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ゴダールと映画館Stranger〰映画が死ぬとかポストシネマとか言ってる場合じゃないんじゃないか?の巻〰

人はいずれ死ぬ。あたしもあなたも。そりゃ仕方ない。あのゴダールも例外じゃなかった。あたしが生きてる間はスイスでずっとスタインベック(編集台ね)いじり続けてるもんだと思ってたので、少なからずびっくりした。
ゴダールも人の子だ。そりゃ死ぬときゃ死ぬ。昭和五年生まれだし。

彼の死がニュースになる前から、菊川に新しい映画館がオープンすることを知り、そのこけら落としがゴダールの80年代90年代作品を中心に6作品となかなか最近観ることが出来ないプログラムだったので、全作品のチケットを買っておいた。なんたる偶然。
というわけで彼の死から三日後久しぶりにゴダールをスクリーンで観るべく菊川へ向かった。隣町の森下にはお気に入りのお店があるし、東京都現代美術館も近いのでなじみのある町ではある。ただあたしの住む東京の辺境からは割と遠いのだ。追悼の気持ちとゴダールがスクリーンで観られる喜びで変なテンションになってしまい浅草にホテルまでとってしまった。レストラン大宮で久しぶりにご飯食べた。どうでもいいが。

レストラン大宮の殻牡蠣. プロヴァンス風オーブン焼

菊川の新しい映画館Stranger

映画館の名前はStranger。映画美学校一期生である岡村忠征が立ち上げた。一期生といえば清水崇、富田克也、安里麻里、大九明子など今大活躍の監督が多いし、監督以外では東京国際映画祭の矢田部PDも一期生じゃなかったかな?(間違ってたらごめん)
ってことはこの辺が名作『大いなる幻影』Barren Illusion(1999)監督:黒沢清のスタッフか。この映画についてはまた書く日がくるでしょう。デリダとマノヴィッチが一緒に映画作ったらこんな感じになるだろうなぁという映画。絶対観た方が良いよ。
Strangerの外観は一見ギャラリー?美容室?というお洒落さ、内装もスタイリッシュ。入口入ってすぐにコンセッションというかカフェのカウンターがあって、奥にテーブル席もある。ポレポレとかに比べるとこじんまりしてるけれど、とても居心地の良い空間だ。階段なしでそのまま劇場に入れるのが嬉しい。難を言えば入口がひとつしかなく、スクリーンの目の前にあるので、途中入退場はかなり厳しい。ちゃんとトイレを済ませて行きましょう。ただしロビーは混むので、あたしのおすすめは菊川駅のトイレ。改札出てStrangerと反対側の出口前にあるよ。割と綺麗。トイレの前にはコインロッカーもある。大きな荷物持っていくのが嫌な人は使ったら良いと思う。あたしはスーツケース入れといた。
座席はキネット・ギャレイ、音響も良くとても見やすい設計になってる。そりゃあのアテネ・フランセの堀さんが作ったんだもの。良いに決まってる。アテネの技術チームについては書きたいことが沢山あるんだけど、アテネ・フランセだけでなく、東京国際映画祭をはじめ色々な映画祭は彼らの力なくしては成立しなかっただろう。プリントと字幕の話を交えて今度書きますね。それはさておき、岩波ホール、飯田橋ギンレイホールの相次ぐ閉館、小倉昭和館の焼失と悲しいニュースの続くミニシアター業界に久しぶりのアカルイニュースだ。期待も高まる。

お花もたくさん来てた。何事かと思い立ち止まる自転車のおばさんに轢かれかけた。


何から観ようかな?

