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非二元メソッド

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非二元は「非二元メソッド」というメソッドだと思っています。
運営しているクリエイター

#ノンデュアリティ

比べたくてもねー、比べられないのよ…「比べるという思考が起こってるだけだから」

比べたくてもねー、比べられないのよ…「比べるという思考が起こってるだけだから」

比べるのは思考でしょ。
見えたら見えたなり、
聞こえたら聞こえたなりなのに、比べる。
それは、思考でしょ。

最初からここしか知らないのに
足りないものはありますか?

足りないと思うのは思考でしょ?
何かと比べて足りないと思うのでしょ?

だいたい、足りるも足りないも思考なんだしね。

何かと比べるのは、
こっちとあっちがあると、
信じ込んでいるからでしょ?

ここ以外があると思い込んでいるから

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それ、語っちゃダメなやつだ笑

それ、語っちゃダメなやつだ笑

この世界はバーチャルなのに凄いなあとか
それがストーリーなんだよね!とか。

個人の私はいないとか
全体だとか完全性だとか。

まあ、何でもいいんですが、
それを言ってるのが「私」で
思考だということなんですねー。

語彙力が豊かな人は特に
「今の様子」を語りだす。

でもほら、
それだとポエムになってしまうよ。

それとか、
「今の様子」を描写している時、

あれ、
頭の中のイメージになってるよ

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喜怒哀楽、なんでも起こりえるよね。それが問題にならないだけで。

喜怒哀楽、なんでも起こりえるよね。それが問題にならないだけで。

私が私のためにこのメッセージを使おうと
してしまうのは、このメッセージがわかれば
「心配や苦しみ」がなくなると
期待しているからではないでしょうか。

「そうだよ。
スピーカーさん達もよく、心配する誰かはいない、
苦しむ誰かはいない、って言ってるじゃないか。」

うんうん。

こんな風に言われると、
そう思うのもムリはないですよね。

でも、ぶっちゃけ言うと、
非二元のメッセージがわかって気づきが

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今のそれ、それがダイレクトな経験なのよ

直接の経験というのは
普段の生活で
あらためて取り上げなければ
直接の経験なんですよねー。

どうやったって
思考も、体感(感情)も
勝手に起きてきます。

それがもう
直接の、ダイレクトな経験なんですよね。

出て去ろうとするものを
あらためて咀嚼しようとするから
ややこしくなるんだよなぁ

夢わたのセッション達

「夢みる私じゃいられない」スタエフ♪

ご質問・メッセージはこちらまで

個人の私も全体の私もない

個人の私も全体の私もない

個人の私も全体の私もありません。

全体だけがある、というのでもありません。

全てある、と納得するのでもありません。

そして、「私はいない」と私が言っているのも違うんです。

どういう表現をしようが
何かが何かを認めているんじゃないんです。

だから
気づきの意識とか
俯瞰するとか
映画を観るようにとか
観察者とか。

どうなんでしょうね。

でもそうやってると、
「現実」に「巻き込まれない」

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腰がない……

腰がない……

久しぶりの腰の痛み。

これは、「ギックリ腰」というやつだな。
何年ぶりだろう、この感覚…

なーんて。

朝、起きようとしたら
「ッ!ったぁーーい!」
となり、久々のギックリ腰到来に気持ちが
萎えました。

痛みが少しマシになった頃、息子に
「ごめんやけど、ちょっと、
腰押してくれへん?」
とお願いしたら、
「真っ直ぐで、どこが腰かわからへん」
って言われました。

ぅおーーーーーい!

