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家では話せない集い−33のとき

(前話「33のとき」のつづき

ぽち☆は33のとき、掲示板の主宰者となった。
それは20おわりには自身の悩みの原因に答えを定義した事にはじまる。その定義が心は”もの(物)”と云うこと。

”もの”とは、そのカタチから扱い方を知り得もすれば、それを良くも悪くも自分しだいで使える。

そして、その定義した事が自分だけの思いか確かめるため掲示板で話した。掲示板を通じ会ったこともない、どこに住んでいるかも知らない、名前も知らない人たちとHN(Handle Name)という便利な仮名の仕組みを使い集うこととした。

掲示板の機能の一つに許可制サークルがある。
そのサークルの名前を『家では話せない話の集(つど)い』とつけてみた。

掲示板は単なる道具(もの)ではあったが、この掲示板には様々な思いを持った人たちが集ってきた。このサークル名にある「家」とは、夫婦・親子(かぞく)・カップルなど身近な人の関係を意味し、その関係だからこそ話せない話もあると想定し20人限定で募った。メンバーはすぐに達した。

その頃の掲示板には出会い系も多々存在し、例外なくこのサークル名を自分的解釈で参加希望した方の中にもいた。その目的が自分に合わないと知ると自然と去り、シン・メンバーへと枠を譲ってくれた。

そんなこんなで共通の趣味(わだい)は心に集中し、創設後の半年は主宰者の”心のカタチ”の話で独占してしまった。その甲斐あって”心のカタチ”は心をものと定義し合い、それぞれが”もの”のカタチを理解しだすとそれを自分のために扱い出すひともあらわれた。

会ったこともない、どこに住んでいるかも知らない、名前も知らない者どおし、インターネットを通じ”家では話せない話の集い”でネットを使った絆を形成したのです。

「躊躇とセキュリティ」

主宰者はメンバーに対し常々”自身が納得した”もの”をだけを自身の責任で扱う”ように促していた。それは自身や知人を悩ます原因が『いつも気持ち(こころ)にある』と納得できてこそ、心に振り回されない”もの”を自身が持てるからだ。

それは簡単な発想でそうしていた。紐は絡むとほどきにくくなる。無理にほどけば更に難く絡み込ませる。そんな絡んだ紐でも解(ほど)く方法がある。

悩みなども同じ複雑に絡んだ心(ひも)を無理に解こうとすれば、感情が難く絡ま込む。原因が気持ちであれば、その気持ちから解けば心もしだいに解ける。誰でもです。

そんな心を解くには”心を知る”が必須であり、助けとなります。学校でも誰にも習うことのなかった心は、自分で定義するか、”家では話せない話の集い”等を利用し知るのかです。そして、その心を知る事で自身の責任で扱えるのです。それが心の余裕となり自身のため使うのです。

心の余裕は使うためにあり、自身や知人の心紐解くためにも扱えるのです。それには原因を解消(いや)させなければ絡んだ心は解けないのです。

ただ、そんな話を主宰者がする家(サークル)であっても、話せない話がまだ存在すると主宰者は知らされたのです。
サークルとした限界がそこにあったのです。

「躊躇というセキュリティ」

人の心の奥底には最後の砦となる躊躇(かんじょう)を持ちます。それは心のセキュリティとなり理性にもなります。この躊躇は感情から半ば強制的に気持ち(こころ)を護る役目をします。

一般的なセキュリティは、皆さんも耳にするパソコンなどのウイルスに侵されないための防御が一例で分かります。それは信用するものしか通さない機能で責任が伴います。

そんなセキュリティにも弱点はあります。巧妙な手段で時に侵されもするのです。人の心も出来事(かんじょう)に心囚われないように躊躇しこころを護ってます。その躊躇を持ってしても、ひょうな出来事で心侵されるのです。

気の緩みかも知れませんが、一旦、躊躇(とりで)を通してしまえばその効力は失われます。

実はセキュリティだけで安心していては、大切なものを護り切る事はできないのです。侵された後を護るリカバリーがあってこそ、大切な”もの”は護られるのです。セキュリティはどんなに強固な施策を打ってもいずれ破られます。ある意味、イタチごっこな対策になってしまうのです。

リカバリーとは、その破られ侵された後の保証となり、侵された”もの”を復元し元に戻す安心になります。人は心を”知らない”がためこのリカバリーの術を持てません。そのため、躊躇という感情で防ぐ事に精一杯とさせるのです。

”君子危うきに近寄らず”
それは『教養(ちえ)があり徳(こころ)がある者は、自分の行動を慎むものだから、危険な(わからない)ところには近づかない(故事ことわざ辞典より)』だから、躊躇をしてしまうのです。

”サークルとした限界”には、幾ら定員を限定にしても、すべての人に自身のこころ許せる”もの”ではありません。サークルで”心を知る”事ができ絆を築き出し深めても、その知ったこころを複数で支え合うのは出来ないのです。

1人でもその信頼を崩せば総崩れする不安が伴うからです。それはリカバリーどころか躊躇という感情を強固に湧かす理由にさせるのです。

それに気づかせてくれたのはメンバーからのもう一歩踏み込んだダイレクトな語り掛けでした。最小単位の必要性です。

「最小単位」

人は常々、眼に見えるものを正とし、その正を見つめ過ぎて本質を感じることを怠ってしまう。

そんな正(かんじょう)を軽減させたのがインターネットを通じた掲示板でした。会ったこともない、どこに住んでいるかも知らない、名前も知らない人たちとネットから感じる”もの”をだけで集ったのです。

