切りの歌を歌ってい

もっとみる
小説・「海のなか」(25)

小説・「海のなか」(25)

 付き合い始めたからといって、ほとんど変化はなかった。変わったことといえば、必ず待ち合わせて帰るようになったこと。それから時々手を繋ぐようになったこと。それだけだ。付き合っていると見せかけるために必要なことだった。
 行為に意味などない。そう言い聞かせていても、心が揺れてしまう時が殊更辛かった。愛花との関係が偽りだと痛感してしまって。
 時折愛花の何かもの言いたげな視線を感じたが、無視し続けた。曖

もっとみる
小説・海のなか(22)

小説・海のなか(22)

第七章  「追憶」


 愛花と出会った時から、きっともう手遅れだった気がする。
 今から思えばあれが、一目惚れというやつだったのかもしれない。もう昔すぎてよくは覚えてない。けれど、いくつかの場面が断片的に焼き付いている。特に、中一のあの瞬間のことだけはやけに鮮明で今でもくっきりと思い出すことができた。愛花を初めて目にした瞬間の印象。
 あいつの笑ったうっすらと赤い口元とか。綺麗な、そのくせ人を

もっとみる