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夢と欲望を別物として考えることで見えるもの

あとで振り返ってみて、
意義があったと感じられるのはどんな体験でしょうか?

あれは人生を豊かにしてくれたし、未来に立ち向かう自信を与えてくれる勇気の土台となものであった。

そんなふうに思える体験を
どのようにすれば増やせるのでしょうか?

こうした問いは、ビジネスの世界でいう、
どうやって資産を形成するか?
という話に似ています。

資産とは、将来のより大きなリターンを期待して、目先の消費を抑制すること(投資すること)から生まれる資源のこと

つまり、冒頭の話は、精神的な資産をどう構築するか?

という問いに置き換えてみることができます。

精神的な資産は、自己をより成長させてくれ、より多様な状況で楽しみを見出す力(それによる未来へと立ち向かう自信)を生み出す経験の源です。

精神的な消費

資産を形成するために投資をする。
その投資の反対は、消費です。

消費とは、目の前にあるなんらかの満足のためにする支出のこと。

では、精神的な消費とはどんな体験か?

精神的な消費は、たとえば、タバコを吸うことやテレビを見ることです。

消費的な行動は、努力を要さず快楽を得られます。ただし、次回同じ快楽を得るためには、より多くの刺激を必要とするようになります。

また、味わう力を引き上げることなしに快楽の対象を経験しようとしても、やがては退屈さが募ります。

鑑賞眼を磨くことなくアニメを見続けていても、やがては飽きてしまうでしょう。

「あの時間ムダだったな。なんでもっとこういうことに時間をかけなかったんだろう」とか「あれ今日何してたんだっけ」と思うような経験はだいたい精神的な消費に当てはまります。

遠くを見据えるかどうか

投資と消費、その違いはリターンを得られるのが今すぐか、それとも少し後になってなのか、というところにあります。

これをそれぞれの主観的な目線から考えると、長期的な目線で動くか、それとも短期的な目線で動くか、ということになるでしょう。

僕らは、長期的な願望と短期的な願望の2つをもっていて、そのどちらかを満たす行動をとり続けています。

身近な例で考えましょう。

たとえば、夜ベッドに入ってからなんとなくショート動画を見始めて、夜更かし。深夜にお腹が空いてきて、カップラーメンに手を伸ばした。

こちらは短期的な願望を優先して動いています。

このとき同時に、健康的な生活を送りたいとか、痩せたいとかいう長期的な願望を手放してしまっているのがわかるでしょうか?

必ずそうというわけではありませんが、いやーなことに、ふつう短期的な願望と長期的な願望は矛盾してしまうのです。

しかも、短期的な願望の方がエネルギーが強い

意志の力に頼ったダイエットは成功しないとかよく言いますけど、仕方のないことなのです。

では、どうすればいいのか?

という話は、今回はあまり具体的にはしません。

それを知るという短期的な願望は、
あとにとっておいてください笑

今回この記事では、もっと理論的というか、土台の部分の話をします。

ここを押さえてから具体に進んだ方が、本質的な意味でテクニックを使えるようになると思うからです。

長期と短期で、欲望を2つにわける

さてさて。
ここまででもわかるかと思いますが。

今回のこの記事の中では、
一貫して長期的な願望と短期的な願望を分けて扱います。

そしてどちらかといえば、長期的な願望を重視して扱います。

それが前提。

ですが、単に長期と短期だと大事なことが抜けてしまうので、いったん「視点の高さ」という比喩を用いて寄り道させてください。

視点が高いと、遠くまで見通せますよね。

これは、時間的に遠くまで見通せるという意味での比喩でもありますが、
ここに、考慮に入れる対象を広げる(大局的な視点)という意味も加えてみてください。

高いところからだと、広い範囲が見えますよね。

「家族のことを幸せにする」を一つ上の視点から考えると、「地域の人を幸せにする」になります。さらに一つ上げると、「日本人を幸せにする」とか「地域の生きとし生けるものを幸せにする」とかになるかもしれません。

なぜ、こちら側の意味も考えたいかというと。

時間的な意味では長期的な目標であっても、
「どんな方法を使ってでもお金を稼いで酒池肉林の王になりたい」のでは
あなたの周り、つまりエコロジーに問題を起こすからです。