わかれ

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邪魔しないーでよー♪

邪魔しないーでよー♪

ただそうである
が腑に落ちるというのは、
あらゆる感覚、感情が消えることでも
何かに満ち満ちることでもありません。

何が起ころうと
それが問題にならなくなる。
なりようがなくなる。
ということです。

それを問題として扱える主体がいないからです。

「夢みる私じゃいられない」スタエフ♪

苦しむ誰かはいないから、苦しくない!!うん、ない!!(言い聞かせ)

苦しむ誰かはいないから、苦しくない!!うん、ない!!(言い聞かせ)

「苦しむ誰かはいない」
というのは、
非二元のメッセージで結構よく聞くものですね。

でもこれ、これに引っかかってしまうと、
「苦しむ誰かはいない、ので、苦しくない」
ってなって、
「いやいや!苦しいんですけど!!」
と、大暴れしたい心境にかられます。

「苦しむ誰かはいない」

まさにね、うん。

だけど、
記憶からのイメージや
今起こっている出来事から
それを解釈するという働きが起こり
それに

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もしかして言い聞かせたりしてる?

心揺さぶられるようなことが起きたり
誰かに寄り添いたくなる気持ちが起きたり、

体の不調を感じたり
耐え難い痛みが起きたり、

はたまた例えば
「死」への恐怖が起きたりしている時、

「ほんとは何も起こってない!
これは解釈だ!!」

と言い聞かせているとしたら

それこそがいらんことですね。

まあ、

言い聞かせようが
沸くままに出てこようが

その様子は
その様子なんですけどね。

「夢みる

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痛いもんは痛い…

痛いもんは痛い…

頭痛がする。
「もうちょっと我慢しよう」

頭痛がする。
「肩凝ってるのかなぁ」

頭痛がする。
「アカン、つら!薬飲も!」

どれが起こっても
何が起こっても、

それが起こったならそれが起こってて、
それ以外は起こってないんよね。

何を思っても、その思いで、
そうしたんよね。

非二元の話をすると、
「そのままでいよう」としたり
「勝手に起こるってどゆこと?」と考えだしたり
してしまうかもで

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起きてしまうからしょうがない。

起きてしまうからしょうがない。

思考の限界が
その人の「ある」世界の限界ですね。

どんなに賢い人でも
その考えの外には出られない。

それ以上は知れない。

その人の思考の範囲でわかったことで
全てを知ったとすることは

その時点でまた分離を生んでしまいますね。

でも、
そこで
それ以上知れないんだったら
どうでもいいじゃん!
ってなるかどうか。
それははわかりません。

そうなる場合もあるだろうし、
それでも
知りたいとい

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色んなことをわかってるつもりでいるけど……

色んなことをわかってるつもりでいるけど……

こっちがあって、あっちがある。
私達は普段、あらゆることを
そのように認識してるけどそうじゃない。
二つのように思っているけど二つじゃない。

非二元ではそう言いますね。
そうすると、

と言うことは一つだ!

となるかと思えば
一つとも言えない。

不思議ですね。

じゃあなんなんだ!?ってなりますよね。

私も思います、不思議だなあって。

そしてこのもの(私)も
その不思議に入ってるんです…

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非二元、役に立ちません。

非二元、役に立ちません。

「非二元」は、今起こってることを
そのまま言ってるだけです。
ただそのように現れてるね、と。
それには実体がないよね、と。

中身(ストーリー)を良くするため、思い通りにするため、または楽にするために役立つ話ではありません。

だけど私達は「とにかく自分の人生を良くしたい、楽になりたい」思いから
「非二元」を利用しようとしますね。

どんなに
「ただこういう仕組みになってるよと言ってるだけだから、

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言葉は言葉でしかないわけですが…

言葉は言葉でしかないわけですが…

言葉で示せることは
結局上滑りなわけで

やはりそこでしか
「わかる」ということが起きないんですよね。

そしてそれを後で
「そういうことか」
と説明する。
そういうことが起きる。

でも、そうは言っても
私は言葉を蔑ろにはできません。

非二元界隈では
けっこう「言葉ではない」とか
「言葉がなくても大丈夫」とか
言われることがあるけど、

そこ、一緒くたにしない方が
いいんじゃないかと思うんです

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