週15時間労働の時代が来ると予想されて100年が経ちそうなのに
世界恐慌が勢いを増す1930年の夏、イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、 マドリードの講演会で、奇抜な持論を語りました。
講演のタイトルは「孫の世代の経済的可能性」。
彼の主張はこう。
政治家が「破滅的な間違い」を犯さない限り、100年以内に西側諸国の生活水準は、1930年の生活水準の少なくとも40倍になる。
その結果、2030年を生きる人々の労働時間は、週にわずか15時間になっているはずだ。
それにより、人類はかつて経験したことのない最大の難問に直面するだろう。膨大な余暇をどう扱うかという難問である。
というわけで、前回に引き続き、今回も「労働と余暇」をテーマにつらつら書きます。
<なぜ週15時間が実現しなかったか?>
ケインズのような予想は、決して珍しいものではなく、むしろありふれていました。
ベンジャミン・フランクリンやカール・マルクス、ジョン・スチュアート・ミルといった知の巨人たちも労働時間の縮小を予想しています。
それくらい自明のことだったとも言えるのかもしれません。
実際、僕らの暮らしは過去類を見ないくらい便利でぜいたくになっています。今先進国で一番貧しい人ですら、200年前のもっとも豊かな人よりは快適な暮らしをしている。
にもかかわらず、僕らはもっとお金を欲しがり、そのために長く働き、お金で手に入れたものにはすぐに飽きる、という奇妙な暮らしをしています。
なんでこうなるのか。
原因は、僕らの余暇の使い方が下手すぎるからではないか。
それを裏付ける有名な法則があります。
<時間があると、時間をかけてしまう>
なぜ、100年前の予想とは裏腹に余暇の時間は増えなかったのか。
それは人間がつい囚われてしまう次の法則があるからではないか。というのが僕の考え。
その法則というのが、パーキンソンの法則。
パーキンソンの法則は、第一と第二の2つあり、それぞれ
第1法則:仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する。
第2法則:支出の額は、収入の額に達するまで膨張する。
これをわかりやすく言い換えると。
第1法則:30分で終わるはずの会議も1時間で設定していると、1時間ぎりぎりまでかかってしまう
第2法則:収入が増えたはずなのにその分支出も増え、お金がまったく貯まらない
となるでしょうか。身に覚えのある方もいらっしゃるかと思います。
これを踏まえると、大学は必要なことを教えるためにではなく、授業時間が90分だから90分を使っているにすぎず、会社は欲しい成果のためではなく、8時間あるから8時間仕事をさせているのかもしれない、ということです。
<ムダ遣いしない買い物から考える>
僕らがパーキンソンの法則を回避できないのは、目的がはっきりせず、やること/やらないことを漠然としか決めていないことが原因のひとつです。
買い物に行くことを考えてみてください。
「夕食に豆乳鍋を作るため、紙に書いたこれこれの材料を買う。それに必要な額だけ持っていく」と事前に決めておけば、浪費はしないはずです。
ここまで具体的に決めて、他の選択肢を意識の外に締め出していれば、スーパーにいても豆乳鍋に関係ない食材は目に入らないでしょう。
無駄なものに目移りするのに時間を使わず、そもそも意識しないから買えなかったものに後悔することもない。
結果、買い物で発生するストレスは最小限に抑えられます。
「いやいや、そんな買い物じゃ楽しくないよ」って?
たしかにそうかも。
それなら、やることそのものの楽しさが第一目的である活動は純粋に楽しめばいいのではないでしょうか。そうでないなら、きっちり決める。
窮屈な感じがするかもしれませんが、大丈夫。案外人は制限の中でも楽しみを見出せるものです。
というより、制限を自分で決めるのはゲームのルールを自分で決めることなので、意外と楽しめます。
この章をまとめると。
自分の目的を理解し、選択肢を絞ってそこに集中する。その方が結果として後悔も少なくなることが多い。ルールは自分で設ける方が楽しめる。
となります。
<ひとりシルバー民主主義か!>
やることを絞るという話をすると、「そうは言ってもねぇ」みたいな反応をされることがあります。
おそらく、選ぶことは他を捨てることと同義だからです。捨てたものをもう取り戻せないと思うと、怖くなる。
その結果、「いつか何かに使えるかも」とばかりに何でも手をつけ、選択肢のゴミ屋敷に住んでいる人がどれだけたくさんいることか。
たしかに、選択肢を絞るのは難しいことです。
ですが、ものと同じように、選択肢にも賞味期限やそれを意味ある形で機能させるために必要とするスペースがあります。
漠然と「いつか起こるかもしれない何かのため」していることは、今以降の人生でもっとも若い自分から、生きているかすらわからない未来の自分に時間を提供しているのと同じです。
もしあなたがシルバー民主主義(若者世代よりも高齢者の声が優先される政治)に問題を感じる若者であれば、そんなやり方にも疑問を持つべきでしょう。
当然、高齢者の声は尊重すべきですが、行き過ぎると若者の夢や活力が失われます。心の中、日本の人口ピラミッドみたいになってない?