周辺環境から搾取していればいずれ自分も立ちいかなくなるでしょう。

同じように、バレれば信用を失う嘘をついて周りを出し抜く人は、周囲の警戒心を上げ、信用に必要なコストを上げてしまうため、結果的に損をします。

キリスト教世界での教会の腐敗

歴史という、もっと大きなスケールでこの問題を考えてみましょう。

初期のキリスト教の教会は、ローマ帝国の圧政に虐げられた一般大衆が、生きることの意義と尊厳を見つけることに貢献しました。このときは、リーダーたちの視点が高かったと言えるでしょう。

しかしながら、これがまさにうまくいったために、非常に多くの聖職者が、もっぱら居心地のよさと権力への利己的な願望に魅了されて境界を占拠する結果となり、徐々にコミュニティからエネルギーを取り去り、代わりに自身の利益のために利用したのです。

結果、何世紀にもわたって、中世の小作人のあばら家が暗く汚いままだった一方、教会の大物の館はますます輝かんばかりになっていきました。そのあと教会がどんな仕打ちを受けたかはみなさんの知るところです。

こうしてみると結局、広く社会を見渡すということは長期的な視点を持っているということになります。

というわけで改めて、本記事では、人の願望を長期と短期で分けて考えたいと思います。

そして、長期的な願望の方を「理想(夢)」、短期的な願望の方を「欲望」と呼ぼうと思います。(ここ大事)


こうすれば、先ほどの例の教会や酒池肉林の王になりたい人が持っていた願望は、大きな欲望ではあったが、小せえ夢だったと言えるでしょう。

過剰な快楽は長期的利益を損なう

短期的な願望(欲望)と長期的な願望(理想)をまた別な視点から見てみましょう。充足(楽しみ)と快楽について考えます。

先に述べておくと、欲望は快楽を生み、理想は充足(楽しみ)を生みます。

まず、先ほどのように快楽と充足(楽しみ)の定義から考えてみましょう。食事の話から考えます。

僕たちには食欲があり、食べると快を得ますよね。僕の場合あんまり食事に集中していなくて、何を食べたかもあんまり覚えていませんが、それでも何かは食べます。たまに、「あ、おいしい」とか「これ腐ってんじゃない?」くらいのことは思います。

このような食事の仕方を“快楽的な食事”とします。

快楽的な食事は、食事というよりエネルギー補給に近いと言えます。食事のたびにエネルギーを充填して空腹状態から回復してはいますが、別に味わうスキルが成長したりはしていませんし、食事をより楽しめるようになったりもしていないといった感じ。

だから僕にとっての食事は、退屈であることが多い。

広く知られているように、感覚的快楽に哲学が警戒する理由の一つは、その効用が長く続かないからである。快楽はほんの一瞬良い気分にさせてはくれるが、その感覚的な記憶はすぐさま消え失せてしまう。またその人は、それによって賢くも強くもならない。

ジョナサン・ハイト『しあわせ仮説』

もし、快楽的な食事しかできない人々の世界に、アメリカからジャンクフードがやって来るとどうなるか?

快楽は人をさらなる快楽へと引き込み、長い目で見ればより良いと思われる活動から人を遠ざけてしまう

ジョナサン・ハイト『しあわせ仮説』

食べるほどに味付けの薄さに物足りなくなって、調味料をドバドバかけて、食生活は乱れ、不健康へまっしぐらです。

楽しみが成長を生む

一方、グルメな人たちを考えましょう。アメリカ的な食に対して、フランス人の食事みたいなイメージです。

彼らは料理を前にまず観賞し、香りを味わい何か一言「ハーブの香りがどうのこうの」などなど呟いて、ようやく口の中に小さい塊を運びます。

口に入れたら、かみごたえ、舌触り、微妙な味の変化、鼻に抜ける香り、それらを統合したその料理の「感じ」などに意識を向け、ゆっくりと呑み込みます。

今までに同じように味わってきたものと比較したり、料理の背景を想像したりしながら、感傷に浸り、シェフに「ファーストタッチが全然違いますね」とか「魚介の宝石箱やあ」なんて声をかけたりします。

