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浪費を学ぶ---高校生に自由に講演をしてと言われたらこんな話をしたい

こんにちは。

今日は、学校で先生に言われそうなこととは違った方向性の話をしたいと思います。

どうせ大勢の前で話すなら、こう、ちょうどいい具合に意見が分かれて、とはいえ楽しく、熱が入った議論が生まれるような話をしたいからです。

1週間後に、僕がなんの話してたかは忘れたけど、ずいぶん楽しく考えて、将来像も変わったね、みたいなことになっていたら面白い。

そこを目指して、誰にとっても身近な話を題材に話を進めます。

テーマは、「お金と時間」です。

これだけだとつまんなそうなので、副題をつけましょう。

「もっと浪費する人間になろう!」としておきます。

それでは、中身に入ります。

<駆け足旅行に行った話>

ついこの間、僕はまあまあ大きな会社を経営している友人と海外旅行に行ってきました。

彼は非常に忙しい人で、いつか行こうと約束してから5年くらいしてやっと、なんとか2週間の時間を捻出してくれたんですね。

彼との旅は、とにかく慌ただしいものでした。

がんがん飛行機やヘリを使って、2週間で20ヶ所以上の都市を回るんです。彼はめちゃくちゃお金はあるから、自由な時間は少ないのだけれど、短い時間でとにかく数をこなすことはできるわけです。

僕らはちょっと体調を崩しながらも、旅行のテンションで、朝から晩まで過密な旅行スケジュールをこなして、たくさんの写真を撮りました。

帰ってからどっと疲れが出て、2、3日何もできなかったですよ笑

ともかく、行く場所は多かったので、やたら写真と使うお金は増えるのですが、味わう余裕というものがない旅でした。まあ、彼の奢りなんでいいんですけども。

でね、この旅行中、面白いなと思ったのは、彼が常に「次どこに行くか」を考えて興奮していることでした。

身の上話になっても、未来の話は次々出てくるんです。もっと派手にやるんだ、みんなと違うことをするんだ、みたいなことがね。

ところが、少し前にこんなことがあったよね、という話をすると全然覚えていない。覚えていても、こう言っちゃなんですが、感想が薄い。

それから、眺めて楽しむものってあるじゃないですか。景色とか、芸術とか。彼はサッとみて、「あれはすごかった」って言って終わるんですよ。

<経験するということ>

僕個人としてはね、彼がしているような駆け足の旅行を、「豊かな旅の経験」とは呼びたくないんですよね。

これは単に好みの問題かも知れませんが、とりあえず今日の話の軸としては、僕と友人のものの味わい方の違いをベースにみなさんにも考えてもらいたいので、対立構造で話を組み立ててます。

ちゃんと仲良しですからね?

僕はね、良い旅は、自己変容を伴うものだと思っています。

よく見て、よく聞いて、その上で、何か気になるものを見つける。そして、なんらかの問いを持って、じーっと何日も考え、調べ、自分を見つめ直し、新たな自分へと変態する。

これが“経験する”ということじゃないのかな。

そのプロセスはとてもゆっくりと進むもので。

慎重に量を測って、ゆっくりといくつかの液体を注ぎ、長い時間をかけて地道にかき混ぜ続けて完成させる秘伝のタレ作りような、繊細な作業なのではないかと考えています。

焦っては、すべてが台無しになってしまう。

それが僕の考えです。

<人生の方程式>

僕の考えは、基本稼げる考えではないと思うんです。

なにせ、ひとつずつゆっくり経験したいから、時間がかかってしまう。同じ小説を人の30倍くらい時間かけて1行ずつ深読みして楽しむような感じです。

反対に、僕の友人はガッと集中して、すぐに結論を出し、次の手を決める。次へ次へ、もっと大きいことを、もっと刺激的なことを、もっと長時間夢中でやるんだという風にやっていくから、速い速い。当然稼げる。