<注意を向けたことが記憶に残る>
あなたのこれまでの人生で何がありましたか?
そう聞かれて答えるのは、間違いなく思い出せる記憶だけでしょう。
何を当たり前のことを、と思うかもしれませんが、重要なことです。
つまり、僕らにとって主観的な意味での人生とは、記憶から取り出せる経験の合計のことなのです。
であれば、豊かな人生というのは、経験の数を増やすこともそうですが(限界があるし、その限界の数も大して多くない)、それ以上にどれだけ深く味わえたかが重要になります。
深く味わう、とは何か。
身近な話にすると伝わるかと思います。
1分の映像を見て、それについて1時間自分の「経験」を語れる人と、世界を一周した感想を数十個ツイートして「感じたことを全部書き切った」という人。
どちらの経験が豊かと言えば、たぶん前者でしょう。
人は注意を向けたものしか経験できません。記憶に強く残るのは、より体験に集中できたことのみです。
心理学の世界では、完全な集中状態を「フロー状態」と呼んでおり、この分野の第一人者であるチクセントミハイ博士は、
と述べております。
自分の意図した対象に注意を向け、集中する術を持っているかが、人生(体験)の質を決めるのです。
<注意力も有限に決まっている>
注意を向けていないことは、起こっていないことと同じ。
という言葉を引用しましたが、とはいえ、時間と同じく、注意力にも限界があります。全部に集中するなんてことは土台不可能です。
それだけでなく、自分の注意を完全にコントロールすることは不可能だし、そんなことが仮に可能だとしたら、困った結果を招くことになります。
例えば、 考え事に完全に集中して道を歩いていて、自動車がやってきても気づかない。部屋で赤ちゃんが泣いていても、その声が全く耳に入らない。いずれも大問題です。
気が散るのは、僕らが生きるために不可欠な機能なのです。
気が散るのは、問題ではない。
では、本質的な問題は何かというと、「いつかの何かのために時間を有効に使わなければならない」という強迫観念です。
もしもその考えが真理なら、余命の少ない老人や病人は、「いつかの何か」を持たないために生きている意味がないことになります。
いや遺族のため、未来世代のためにできることがあるじゃないか、と思うかもしれません。
それなら、地球に巨大隕石がぶつかって来年にはみんな死ぬとしたらどうか。生きることに意味はない?
あるいは、時間スパンを何億年単位で考えたらどうでしょう。おそらく僕が何をしても10億年後の世界にはほとんと無影響です。
じゃあ、僕に生きる意味はないのか?
たしかに、宇宙にとって無意味なのは間違いないでしょう。
では、宇宙に対して意味がないからといって、僕が僕自身の人生に絶望するのがいいのか?