グルメな人たちは、自分の五感を総動員し、より複雑な味の違いをくみ取ろうとする努力を含め、食事を楽しんでいるのです。

こういった食事の仕方を“充足的食事”と呼びたいと思います。

意識を統制して、対象に感覚を研ぎ澄ませ向き合っていることで生まれるのが充足(楽しみ)です

グルメな人は、食事のたびに次の食事を分析するためのデータが増え、舌が肥えていくといった成長を感じ、料理に対する自分の感覚がより複雑になっていくのに楽しみを感じます。

だから儲かるかとかモテるかと言えばそうでもないかもしれませんが、ともかく少ない量で自分独自に楽しむことができ、成長した感覚を得られます。そこには自信や誇りも生まれてくる。

楽しみは、振り返ってみて、人生を豊かにし、また未来に立ち向かう自信を与えてくれる思い出の土台となものである。

M.チクセントミハイ『フロー体験とグッドビジネス』

上の引用が、冒頭の2つの問いの答えですね。

僕らは、日々の生活の中でより多くの快楽を、ではなく、より多くの楽しみを感じる必要があるのです。

長い目で見て良いと思われる活動

充足と快楽について整理します。

快楽:
不足している状態から平常状態に回復するためのスキルのいらない気持ちのいいものであるが、歯止めが効かなくなりうるもの

充足(楽しみ):
意識を対象に集中させるというスキルによって引き出せれる独自の喜び、それによる自己の複雑化によって得られる成長感や満ち足りた気持ち

ジョナサン・ハイトの整理の仕方を参考にしました。

充足について、もう少し詳しくみてみましょう。

充足は私たちにより多くのものを求める。充足は私たちに試練を課して、能力を伸ばすことを求める。充足は多くの場合、何かを達成したり、学んだり、改善したりした時にもたらされる。

ジョナサン・ハイト『しあわせ仮説』


これをチクセントミハイは、端的に「自己を複雑化する」ことで得られる楽しみ、と表しています。

この定義でいうと、ゲームに熱中している人は快楽ではなく楽しみを味わっているといえます。

集中し全力を出し切ってようやくできるレベルをクリアして、もっと難しいステージを目指すプロセスを楽しんでいるからです。

ゲームが長い目で見て良いと思われる活動と言えるかは微妙では?

と思う方もいるかも知れません。

しかし、世界トップクラスのプロゲーマーを見れば、ゲームで「快楽」をむさぼっている人と「充足」を味わっている人の違いがわかると思います。

より上達し、洗練されたプレイをするにはずっと画面の前にいてはダメなのです。食事や睡眠や肉体トレーニングを意識しなくてはならない。

いかがでしょう。

先に視点の高さという本質を押さえ、「欲望」と「理想」、「快楽」と「充足」という概念を獲得しておいたから、こんなふうに考えることが可能になっているのです。

ポジティブ心理学が教える目的の価値

ここまでで、長期的願望のために楽しみを見出すのがよさそうだということは押さえられたんじゃないかと思います。

これを裏付けるように、最近の研究で、長期的で社会性を含んだ人生の目的を持つことが一生涯を通して健康的に、かつ幸せでいるために重要であることが明らかになっています。

また、ある調査によると、社会貢献に関わる目的を抱いていた大学生は、その後年齢を重ねると成長、誠実さ、次世代育成への関心等、ウェルビーイング(身体的、精神的、社会的に良好な状態にあること)に関わる要素を備えていることが分かりました。

しかし、長い目で考えようと言われても、そもそも一生涯かけた目標だとか、全世界のためにできることだとか、そんなのイメージできないし、どうせ叶わないのに設定する意味あんの?