実際そうなっています。

彼の人生、アドレナリンが出まくって楽しいとも思うんですよ。睡眠不足にはなりそうですけど。

でも、僕はどうしてもそっちの人生を歩みたいとは思えない。そして、僕の生き方もすごく楽しいものだと思っています。

ここで、両者の考えをわかりやすく説明するために、すごく単純な人生の方程式というものを作ってみました。

人生=経験数×味わった度合い(黒板に書き書き)

察しのいい人は気づいているかも知れませんが、友人は「経験数」を、僕は後者の「味わった度合い」を高めようという戦略を取っています。

はい、じゃあちょっと休憩時間を設けるので、ここまでの話で考えたことを隣の人と共有してください。トイレに行ってもOKです。

<主観的な大きさが大事なんでは?>

さて、さっき書いた単純な式について、もう少し話を深めてみます。

まず、左辺の「人生」です。

僕らそれぞれにとっての「自分の人生」というのは、当たり前ですが、主観的なもので、ようは自分が覚えている経験のことです。

固い言い方をすると、一人称的な意味での人生とは、記憶から取り出せる主観的な経験の合計のことです。

であれば、極論、経験したとしても、ぼんやりとしか思い出せないのであれば経験していないようなものです。

ここでいう経験とは、意味をもつひとかたまりのこととして取り出せる出来事のことです。

具体的に表すと。

10分だけ自宅の周辺を散歩して、そのときに見たものや感じたことについて1時間自分の「経験」を語れる人と、1000万円かけて世界を一周した100日間の感想を数千字のブログに書いて「感じたことを全部書き切った」という人。

両者の経験を客観的な指標で見ると、後者の方がかけた時間もお金も移動距離も圧倒的に多い。

しかし、さっき言ったように、人生とは主観的なものです。

そうすると、前者の経験は、客観的にいえば安くてかけた時間も短いですが、主観的に見ると、後者より大きなサイズの経験と言えるのではないか。

「でかいことをやれ」「たくさん動け」と、イケてる経営者やインフルエンサーの方がよく発言しますが、あれは客観的な意味で経験のサイズの話をしていることが多いと思います。

あるいは、受け取る側がだいたいそう捉えているように見える。

つまり、かけたお金や影響を与えた人数、目立った度合いのサイズのことですね。これを指標としてデカいと解釈するのが一般的なのです。

でも、何度も言うように、自分の人生は主観以外の何物でもないわけです。

主観的な意味で「でかいことをやれ」を考えるなら、たとえば良いお手本は松尾芭蕉かもしれません。

古池や 蛙飛び込む 水の音

これは相当でかいですよ。切り取ってる事象としては、たぶん1秒くらいの出来事ですからね。それをどんだけの注意を向けて、そして時間かけて味わっているのか。

ひとつの出来事をちゃんと認識して、意味をもたせて味わうには、時間がかかる。でもそれが、主観的な意味での経験のデカさになる。

これが僕の考え方です。

で、僕はどうしても、松尾芭蕉的な意味で でかいことをやれる人がかっこいいと感じてしまう。

<いつまで考えているか>

さて、みなさんに質問です。

みなさんは、自分の体験したことについて、どれくらいの時間をかけて思い出したり、書いたり、人にしゃべったり、意味を考えたりしますか?

1年前の日記や写真をどれくらい見返しますか?