割と迷った。今回の上映は『勝手に逃げろ/人生』Sauve qui peut[la vie](1980)、『パッション』Passion(1982)、『ゴダールのマリア』Je vous salue,Marie/Le livre de Marie(1985)、『右側に気をつけろ』Soigne ta droite(1987)、『JLG/自画像』JLG/JLG-autoportrait de décembre(1995)、『フォーエヴァー・モーツァルト』For Ever Mozart(1996)の六本。順を追ってにしようかと思ったけど最後はどうしても『JLG/自画像』にしたい。割とどうでもいい『右側に気をつけろ』から観るのは嫌。ということで結局『フォーエヴァー・モーツァルト』にした。
さすがにオープン初日の初回ということもあって大盛況。カメラもムービーとスチールが何社か入ってたかな。
どきどきしながら上映開始。
予告編のあとベートーヴェンが鳴り響く(ちなみにベートーヴェンの最後のピアノ協奏曲だ)。「ああ、ゴダールの映画だ!ってかなんでモーツァルトじゃなくてベートヴェン?」ってなっている間に映画は走り出す。
しかもものすごいスピードで。
良く編集でリズムという言葉を使う。演出家はとても気を使うポイントだ。この作品はそのリズムが意図的に極限まで速められている。筋としては三つ、それらが観客の認識できない速度で展開していく。一見何やってるんだかよくわからない、モーツァルトも関係ないし。けれどおかまいなしに映画は続く。何かに似てる。
「なんだろう、あ、そうだモーツァルトに似てるんだ!」って思った瞬間に奇跡が訪れる。雑に言うとそんな映画だ。物語へのゴダールの新しい戦略である「物語をものすごい早さで駆け抜けることによって、物語そのものを内破させるの術」。物語を非物語的に語るにはどうすれば良いのか、という問いへの一つの答えだろう。
まぁ堪能した、堪能した。久しぶりに観たけどやっぱり傑作だなぁと感動し、劇場を出てパンフレット代わりの「ストレンジャーマガジン00一」(Stranger)を買い、森下のお気に入りのお蕎麦屋さん「京金」でおろし蕎麦をすすりながらパラパラと読んだ。そしてここからが本題。

半券の代わりのカード。日付が入っているのが心憎い。わかってらっしゃる。


映画の訃報は聞き飽きた ってか死んでないし

「ストレンジャーマガジン00一」の執筆陣は前述の岡村忠征、堀潤之、渡邉大輔、大寺眞輔、佐々木敦。うん、蓮實重彥とか浅田彰とかじゃないところに岡村さんが向かっていきたい方向性が感じられ好印象。その岡村文は後述するとして、堀、大寺はふむふむ、そうだよね、そう思うよ、あたしも♡、と概ね賛同。特に大寺は自身も常に観客へ映画を届けることを続けているので言葉に説得力があるし、自らの映画体験を基に日本の映画受容を語っており信頼している書き手。早いとこ早稲田あたりで教授になってくれ。
一方で佐々木、渡邉については問題なしとしない。特に佐々木敦。これがゴダールの追悼文になるなんてもちろん知らずに書いていただろうが、ぬるすぎる。あたしが編集者だったら「なんの冗談ですか?」って聞き返しちゃう。自分でゴダールレッスン受けてから出直した方が良い。
では佐々木文の何が問題か?

ゴダールはひたすらに「映画の終わり」に向き合い続けた。というよりもそれをエンジンとして映画を撮り続けてきた。彼の映画は常に映画史の、映画の終焉に立ち会おうとする強い意志(欲望?)に裏付けられている。終わりつつある映画の、いや、ひょっとするとすでに終わってしまった映画の立会人のようにして、ゴダールのすべての映画は映画史の中に存在しているのだ。

「映画は映画ではない」佐々木敦「ストレンジャーマガジン00一」2022(東京:Stranger)p.42

はぁ?である。続けて

ゴダールの映画は、映画の老化すなわち死=終焉へのプロセスに随伴しつつ、それぞれの時点での映画の終焉性ー終わりへと向かいつつあるさまーそのものを真の主題としてきたのである。

同書p.44

もちろん佐々木敦がこういう「大きな言葉」を多用する書き手であることは周知の事実だろうし、ファンは期待しているのは分かる。「新しい」小説のために小説を「再生」したりしちゃう人だからさ。あれさえなければ良い人なんだけどねぇって感じの佐々木節。でも炸裂させすぎ。
映画が死んでるかもしれないなら、もう映画批評きっぱりやめれば良いじゃん。事実やめてたじゃん。「音楽の方が向いてるよ、佐々木さん」って悪態のひとつでもつきたくなる。今月の文学界でも深田晃司論ちゃっかり書いてますけど。
でね、あたしの反論。まず映画を進化論的に捉えている時点で論外だとあたしゃ思うよ。映画とは映画作品、映画産業・テクノロジー、観客の受容、映画についての言説が折り重なる重層的な「場所」なわけ。
例えば

しばしば言われるように、またメルロ・ポンティ自身が言っていたように、映画は現象学的な芸術なのである。しかしながらこれは客観的な決定因があってはじめて成立するのである。観客の自我の位置は、映画と全ての知覚に備わっている本質との奇跡的な類似から発生するのではない。それは逆に制度と心的装置の特徴によって予見され、印づけられている。