まずはHNで安心を促し『心の価値』を共感し合いました。そこに自身の悩みなどの出来事を投写し自身の心を紐解こうとしたのです。ただ出来るのはそこまでです。それでも一時的なこころの穏やかを感じ、吐き出した分は余裕となったのです。

ただ、その余裕はそのままにしては次なる感情が入り込むリスクとなります。他の何かを詰めなければ正とした感情が埋めてしまいます。

いくら”家では話せない話の集い”がこころを話す場としてあっても、その余裕すべてを埋め変えるには無理があったのです。

例えば、みんなで両手を広げあっても、どこに踏み込むか迷わせもし、誰も支える事が出来ません。それでは知らず知らずなパフォーマンスとなり、マスターベーション(自己満足)にさせてしまったのです。

”人”という字が左右の線を点で支え合えるように、もう一歩踏み込み接しないと気づけないのです。それには『心甘える』という接点が必要です。

躊躇を超えたこころとこころの接点が最小単位という平等が安心を感じさせるのです。

「心甘える」

恋(かんじょう)とか、愛(かんじょう)とかはとても大切な出来事(かんじょう)です。ただし、それは最小単位にはなれないのです。恋や愛はどこまで深めても感情であり、その感情は心のパワーを消耗させます。そのパワーはしだいに弱くもなれば覚めもするのです。

”人”という字は長さの異なる線が寄り添います。
例えば、その長さのちがう線を棒に例え支えれば、平等な重心でしか支えれないのです。それ以外はバランスを崩すと言うことです。

最小単位は人のこころの支え合いの単位です。それは複数の人では感情を伴いできなくさせるのです。ひとは同じ目的どおしの支え合いが必要だったのです。

それは必ずしも「家」とは限りらないのです。
「家」だからとしがみつけば、疲れもすれば感情も湧かすのです。

趣味や性格や思考、時には心を知るひと知らない人など、それぞれに最小単位が必要です。最小単位はひと組だけであるはずがないのです。こころは自分の”もの”、100%同じ”もの”を持つひとは存在しないのです。だから、同じ価値を持つものどおし平等を自然(ぴゅあ)で居られるのです。

「家」という特定の関係はとても大切な事です。ただ、「家」にこだわれば自身のこころの満たさない思いが目的の違う”もの”どおし、感情をつくり逆効果となるのです。一旦、その関係を無(ぴゅあ)にすることで躊躇を超え、こころ触れ合ってみると解ります。

ひとには”幸せになりたい”という目的があります。その”幸せ”を感じ合うには”家では話せない話”となる最小単位(つどい)があっても良いと云うことです。

それが”心甘える”こととなり、自然なこころの支え合いは疲れさせないのです。

「カミングアウト」

メンバーが”家では話せない話しの集い”でも言えない事(ちゅうちょ)をカミングアウトしてきたのです。何故、その人はそうしたのか。いや、そうしたかったのか。。。

それには”心甘える”ため、一歩を踏み込みたかったからそうしたのです。

それは相手に助けを求める訳ではなく、相手に相談するのでもなく、相手に聞いて欲しいのでもない。”家では話せない話の集い”の主宰者が心甘えれる距離に居ると知ったからです。

心を趣味とし、同じ心の価値を感じることでカミングアウトしたかったのです。それは、物事(かんじょう)に親身になって相談にのってくれる人や愚痴(かんじょう)などを聞いてくれる人とは違い、自身のこころが同じ価値で触れたかったのです。

そのメンバーというのは、鬱やDVやパニック、自○願望や○殺未遂等の方々でした。その一人ひとりとこころ触れ合って支え合ったのです。その期間はそれぞれ1年半から長くは3年半なりましたが7年間このサークルが存在する意味となりました。

そのメンバーは、その時を経て普段の生活に戻ったひとや悩みを持つ前の仕事に復帰して行くひとでした。今はそのサークルはありませんが、時折”家では話せない話の集い”が必要な人とサークルでなくても出会う事があり細々と今に至ります。その歴史(けいけん)が”心のカタチ”を熟させ、今もこのようにお話させていただいております。

私のカミングアウト”33のとき”でした。

それに気づかせてくれたメンバーがもう一歩踏み込んでくれたダイレクトな語り掛けが感じさせたのです。感謝です。

「あとがき」

人とは心を知らないがばかりに”世の中の当たり前”が感情を心に溜める癖を持たすのです。知らなかった心を知る事で、こころ接する心友(さいしょうたんい)を幾つも創れるのです。そのこころの触れ合いがしだいに自身の心を紐解かせ、悩みの元となっていた感情を一枚いち枚心から剥がせるのです。それは躊躇を超え、自身が経験しなければ知り得ないのです。それが心を自分の”もの”とし扱えうと云うことです。「家」では100%を話せないのです。その100%に満たせないこころ(はなし)に最小単位が必要と知る得るのです。
これからの人生をぴゅあに歩むべき秘訣です。
主宰者より

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