つまり、主観的な意味での経験のサイズを育てる活動をどれくらいしているのか、という話です。

さっきと別の近くにいる人と話してみてください。
(共有タイム)

では、続きの話を。

僕らが人生を豊かにしようと思ったら、取れる戦略は2つです。

  1.  僕の友人のように、とにかく速いサイクルであれこれ刺激的な経験をする。味わうのに時間をかけなくても記憶に残るくらいインパクトのあることを次々やる。

  2. 対して、客観的にはサイズが小さくても、自分の感性で味わう対象を絞り、じっくり一つ一つ集中して体験して、その後何度も味わう&深く味わうことで主観的な意味でサイズの大きい経験をする。

僕らはこの2つを組み合わせて、経験を積み上げている。

ずっと1でいるのも、ずっと2でもいるのも疲れるし、たぶん無理です。

だから、それぞれなんとなくバランスを取っていると思うのですが、僕は、世の中が戦略1をよしとする方に傾きすぎなんではないかと考えています。

もうちょい意識的に後者の量を増やすための時間を取ってもいいのではないでしょうか。

<消費と浪費のちがい>

ここで、また大事な概念を導入します。

消費と浪費(黒板に書き書き)

です。

これは普通は、消費=単に買うことと、浪費=無駄遣いすることという意味で使っていますが、ここでは少し一般的ではない使い方をしてみようと思います。

消費→客観的な経験のサイズを大きくする
浪費→主観的な経験のサイズを大きくする
(黒板に書き書き)

さっきの話でいう、戦略1が消費、戦略2が浪費に対応しています。

つまり、

消費的な行動とは、外的な刺激をより大きくすること、より強い興奮を求めることで記憶に残る経験を増やそうとする行動である。

浪費的な行動とは、味わう能力を高めることで、より繊細により少ない外的な刺激から記憶に残る経験を増やそうとする行動である。

といえます。

消費はともかく、なぜ「ムダ遣い」を意味する浪費を、戦略2と対応するとしたか。

浪費とは、ムダ遣いです。

一般的な意味でいうと、食べきれない量の食べ物を買ったり、使うことのないバッグを買ったりすること。これがムダ遣いです。

なぜムダか。

内的に満たされるのに必要な以上に、物理的な物を受け取っているからです。

この「内的に満たされるのに必要な以上に、物理的な物を受け取っている」状態を浪費した状態とすると、ある行動が浪費的かどうかは、主観的にみて「受け取り切った」「足りている」という感覚があるかということになります。

で、「受け取り切った」「足りている」という感覚があるかというのは、ちょっと飛躍しますが、僕らの文脈で言うと、主観的な経験のサイズを大きくする方に重きを置いた視点といえます。

「受け取り切った」「足りている」=「もういらない」と捉えると、浪費には終わりがあります。

<消費に終わりがない理由>

一方の消費。こちらには、終わりがありません。

消費は、資本主義の中で生まれた観念です。

僕らがより多く消費をするよう促すと、資本主義社会=消費社会で何より大事に扱われているGDPが大きくなる。

資本主義においては、僕らが満足するかどうかより、消費が拡大しているか(GDPが増えるか)が重視されています。

だから、もしも僕らが、1本のビデオや1枚のCDを10年飽きずに鑑賞し続ける浪費人間ばかりだったら、資本主義の発展のためには困った事態と言えるでしょう。

消費社会では、味わうことよりも、より早くより多く買ってもらうことに重きが置かれている。

ですから、僕らが物を内的な意味で受け取ろうとしているそばから、次々と「新商品が出ました」「時代は変わった、あなたはどうする?」とプロモーションを打たなくてはならない。

もうすでに、全員を満たしても余りあるくらいには物や情報が溢れているのに、「足りない」と思わせなくてはいけないのです。

ずいぶん難しそうな芸当ですが、スマホを手に入れた資本主義社会は今のところかなり上手くこれを続けています。

なぜでしょう。

実のところ、味わう能力を高めるのはそんなに簡単なことではありません。

だから、なんの努力もいらず、際限のない刺激を得られるおもちゃを与えられれば、人は簡単にそちらに流れていく。

味わう能力を身につけるコストが、より早く・より多く刺激を得るコストを上回っている場合、後者を取る方が合理的というわけです。

短期的には、ですけど。

<浪費家になるという意味>

1人の人間の中で、消費的な自分の割合が大きくなるのには、長期的には問題があります。

なにせ、ぜんぜん持続的じゃないからです。

自分の中の消費者としての部分が大きくなると、次第に中毒者・依存症患者のようになっていくのは目に見えています。

(現代人は、6人に1人が何らかの依存症を抱えているとまで言われている)