Christian Metz Le signifiant imaginaire(Paris:Christian Bourgois Editeur 1993) p.75.
コオニユリ訳

メッツ先生がここで言っていることは、映画とは何か?とか映画はいつ死ぬか?とかっていうマニエリスム的本質論が論拠としているモノは映画というメディアそのものに先験的に内在してるものではないということ。フーコーのエピステーメと同じような概念として映画的制度というものを考えましょうねということ。ゴダール本人も

これまでにつくられているべきで、しかもこれからも決してつくられそうにない唯一の映画史は、映画の歴史ではなく、見られた映画の歴史、映画を観続けた観客の歴史です。(中略)はっきりと具体化されるとすれば、そこにはつねに、二つの極と、その二つの極の間の、映画という指針が見いだされるはずです。だから、つくられるべき真の映画史は、グリフィスはどういう時代に生まれ、どういうものをつくったのかという第一の極、『国民の創生』という第二の極、および、『国民の創生』を見た、当時の観客という第三の極を含みもつことになります。ところが、これまでにつくられたいくつかの映画史には、第一の極しかないのです。やっと第一部ができたにすぎないのです。おまけにその語り口ときたら!

Jean-Luc Godard Introduction à une véritable histoire du cinéma(Paris:Edition Albatros 1980)
『ゴダール映画史(全)』奥村昭夫訳(東京:ちくま学芸文庫 2012年) 380頁

つまりね、佐々木のようにシンプルに映画史を捉えちゃうと、どうしても複雑な映画という芸術を捉え損ねてしまう。進化論的に映画なんて発展するわけないじゃん。複雑なものは複雑なわけ。あと映画が死ぬってどういう意味なのかいつも分からない。映画を誰も観ないし、誰も作らないってこと?歴史的な役目を終えたってこと?映画の歴史的な役目ってそもそも何?
今日いまだに映画は観られてるし、作られている。それが何を意味しているのかという、とってもとっても倫理的な問いが欠如している。そしてその倫理こそがゴダールがこだわった点であるとあたしゃ思うんだけど。「映画は映画ではない」じゃなくて「映画は映画である」なのよ。

一方で技術、テクノロジーというのは進歩する。当たり前だけど。映画の技術も例外ではない。(これを逆手に取ったのが『NOPE ノープ』Nope(2022)監督:ジョーダン・ピールだったと思うんだけどそれはまた今度書くね)
で今度は渡邉大輔の話。これもちょっとどうかと思う。
技術の話をする前に、まず「動物」のテーマの話なんだけど、だから何?って思うのはあたしだけかしら。おそらくアズマックス(東浩紀)の動物化や本人もこだわってる人間が絶滅しても映画は残るか問題(あたしゃどうでもいいよ、そんなことは)に引っ張られてるんだろうけど無理筋でしょ。で、そのゴダールにおける動物というテーマのルーツが80年代の作品群であるという仮説を渡邉はたてているんだけど、そうかな?
たとえば『女は女である』Une femme est une femme(1961)でアンジェラが絵葉書を見せながら言うセリフ「この絵の動物になりたいの」の方がよっぽど示唆的だと思いますが。
話が逸れた。渡邉は特に日本映画に於いてなんだけど、かなりの本数をしっかり観てていつも感心するし、文章も面白くて好きな書き手なんだけど、理論的に破綻することが割とある気がする。
この文章の中ではないんだけど、ニューメディア研究の文脈で技術決定論(技術が進化することによって文化や社会構造が決定されちゃうっていう単純な還元主義のことね)を批判してるんだけど、当の本人が技術決定論に陥っていることが多々ある気がする。特にMCUについての論考とか、Goproなりドローンなりプレヴィズなりテクノロジー礼賛!と読めてしまう。
で今回の渡邉文なんだけど、まず一点目の違和感。渡邉の論点として映画内映画、つまり映画を撮影しているプロセスを撮影してそれを映画作品とすることがゴダールの作品の大きなテーマのひとつで、現代のメディア論的に意味があることだと言う。

ある作品の制作プロセスそれ自体が「見える化」され、しかもそのプロセスが作品の内部に組み込まれるという構造は、SNSや動画サイトが生み出す今日のデジタルコンテンツや文化事象の最たる特徴のひとつである。(中略)ゴダールが描く「映画内映画」のモティーフは、人間から遠く離れた、きわめてデジタル的なパラダイムに相即するものでもあるのだ。

「動物、オブジェ、舞台裏ー八〇・九〇年代ゴダールをめぐって」渡邉大輔 前掲書 26-27頁.

