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木村敦
2023年2月3日 22:44
手袋すらつけていない指は、もうハンドルの感触を伝えない。突風でも吹けばあっという間にバランスを崩してしまうだろう。その拍子にチェーンが外れてしまえば、このかじかんだ手で直すことはもう不可能だ。 寒さは夜の町を覆って、この世界から私の居場所を奪うように、肌の表面から少しずつ浸食し、心臓にまでその手を伸ばそうとしている。こんな小さな折り畳み式の自転車では、どこまで走ろうとも逃げ切れそうにない。
2022年10月3日 23:29
くれなずむ空は薄雲を浮かべ、朱に藍に染めては散らす。渡る風は夏の残滓をすっかり浚って、路地の隅まで清澄で満たした。こうしていつまでも座っている、私の鼻先を金木犀が嘲笑う。今に冴えわたる月が現れ、心地よい寒気を降り積もらせるだろう。肌が湿っていくのを感じながら、私は瞼を閉じる。何も映さないその暗幕の中に、ずっと何かを探していた。そうしている間に過ぎた季節が、朝が、雨が、閃いては消えてゆ
2021年9月16日 17:30
風は湖面を滑る時のような冷たさで、私を一巻きして過ぎていった。その目指す先の彼方で、夕陽が今にも沈もうとしている。薄雲の張った西の空に、艶のない黒が押し寄せている。わずかに残った空色が、雲と夜と橙色で滲んでいた。それは黒い大地の片隅の、小さく澱んだ池のように見えた。せっかくの夕陽は、その澱みに落ちて濁ってしまう。濁りの膜の向こう側で、辛うじて輪郭を保っていた。落ちた果実が、水際でふや
2020年10月2日 23:46
その日は大きめの低気圧がやって来ていて、予報通り空は一日中暗い雲に覆われていた。数時間に一度、雨風が窓を強く揺らしては去っていくのを、私はずっと布団の中で聞いていた。 昔から空模様と体調が比例してしまう体質で、せっかくの休日に何も出来ないまま。それもあと四時間ほどで終わってしまう、という頃になってようやく布団から抜け出し、せめて空っぽの冷蔵庫をどうにかしなければ、と遅めの買い出しに出かけること
2020年9月17日 23:37
黄色い信号が明滅している、それだけの交差点をいくつも通り過ぎる。取り締まるべき車の流れなどとうにない。その下を早足で行く私にはまるで興味を示さない。私とて、その明滅に日中ほどの意味を認めないで、ただ足音だけを鳴らして過ぎる。 もうどれほど歩いた。先ほどまで身体を駆け巡っていたアルコールが汗と滲み、それをもう随分夏の夜に振り落としてきた。普段は車内から見るばかりの街路樹や花を、これほどゆっくり
2020年6月12日 17:15
「やあ、このようなところへ人が見えるとは」 愛想の良い初老ほどの男が、いつの間にやら私の脇に立ってこちらを見ていた。いくら川の音がするとはいえ、歩く音が聞こえないほど夢中になっていたつもりはない。自然、向ける目線には警戒の色が混ざったろう。「これは失礼した。物思いに耽っていて気がつかなかった。この辺りにお住まいの方かな」 向き直って見ると、男は白髪の混じった皺の深い顔をしており、膝丈ほどもあ
2020年2月24日 04:27
頬に冷たさを感じて、確かめる指先が湿った。いつの間にか寝てしまっていた、そして、目が覚めてしまった。 夢を、見ていた。開いた目に、瞼の裏と同じ暗闇が映る。少し前まで、この目に映っていたはずの光景は、もうどこを探しても見当たらない。狭いワンルームに圧縮された闇に締め付けられるような、そんな微かな痺れが、脳から手足の先へと伝っていく。 今頃になってもまだ、あんな夢を見てしまう。そしてその夢を、あ
2019年10月11日 17:39
どこやらで烏が鳴いた。頭上を黒い影が幾つか、西を目指して行くのが見えた。その後を追う温度の無い風の背を捕まえて、枯葉や蛾などが逃れるように西へ流れていく。 空が、呑まれていく。あれほど天を焦がしていた夕日の、その下に瓦を輝かせていた人家の、休耕田の僭主たる叢たちの、その全ての色彩を抜き去るほどの暗い夜がやってくるのが見える。 随分待ったものだ。空の果てに、その影を見つけた時からもう数時間が経
2019年9月23日 16:57
ああ、今朝が夏との境目なんだな。見上げた空の高さでそう気が付いた。どうして高く見えるのか、取り留めもなく考えてみる。やはり、雲のせいだろうか。夏の、あの豪快に絵具をぶちまけたような入道雲に比べて、今頭上にある雲は繊細に筆を幾筋も走らせたようで、全体的に淡い。この筆づかいが、秋の訪れを感じさせるのだろう。 きっとこの辺で、一番に季節の境目に気が付いたのは私だ。何しろ平日の朝からこうして公園のベ
2019年9月21日 09:43
隔世遺伝という言葉を知ったその日、なるほど、と思った。色々なことに合点がいきはじめた。脳を駆け巡ったのは、問題を解決した時の爽快感よりもむしろ、何か仄暗いものだった。この時、一つのジグソーパズルが完成したが、はじめから酷く歪な画だったみたいだ。 僕が、その隔たりだ。そう、思えば、納得が、いった。そう考えることをやめられなくなってしまった。年の暮れに一族が集まったあの席で、祖父が誰かを評して言っ
2019年7月6日 13:59
涙袋で水滴が弾け、思わず見上げた。今にも落ちてきそうな、重たい色をした雲が空一面に広がっていた。降りそうだな、という呟きに合わせて雨垂れが私の額で軽やかにステップを踏む。儀礼的に辺りを見回してみるが、この山間にあるのは田んぼと用水路ばかり。肩に提げた小さなカバンには読み終わった小説が一冊と目薬くらいで両手は自由だ。早くも周囲で木霊する、時雨の足音に対して抗う術はない。 当分はこの人影のない下
2019年6月18日 21:05
座椅子の上に積んだ本を目の前の座卓に置く。同じようにして積まれた本の山に手が当たって、床に崩れ落ちた。それを拾って置きなおすと、今度は時計が転げ落ちる。腹の底から熱を帯びたため息があがってきて、それを天井に向けておおげさに吐き出した。 最近、何もかもこんな調子だ。歩けばゴミ箱を蹴飛ばし、書類は指をすり抜けて散らばり、水筒は忘れる。その度に身体の中心に熱が蓄積される。心臓とか、胃とか、そういうも
2019年5月24日 19:18
鼻先を掠めた影を目で追う。眼鏡に手をかけた頃にはもう、ピントの合わない部屋の中へ滲んでいった。これで私の就寝時間は一時間は延びた。虫が苦手なわけではないが、自分の領域でぶんぶんやられると気になって何も手につかなくなってしまう。鼻の両側にかかる圧が均等になるよう片手で調整をしながら、部屋中をぐるりと見渡す。テレビや本棚の輪郭は定まったものの、真夜中の侵入者の姿は見当たらない。探し回るうちに自然と舌
2019年5月11日 20:22
長雨の下から出て傘を畳むと、頭上の山門が作る軒の下に水滴が落ちて黒いシミを作っていった。耳に染みついていたビニールの膜に雫が弾ける音がようやく遠のき、遠く山野を濡らす音が辺りに満ちている。傘を柱に立て掛けると腰掛け、鞄からライターと、久しく箱を開けてすらいなかった煙草を取り出した。 ジーパン越しに湿気が伝わる。腕の産毛の先まで満遍なく包んだ湿気が、煙草まで達していないかが気がかかりだった。もた