そうなると、満足するために欲してしまう量は増えるのに、受け止める体はむしろ弱っていくのだから、どこかで破滅が来てしまうのです。

他者が作る外的な刺激に身を委ねすぎる危険さがここにあります。

破滅まで行かずとも、何をやっても楽しくない、熱中できない、なんとなく退屈、なんとなくなにかを求めている、という状態が長引くことになるでしょう。

「足りない」感覚は、充足感とはかけ離れています。

これを裏付けるように、先進国においては、もはやGDPの成長と国民の幸福度の向上には関係がありません。むしろ、格差が拡大した結果、全体的に不幸になっているとすら言われている。

内閣府 国民生活白書(平成20年版)

僕らは、どこかの時点で(だいたいは医者に重病と宣言されるか、年老いるかして)、浪費的態度にシフトする必要性に駆られます。

すなわち、より少ない外的な刺激から、より長く深い満足感を得られるようにならなくてはいけない。

いつまでも脂肪と糖たっぷりの食事を食べるわけにはいかないので、どこかで薄味で栄養ある食事を楽しめるようにならなくてはいけないわけです。

<経験の激しさのみ高める無理ゲーをやめる>

さて、消費と浪費の話を踏まえて、さっき書いた式をちょっと変形してみましょうか。(黒板に書き書き)

人生=経験数×味わった度合い

人生=経験の激しさ×受け取る能力
人生=消費の加速×浪費する能力

右辺のどちらの項も増やすのがベストですが、人生は時間そのものであり、有限です。

経験の激しさを追い求めると、受け取る能力は下がり、受け取る能力を上げると経験はより少なくても事足りるようになると考えるべきでしょう。

ある決まった長さの紐で、長方形を作る問題で、縦の長さと横の長さがトレードオフになるのと似ていますね。

これを踏まえて、極端な2つの人生を考えます。

どちらが好みか考えてみてください。

  1. たくさん稼いで、たくさん異性と付き合って、もてはやされて、煌びやかな生活を送る代わりに、激しい興奮かなんだか物足りない感じがずっと交互に続き、薄い感想しかもてない人生。「もっと刺激的なことがありますよ」と他人に言われたことをどんどんやる。

  2. 周囲の平均の半分もお金や物を持ってはいないけど、主観的には「これ以上はいらないな」と思えていて、それ以上の何かがあると全部「ラッキー、儲けものだ」と感じられる人生。1.3倍働けば、2倍稼げるよと言われても動じない。


どうぞ話し合ってください。
(100人くらいがどっちを選ぶ割合が多いか見たい)

<消費の加速は効率が悪い>

さっきから聞いていればわかると思いますが、僕は、浪費する能力を高める方に重きを置く方を推奨しています。

なぜかというと、依存症の問題ももちろんありますが、今後ますます貧乏になっていくだろう日本で、消費を加速しようとするのは部が悪いと思うからです。

日本人の所得分布、みたことがあるでしょうか?

幸福度のピークは年収660万円」なんていう調査もありますが、日本で700万円以上稼いでいるのは、全体の26.6%でしかありません。今後ますます少なくなるでしょう。


平成30年 国民生活基礎調査より

それから、多くの人はお金によって消費を加速し、人生の満足度を高めることをしようとすると、どうしても労働時間を伸ばしたり、責任感ある地位につくなど、ストレスの高まりそうな選択を取ることになりがちです。