という疑問が生じた方もいるかもしれません。

私は今年のことを、そして自分だけのことを考えているので十分だ、というわけです。

もちろん、最初はそれで構いません。

でも、徐々に見据える範囲を広げ、より広範な状況に対処できるよう自己に磨きをかけていくことは幸せになるためにも大事なことです。

なぜなら、自分にとって意義を感じられる、自分だけの長期的ゴールがなければ、自己を評価するものさしを他人や世界に委ねることになってしまうからです。

誰かが作ったものさしとは、たとえば「お金持ちほど賞賛に値する」とか、「フォロワーが多い方がすごい」とか、そういうものです。

こういう外的な基準で自己を評価し、そこから得られる賞罰のために動く意味合いの方が強い場合、その行動はあまり健全な結果を生みません。

周囲の大人に叱られないためだけに勉強したり、部屋の片付けをしたりしてきた子は、一人暮らしを始めた時、うまく生活をコントロールできないかもしれません。叱られなければ何をやってもいい、という誤った信念をもってしまう可能性もあります。

複数の研究で、内的な願望に対してより、外的なゴール(経済的な成功、社会的に認められること、外見)に焦点をあてた場合に、自尊心の低下、薬物への依存、人間関係の課題が見られることが明らかになっています。

他の人が何を考えているかって、結局のところはわかりませんよね。そんなものを自己を評価するためのものさしにすれば、不安でいっぱいになっても仕方ないのかもしれません。

ポジティブ心理学創始者の夢

ここまでの章でちょいちょい出てきている幸せに関する心理学的な研究は、全部つい最近のものです。

というのも、こうした研究は僕が生まれる少し前の1998年、幸せを科学的に研究するポジティブ心理学というジャンルの学問が生まれてから始まったのです。

心理学といえば、元は人間のネガティブな面に焦点を当て“マイナスをゼロにする”ことに主眼が置かれていました。

そのため、人の「喜び」や「幸せ」についての研究はごくごく少数に限られていたのですが、悪いところばかり見つめるより、いいところを見つめ、伸ばそうよと提唱した方がいたのです。

それが、当時の米国心理学会会長であったペンシルベニア大学心理学部教授のマーティン・E・P・セリグマン博士。

彼のおかげで、幸せについて様々な研究が世界で進むことになったのです。

そんなセリグマン博士、現在は「2051年までに51%の人がFlourish(元気でやりがいいっぱいの様子)になることを実現する」という視点の高い目標をもって精力的に活動しています。これこそ、でっかい夢。

ポジティブ心理学の研究結果を踏まえれば、彼は今健康的で幸せに満ちた日々を送っていることでしょう。

欲望に応えるのは容易く、理想に進むには洗練がいる

長い目・広い視野で見て良いと思われる目標に向かって、自己を複雑化する楽しめる(充足的な)活動をしていこう。

というのが、
ここまでの内容をギュッと一言にまとめたものです。

なんでここまで長々と丁寧に整理してみたかというと、ともかく、理想と欲望を分けて考えることが、多くの人が幸せに生きていくための基本中の基本ツールになると僕が考えているからです。

特に、リーダーがこの欲望と理想の区分を持たなければ、待っているのは中世のキリスト教社会のようなものになるでしょう。下につく人たちがリーダーの欲望にふりまわされる社会なんてまっぴらです。

それはさておき、大事な問題がまだ片付いていません。

最初の方で述べたように、僕らは情けないほどに欲望や快楽に弱いのです。

というより、欲望の力が強すぎるのですが、これにどう対処するかについてはまだ解像度の低いままです。

成長以前に、そもそもダイエットや筋トレ、勉強や貯金を続けるのがいかに難しいかを思い出してみてください。

大局的・長期的な視点からくる願望、すなわち理想は、成果が出たり違いが見えてくるのに時間がかかり、達成の難易度が高く、しかも維持が難しいといえそうです。

理想に進むには、自己を洗練する必要があるのです。

そんなのお手上げだ…と思うかもしれません。

しかし、僕らは小さい頃からそれをしてきているのです。

赤ちゃんの視点は、どう洗練されていくか?