そんなことはないでしょ。敢えて無視してるのか、本当に知らないのか分かりませんがいっぱいあるでしょうよ、そんな映画。それこそゴダールとトリュフォーが完全に決裂した『映画に愛を込めて アメリカの夜』La Nuit américaine(1973)だってそうでしょ。理論的に『アメリカの夜』と『パッション』の違い説明できるのかしら?あたしゃそこはあんまり重要じゃないと思うんだけどね。
で二点目。渡邉のこだわりポイントは、90年代に『JLG/自画像』で液晶ビューカムのモニタを登場させてたり、『ゴダールの映画史』Histoire(s) du cinéma(1998)が動画サイトのマッシュアップを思わせるなどデジタルへの目配せを早くからゴダールはしていた、という説。渡邉の主張するポストシネマ的な要素をゴダールの作品群は持っているということね。
まぁ言わんとしていることは分かる。
その上で渡邉はこう続ける。

思えば『パッション』の活人画は、中世の典礼劇に端を発し、その後十九世紀の写真術の誕生によって再興されたが、それは幻燈やコミック・ストリップといった映画以前の視覚文化(スクリーン・プラクティス)のひとつに組み込まれていた。いわばゴダールは、プレシネマと構造的に通底する現代のポストシネマのメディア環境のなかで活人画を「再演」して見せたのだ。

同書27頁

ここはちょっと映画史的なおさらいになってしまうんだけど、いわゆる物語を重視する古典的な映画様式が誕生したのが1910年代中頃と言われているのね。「古典的ハリウッド映画」あるいは単純に「古典的映画」と呼ばれている。で、その前までの映画ってあまり研究されてこなかったんだけど、1978年にブライトン会議っていうのがあって、古典的ハリウッド映画の様式を逸脱した作品群がすごいぞ!!ということになって「初期映画」として研究が一挙に進んだ。その中でも注目されたのがトム・ガニングが提唱した「アトラクションの映画」という概念。単純に言うと映画の見世物性、つまり映像の向こうにある物語ではなく、非物語としての映画の魅力=アトラクション性を再発見した。
で渡邉が言っているのは、この初期映画及びそれ以前の視覚文化が持っているアトラクション性=プレシネマの魅力を伝えることを、デジタル的な映像と映画内映画という現代的な演出=ポストシネマを先取りする形でゴダールはやってのけた!という結論に至る。
であたしのオブジェクション。
まず、映画内映画が特段珍しいことじゃないのは述べた。
次にマッシュアップやスクリーン内スクリーンが果たしてデジタル的な環境なのか?ってこと。
「ヴォルカピッチ」っていう専門用語があるんだけど、スラーコフ・ヴォルカピッチっていう特殊効果の人が発明したワイプ、ディゾルブ、スーパーインポーズなどの効果を使って物語を要約したり、場面転換をすることね。これは古典的なリアリズムから言うと、本当は邪道なんだよね。装置が現前化することによって物語から観客を疎外してしまう(要は、「あ、今私は映画を観ているんだ」って気づかせちゃうってことね)から。でもね流行ったの。いまだに使われてるし。しかもこれが確立したのが1920年代。
つまりあたしが何を言いたいかといえば、渡邉が主張するポストシネマ的な映像表現の中でのプレシネマ的な見世物要素(非物語的な映像表現)っていうのはほかならぬ古典期にすでに確立してるし、当たり前のことなんだよね。何もゴダールだけじゃない。プレもポストもなくてシネマなのよ。


読み込みすぎて表紙がボロボロになっちゃった。また買いに行きます。

じゃあコオニユリはゴダールの何が好きなの?結論のようなもの それは・・・

批判ばっかりしちゃったよ。佐々木さんも渡邉さんも好きですよ。ほんとは。ものによるけど。佐々木さんからは音楽でとっても影響を受けてるし、渡邉さんからは日本映画の新人について多くを学んでおります。
あたしがゴダールが好きなのは先にも少し述べたけど「複雑なものを複雑なまま」捉えようとしていること。
だから一見分かりづらいんだけど、この世界の方がよっぽど分かりづらいんだよね。その分かりづらい世界へ映画を使って本気で向かっていこうとする。良くへそ曲がりだとか底意地が悪いとか言われるけど、とても真摯に映画と世界に向き合っている人だったと思う。
一言で言ってしまえば「愛」の人。そこが本当に好き。