参考記事

そうまでしてお金を稼いで、
それによって何を手にするのか。

旅行に行く時間もないし、ちょっと高いお金をかけて美味しいものを食べるか、とかそんなことになりそうです。

もちろん、味わうことに時間をかけるほど暇でもない。次の予定を気にしながら食べる。

この例は、誇張もありますが、それでも、毎回一食にかけるお金を200円上げるようなプチ贅沢のために、年収を20万円増やすなんてもったいないと僕なら思う。

僕は、仕事と収入を少し減らしてでも、浪費する力を高める方が価値があるのではないかと検討することは忘れないほうがいいと考えています。

お金のために使う時間が年間で100時間減る方がずっといいし、それで家族や友人とゆったり過ごす時間を持つ方が意義深い。

だから、僕はお金にはつながらないけど大事にしたい時間(趣味、交友、家族との時間、社会貢献活動に充てる時間)を先に確保して、これ以上は働かないという上限の時間を決めています。

その限られた時間の中で、効率をあげたり、単価を上げたりして収入を増やそうとすることはあっても、時間を増やすことは安易にはしない。

みなさんはどう考えますか?
(10分の話し合いタイム)

<できるなら働きたくない人の多さ>

僕らは、働きすぎなんじゃないか。

そう考えるのにには、もっとシンプルな理由もあります。「できることなら働きたくない」と思っている人が多すぎることです。

生活のために仕方なく、あるいは「これくらいは働かないといけない」みたいな風になっているからなんとなく、そんな理由で働いている人が多いんでしょう。

でもさすがに、半分以上がやだなと思っているシステムを維持するって、社会としてどうなのか。

みなさん早く大人になりたいと思いますか?

参考記事

僕らが浪費家的に満足度の高い人生を送ろうと思ったら、そんなにお金はいらないはずなんです。

外的な指標で見ると少ない量で、より長い時間満足感を得ようというのが浪費する能力を高めるという戦略なのでした(戦略2)。

味わう力を高めることで、もっと少ない収入・出来事で、より多くの楽しみを引き出せるようになる。

これは、自分の人生(主観的な意味の人生)を守るために非常に重要なスキルです。

なぜなら、外的な指標が自分の幸福度を決める要素として大きくなるのは、イコール他者に人生を決定される可能性が高まることだからです。

自らの意識を統制し、事物から楽しみを見出す能力が低ければ、他者がわかりやすい形で用意した刺激に忙しく踊らされ続け、すり減っていくのみです。

<満足すると結局儲かるパラドクス>

そうはいっても、もう少しだけ稼ぎたい。
もう少し長く我慢して働いてでも。

そんな方に悲報です。

幸福度の高さは健康や高い創造性、高い生産性に直結するという研究成果がたくさん積み上がっています。

たとえば、日立製作所フェローでハピネスプラネットCEOの矢野和男氏の研究では、幸せなチームは不幸せなチームよりも、生産性が20%から40%高かったのだとか。

これが何を意味するか。

嫌々長く働いても生産性は下がるだけなので、通常より時間をかけても、わずかなお金を得ることにしかならないということです。

ちなみに、嫌々でなくても週40時間労働は働きすぎと言われています。

それなら、労働時間を減らしてでも出来事を味わう時間を増やし、味わうスキルを高めることで、日々の満足度を高めることを選んだ方が、結局は収入も増えるかもしれないわけです。

じっさい、味わうスキルは、観察し洞察を導くスキルや内省する能力で構成されますが、これらの能力はそのまま収入の増大に直結しています。

リーダーシップを発揮したり、ビジネスチャンスに気づくのには、特にこの2つの能力が欠かせないからです。

付け加えると、本来、仕事は幸福度を高めるための活動としてはエリートクラスの存在です。

自分の得意を生かして世の中に貢献することには強い意義を感じやすく、それだけで前向きになれますし、また、目標なしに達成感没入感は得難く、様々な人と協力的に関わる機会が得られるのも多くの人にとっては仕事くらいでしょう。