僕ら人間の人生は、最初はすごく狭くて低い視点から始まります。

赤ちゃんにとっては、自分が世界の中心であり、他者と自分を区別することすらできません。すべてが新鮮な赤ちゃんにとっては、その日のその瞬間ごとが見通せるすべてなのです。

時を進めましょう。

少し成長して、わずかに単語がしゃべれるようになっても、赤ちゃんはまだ相手の視点に立つことさえできません。

表からみれば赤色で、裏から見れば青色の紙を見せ、赤色の側面を見せて「僕には何色が見えているでしょう?」と問いかけても、彼らは正しく答えることができません。

ところが、そう時間の経たない間に、彼らは他者の視点を獲得します。視点が上がっているのです。

このように、僕らはだんだんと意識や思考を洗練させ、赤ちゃんから見ればはるかに高い視点を獲得できています。言い換えれば、次第に長い目で、広い目で考えることを覚えてきたのです。

だから、よちよち歩きの頃に比べれば、劇的にできることが増え、視野の広がりと共に選択肢が無数に増え、独自の美学・哲学を構築することさえ始めています。

もちろん、高い低いというのは相対的な概念なので、視点の高さにはどこまで行っても限りがありません。

なので、今僕がどんな視点を持っていたとしても、さらに上、つまりもっと包括的でいろんな物事をうまく説明し、対処できる視点は存在します。

視点が上がっていく、つまり意識や行動の洗練の過程は、ある程度までは年を重ねるのと同時に、自然に進むのかもしれません。

が、どこかの時点でその先へ進めるかどうかは個人の努力やあるいはセンスにかかってくるような気がします。

洗練とは、何か。超えて含むという概念

「視点が高い」とは、単に別の価値観にたどり着いた、というのとは違います。

ケン・ウィルバーの言葉を借りますが、一つ高い視点はそれ以下の視点を「超えて含んでいる」のです。これは、原子と分子の関係に似ています。

分子が原子を含んでいることはわかりますよね。分子と原子の性質が違うこともわかるかと思います。その違いは、原子の性質を単に拡大、倍増させたものではありませんよね。つまり、分子は原子の集合としての性質を超えています。超えて含んでいる。

もう少し違う例を考えます。赤ちゃんがまともに言語を扱えたとして、僕らにこんなことをいうのを想像してみてください。

「僕には、君が見えている。だから、君にも君が見えているんだよ」

これは、赤ちゃんに他者の視点がないことによる発言です。でも僕らは、他者にも視点があり、別の世界を見ていることがわかっている。

僕らは、赤ちゃんのように自分の視点を持っていますが、それを含んだ上でそれを超えた別の視点で考える目ももっているというわけです。

さて、もし赤ちゃんと同じ視点の人しかいなければ、社会はどうなるでしょう?

おそらく、僕らの生活はもっと争いに満ちたものになるはずです。何せ、分かりあうということがないのですから。

逆に言えば、視点が高い場合、それより低い視点と比べれば、より広い場面でより建設的な議論を行うことが可能です。

とはいえ、これは言うは易く行うは難しです。

なぜなら、欲望に応えるのはあまりに容易く、理想に進むには洗練がいるからです。つまり、より低次の視点から見た解決策に安易に飛びつきたくなる誘惑が常にあって、僕らは気を抜くとすぐそちらになびいてしまうわけです。

そういう意味で、「視点を高く」というのは単に「気の持ちよう」というレベルの問題ではありません。それを含んではいますが。

赤ちゃんと同じ視点に立っている人であっても、「僕は人の気持ちも考えて動いている」と言うことはできるのです。

このように考えるとナイーブな気持ちになるかもしれませんが、諦める必要はありません。

僕らには、これまでの歴史が積み上げてきた経験値と科学の積み上げてきた知恵があります。それによれば、僕らはどうやら欲望とうまく協調し、理想へと意識や行動を洗練していく道があるようなのです。

というか、誰だってたまにはダイエットや自己成長のために行動できる日があるわけで、すでにその感覚は持っているはず。

その感覚をもう少し上手く扱えるようにしようというだけなのです。

次回の内容

noteとしてはかなり長い内容でしたが、お付き合いいただきありがとうございました。スキ・フォロー・コメントをいただけたら嬉しいです。

さて、次回ですが、今内容を考えているところです。

今回の話で核の部分は伝えきったと思うので、ここからだんだんと話を具体的なものに持っていくつもりです。

習慣化の仕組み、フロー体験、コーチングで言うゴール設定などが、次回の中心的な話題になるでしょう。同じサムネで、#2ってついてる記事があったらそれが次回の内容です。

もっと日常で使ってみやすい内容になるはずですので、よかったらまた覗いてってください。


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