社会主義的な社会というのは、ここ(西洋)のある場所の子供たちの、ものを見たりものに触れたりするやり方が、中国の子供たちやほかのどこかの国の子供たちのそれと一致し、かれらが一緒にある種の日々の生活をつくりだすことができるような社会でしょう。それにまた、人間どうしの間の関係も、そうしたものであるべきでしょう。言われたことをもとにして立てられた人間関係からは、そうした関係は生まれないのです。だからそうした人間関係については、語るべきことはなにもないわけです。われわれには、あるべき人間関係を思い描くことができるだけなのです・・・・・・
愛のなかにも社会主義のいくつかのモーメントがあるはずです。つまり肉体の労働が・・・・・・二つの肉体の互いの労働が、言葉を必要としなくなる瞬間というものがあるはずです。あるいはまた、ある種の動きを引き出すための言葉を必要とする瞬間というものがあるはずです。もっともそうした瞬間をつくるというのは難しいことです。
そして私は、そうした瞬間を映画のなかでつくることを必要としています。

Jean-Luc Godard Ibid,.381-382頁

そして

映画とはそれ自身の愛であり、生命の愛であり、地上に生きる人間の愛なのです。間違いなくそれは福音にかなったものです。(中略)どのようなものであれ、愛の無い映画作品など存在しないのです。

Jean-Luc Godard 1983年の記者会見での発言
Jean-Luc Godard, Dieu et la religion Le Monde 2022-09-18 コオニユリ訳 中略ママ

 

ようやく岡村忠征のテクストと向き合う準備が出来た。でも引用はしない。ここからはみんなが是非Strangerへ行って、ゴダールの映画を観て、「ストレンジャーマガジン00一」を手に取ってみて欲しい。そして岡村さんのテクストを読み、Strangerカフェで大いに語り合って欲しい。
ちなみにあたしは「京金」で読みながら泣いた。辛子大根が辛かったのもあるが、それだけではないと思うの。
映画館Strangerで、このタイミングで、しかもゴダールの作品を観ることが出来て、本当に幸せな気持ちになれた。ここにくるまで多くの苦労があったと思う。悔しい思いや、悲しい思いもしただろう。オープン初日に伺えて本当に良かった。
それもこれも岡村さんをはじめとするスタッフやクラファンで支援した熱心な映画ファンたちの「愛」のなせる業。

映画館Strangerは何かに似てる、とあたしは思う。
そう、他ならぬ「映画」に。

みんなの映画への愛に。あたしからも愛を込めて。
Thank you for your strange love from KOONIYURI

(了)
東京の辺境にて コオニユリ

今回紹介したモノ

お店・映画館

本・雑誌

  • 「ストレンジャーマガジン00一」(東京:Stranger) @Strangermgzn

  • Christian Metz Le signifiant imaginaire(Paris:Christian Bourgois Editeur 1993) https://www.amazon.fr/Signifiant-imaginaire-Christian-Metz/dp/2267016478

  • Jean-Luc Godard『ゴダール映画史(全)』奥村昭夫訳(東京:ちくま学芸文庫2012年)https://www.amazon.co.jp/dp/4480094318/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_7T95629BA00988N4AMF8

  • Jean-Luc Godard, Dieu et la religion Le Monde 2022-09-18 @lemondefr

映画

  • 『大いなる幻影』Barren Illusion(1999)監督:黒沢清

  • 『勝手に逃げろ/人生』Sauve qui peut[la vie](1980)

  • 『パッション』Passion(1982)

  • 『ゴダールのマリア』Je vous salue,Marie/Le livre de Marie(1985)

  • 『右側に気をつけろ』Soigne ta droite(1987)

  • 『JLG/自画像』JLG/JLG-autoportrait de décembre(1995)

  • 『フォーエヴァー・モーツァルト』For Ever Mozart(1996)

  • 『女は女である』Une femme est une femme(1961)

  • 『映画に愛を込めて アメリカの夜』La Nuit américaine(1973)監督:フランソワ・トリュフォー

  • 『NOPE ノープ』Nope(2022)監督:ジョーダン・ピール

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