太字にした部分は、人の幸福を構成する5大要素(PERMA理論)ですが、どれも味わうスキルを高めた方が得やすい感覚です。

<内的にでかいことをやろう>

そろそろ締めに入ります。

ここまで、黒板に書いた通り2つの対立する態度を軸に、生き方について考えてきました。

人生=経験数×味わった度合い

人生=経験の激しさ×受け取る能力
人生=消費の加速×浪費する能力

僕は、みなさんにも最大限人生を楽しんでほしいと思っています。振り返ったときに、思い出深いと思える人生を歩んでほしい。

消費的にせよ、浪費的にせよ、でかいことをやって思い出を増やしてほしいのです。

でかいことをやるのは、消費と浪費のどちらの戦略を取るにしても、簡単に実現できることではありません。

難しさの種類は異なりますが、1000万円かけて世界を一周するのも、毎日見るような風景を感動を持って深く味わうのも、そう易々とはできないことです。

しかし、いずれにせよ努力がいるのなら、僕は浪費的な意味ででかいことをやる方が使い勝手がよくて好きです。明らかに、地球環境にもやさしいし。

だから、今日はそちらを強く勧める形の話し方をしました。

浪費には、外的な指標は関係ないわけなので、体が動かなくなってきても、身体を拘束されても、運悪く財産のほとんどを失っても、浪費する力があれば経験は豊かにできます。

つまり、死ぬギリギリまででかいことをやれる余地がある。

内的に豊かか、外的な意味で豊かか。

ずっとそんな対立で話してきましたが、僕は内的な豊かさが結局は外的な成果にもつながってくると思っています。

もし、みなさんのうちの誰かが僕のような戦略を取るのなら、自分なりの感覚で、自分なりの言葉で、時間をかけて作り上げたデカいことを、たまには外に押し出してみてください。話すなり、書くなり、踊るなり、表現するのです。

それが一番、深く誰かに響くものになるはずです。

その証拠に、パッと偉人を10人くらい頭に浮かべてみてください。

世界で一番稼いだ人や、世界で一番いろんな街を歩いた人よりも、世界で一番何かを深めて考えたり感じたりした人の発言の方が後世に残っていると思いませんか?

<最後に>

いっぱい話しましたが、全部忘れてもこれだけは覚えておいてもらえると嬉しいということを最後に話します。

出会った人の数や、仕事に使った時間や、訪れた場所の数が、主観的な意味での人生の豊かさを表すのか、よくよく考えてみてください。

何でもいい、何か心を奪われたちょっとしたことについて、どれだけ深く味わい、語り尽くせるかが豊かさではないでしょうか。

たとえ体が弱く、病に倒れた短い人生だとしても、ひとつひとつの出来事を噛み締めて歩いた人生は偉大なはずです。

丁寧に、次の予定に間に合うか考えてイライラすることなく、集中して、1つずつ味わう。そして、言葉を尽くして、シェアする。

私たちは、ただ見るのと“経験する”ということがどれほど違うことか、立ち止まって考える必要があります。

私は、“経験する”ことを大事にする生き方がしたいし、ここで働くみんなにもそういう生き方ができるよう力添えをしたいと思っています。

安易に「量」や「回数」や「刺激の強さ」を増やさず、たまたま自分の心がとらえたものを、ゆっくりと、深く味わうことを検討してみてください。

ここにいるみんなが、自分の人生をより愛し誇れるように、自分を成熟させることのできるスピードで、これから生きる時間を経験できるようであってほしいと願っています。


本日は、ご清聴ありがとうございました。

<あとがき>

冒頭の社長と海外旅行に行った話は嘘です。あとは全部ほんとに思っていることを書きました。

タイトルにした通り、高校生(別に大学生にでも大人に対してでも全然いい)に自由に講演をしてと言われたらこんな話をしたいので、もしいいなと思う方いれば、誰か招待してください。


最近好きで1万字近い記事を連発していますが、反応いただけるとより楽しくやれるので、価値を感じていただけたらコメントや投げ銭をお願いしたいです。

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