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「いつかの何か」に備えることはもちろん大事です。当然です。
約束は守るべきだし、体が急に動かなくなることに備えて貯金するのも大事。環境問題を意識した生活をするのも大事。
じゃないと仕事がなくなり、事態の急変は即死を意味し、地球が住めたものじゃない場所になるでしょう。
ですが、そもそもやることの結果がどうなるかは、誰にもわかりません。
万全を尽くしても悲惨な目に遭うことはあるし、ちょっとnoteに文章を書いただけで有名になることもあるのです。
しかも、「結果」というのは絶えず塗り変わるのです。人間万事塞翁が馬。何が「良かった」かは未来のどこの時点でかによって変わります。
悲惨な目に遭ったことが成功に繋がり、有名になったことが刺されて死ぬことに繋がることだってある。
結果について、運の要素は決して小さくない。それをコントロールしようというのは、実験とか、祈りにすぎません。クヨクヨする前に、「私って神だっけ?」って問うべきです。
<有意義な無意味にも時間を充てる>
「いつかの何か」に備えることは大事。
ですが、「いつかの何か」に備えるわけではない時間が無駄なわけではないことも同じくらい大事な教訓です。
無意味だけど有意義、ということはあり得るのです。
子どもの頃を思い出してください。
アリの行列を観察したり、友達を秘密基地を作ったりするときに、「生産性がないなあ」なんて悩まなかったでしょう。
これはすごいことです。
無意味だけど有意義な、すること自体が楽しみな活動こそ、僕らの生を充実させる可能性を示している。
つまり、結果をコントロールできなくても、何かをやることに価値を感じることはできるのです。僕らはもっと、結果に関係なくやりたいことに時間を使う習慣を持った方がいいのかもしれない。
ですが、僕らはいつからか、余暇すら仕事の生産性アップのために有意義に使おうと考えるようになってしまっていたのではないか。
はい、やっと「労働と余暇」っぽい話に戻ってきました。
<与えられた締切とストレス>
最初の方で話したパーキンソンの法則を考えれば、会社の生産性を高めるには、ちょっとキツイくらいの納期で仕事を任せる方がうまくいきます。
何せ、30分で終わるはずの会議も、1時間で設定していると1時間ぎりぎりまでかかってしまうのでしたよね。
しかし、そうだったとして、なんでもかんでもきつい締め切りがあっては、心身を壊すレベルのストレスがかかってしまいます。8時間ずっと張り詰めているなんて、不可能。
それだと結局、生産性が落ちてしまいます。
であれば、仕事を与える場合は、報酬は増やしつつ、労働時間はより短くするというのが合理的かもしれません。
これを100年くらい前にやったのが、前回取り上げたヘンリー・フォードなのでした。
しかし、騙されてはいけません。
どうして会社の生産性のために人間が時間の使い方を決めないといけないのか。順番がおかしい。
お金のための仕事はあくまで人生の一部であって、人生の豊かさを作るものはむしろ経済活動の外側にある営みでしょう。
さっきの有意義で無意味な活動などですね。
たとえば、家族や友人と過ごす時間やボランティア活動に参加する時間、
趣味に費やす時間や、自然の中で過ごす時間など。
こうしたプライスレスな時間は、それをしている時間そのものが価値なのであり、その価値は、明らかに過ごすためにかけるお金に比例しません。
僕にとっては、読書や人の悩み相談に乗ること、考えを記事にすること、ワクワクする企画を考え人に協力してもらうよう促すことなどが、結果に関係なく、やりたいからやり続けることに当たります。
<仕事の中毒性について>
仕事とやりがいについてもう少し考えてみます。
仕事をやめない大富豪のことを考えてみましょう。
ある人が大富豪になった後も仕事を続けるのは、働くのが楽しいからでしょうか?そう思う方もいるかもしれません。油断ならない相手と交渉をするスリルが、日常の経験よりもはるかに刺激的だったのではないか、と。
「だがそれは違う」とビル・パーキンス氏はいいます。
その人は、 「単に働くことが習慣になっていただけ」で、「10代の少年が女の子にモテたいがためにタバコを吸い始め、その後も禁煙しないのと同じ」く「中毒になり、その習慣を止められなかった」だけだと言うのです。
彼は「必要以上に稼ぐために働くこと」を止めるのは難しいと述べています。なぜなら、働けば「金」という社会に公然と認められた形の報酬が与えられるから。
有名になれて、尊敬もされる(幻想かもしれませんが)。何より、いつか買いたいものが買えない不安が取り除ける。
だから、酒やタバコに比べれば、デメリットが見えにくく、中毒になりやすいのです。
しかし、お金と時間の真実はこうです。
お金を稼ぐことだけに費やした年月は二度と返ってきません。あなたは二度と30歳の体にはなれないし、成人した子ども達が赤ちゃんに戻ることもない。
お金を回収することを考えなければ救えたかもしれない命も戻ってこない。
<これをできるのは、俺しかいない>
どんなに犠牲者を出そうとも、俺にはこの国のためにやり遂げなければいけないことがある。これをできるのは、俺しかいない。
そう言う人もいるかもしれません。
でも、冷静に考えて、そんなわけはないでしょう。
歴史の偉人たちは、上手く歴史の波に乗っただけであって、同じことを考え行動していた同世代の人は無数にいます。
彼らがたまたま、今、スポットライトを浴びていないだけです。
その程度のスポットライトを浴びるために、死ぬほど働いて、犠牲を払って、何かを成し遂げた時、何を思うのでしょう。
もう側にはいない妻や子どもや友人が夢の中に出てきて、こう言うのかもしれません。
「こんなものを手に入れるために私との時間を疎かにしてたの?」
<俺が一番お金を上手く使える>
あるいは、俺の方が世のほとんどの人よりお金を使うのが上手いから、俺にお金を集めたほうがみんな幸せになる。
そう言う人もいるかもしれません。
これだって、そんなわけがないことは誰にでもわかることです。
一人の人間が世界の90%の富を持つまで、分配を先送りにすべき、というのは馬鹿げています。
一人で何千兆円を持っていても、たぶんそれは数百年後まで使われないままになるでしょう。その人が自分のお金の9割を社会貢献に使うなんて決断するとは思えない。
歴史的に考えても、何か社会的に認められたリソースが一部の人間たちに集約すれば、始まるのは腐敗です。
かつてキリスト教世界で教会権力が腐敗したとき、彼らは大きく広がった貧困の真ん中で、莫大な財宝を蓄積しながら、 自分たちのことを「神の従僕の従僕」と呼んだのです。
今の一部の大富豪たちと何が違うのか。
<まとめ>
なぜ賢人たちが、将来週15時間労働が来ると予想したにも関わらず実現しなかったのか。
余暇を生み出すのも、使うのも下手だからではないか。
与えられた時間に合わせて仕事をずるずる伸ばす。
与えられたお金に合わせて支出を増やし、もっと欲しがる。
選択と集中を恐れる。
いつかの何かが心配で、貯金がいくらになっても満足しない。
そして、いつかの何かのため貯めたお金を残して死ぬ。
時間に予定を詰め込んで安心したくなる。
忙しいと言って、味わうことを忘れる。
何もしない時間、収入を増やすのにつながらない時間を怖がり、そんな時間を過ごす自分を責める。
仕事の中毒になり、挙げ句の果てに無限に稼ぐことを正当化する理屈を生み出す。だが、誰にとってもそれは望ましくない。
生産性のためにも、人生の充実のためにも、時間の使い方を見直すべきではないか。手始めに、労働時間を減らす方法を考えてはどうか。
結果がどうなろうとやりたいことを見つけ、したことを味わうための時間を十分に持つことが豊かさではないのか。
<最後に。信頼できる誰かと過ごす時間の価値>
仕事やお金を散々悪者扱いしたような内容でしたが、そう捉えるのは明らかに極端です。
一定のお金は生活に必要だし、仕事は人々にやりがいを与え、社会と繋がっているという共同体感覚を与えるために必要不可欠なものです。
ですが、働きすぎてはいけない。
仕事はどうしても、持続可能であるために生産性を求めます。
生きる意味を、生産性という瑣末なものに還元してはもったいない。
一番大事なものは、そういう論理の外にあります。
幸せの最大の要因は、人間関係。
自分がお金を持っていなかろうが、記憶をなくそうが、老いて元気な体を持っていなかろうが、それでも共に過ごしてくれる人が思い当たりますか?
人は、孤独には生きていけません。
これは単に伝統的な人生訓というだけではなく、心理学や脳科学の様々な研究が示していることです。孤独は、飲酒や喫煙より体に悪い。
一例として、様々な社会階層の人間を対象に、なんと75年にもわたって追跡調査を行った執念深いある研究では、良い人間関係が私たちの幸福と健康を高めてくれると結論が出ています。
良い人間関係とは、決して友達の数が多いとか、恋人がいるとか、そういうことではなく、「温かく、親密で、互いに信頼できる」相手がいるかどうかなんだそうです。
だから、幸せになるなんて簡単さ、といいたいわけではありません。
良い人間関係を築き、それを維持するのがかんたんではないことは皆さんもご存知でしょう。社交の天才でもなければ、仕事の片手間で、1日30分でちょちょいとやれるかは怪しいものです。
それでも、(良い人間関係を築くより簡単な)仕事をほどほどにしてでも、人間関係には、それを育むのに時間をかける価値があります。
<改めて参考文献>
これらの本、全部おすすめです。どれから読んでも刺激を受けられると思います。
読みやすさでいうと、2枚目のスライドの方がおすすめです。