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木村敦
2020年4月30日 11:01
眠りの底から覚醒へと、ゆっくり浮上していくのがわかる。瞼の内側、波の無い水がわずかに白んで、私は朝が来たことを知る。一息、天井に向けて深く息を吐く。昇っていく泡のように静かなその音を、戸外の雨音が次々破っていく。遮光カーテンを閉め切ったままの室内、そこに留まる柔らかな暗闇が、私の身体を慈しむ。闇の膜の向こうで、雨がしきりに地を打つ音がする。屋根を、窓を、様々な音階で鳴らす。私は布団を頭まで
2020年2月24日 04:27
頬に冷たさを感じて、確かめる指先が湿った。いつの間にか寝てしまっていた、そして、目が覚めてしまった。 夢を、見ていた。開いた目に、瞼の裏と同じ暗闇が映る。少し前まで、この目に映っていたはずの光景は、もうどこを探しても見当たらない。狭いワンルームに圧縮された闇に締め付けられるような、そんな微かな痺れが、脳から手足の先へと伝っていく。 今頃になってもまだ、あんな夢を見てしまう。そしてその夢を、あ
2019年10月11日 17:39
どこやらで烏が鳴いた。頭上を黒い影が幾つか、西を目指して行くのが見えた。その後を追う温度の無い風の背を捕まえて、枯葉や蛾などが逃れるように西へ流れていく。 空が、呑まれていく。あれほど天を焦がしていた夕日の、その下に瓦を輝かせていた人家の、休耕田の僭主たる叢たちの、その全ての色彩を抜き去るほどの暗い夜がやってくるのが見える。 随分待ったものだ。空の果てに、その影を見つけた時からもう数時間が経
2019年9月23日 16:57
ああ、今朝が夏との境目なんだな。見上げた空の高さでそう気が付いた。どうして高く見えるのか、取り留めもなく考えてみる。やはり、雲のせいだろうか。夏の、あの豪快に絵具をぶちまけたような入道雲に比べて、今頭上にある雲は繊細に筆を幾筋も走らせたようで、全体的に淡い。この筆づかいが、秋の訪れを感じさせるのだろう。 きっとこの辺で、一番に季節の境目に気が付いたのは私だ。何しろ平日の朝からこうして公園のベ
2019年9月21日 09:43
隔世遺伝という言葉を知ったその日、なるほど、と思った。色々なことに合点がいきはじめた。脳を駆け巡ったのは、問題を解決した時の爽快感よりもむしろ、何か仄暗いものだった。この時、一つのジグソーパズルが完成したが、はじめから酷く歪な画だったみたいだ。 僕が、その隔たりだ。そう、思えば、納得が、いった。そう考えることをやめられなくなってしまった。年の暮れに一族が集まったあの席で、祖父が誰かを評して言っ
2019年9月2日 18:06
傾けた缶から落ちる液体が、その流れを絶やした。喉を過ぎるのはアルコールを含んだ吸気ばかりで、そのことが惜しくて堪らなかった。オンラインゲームに興じる隣人の声に邪魔されぬよう、あの壁の薄い安アパートの自室から三百五十ミリの僅かな楽しみをせっかく連れ出してきたというのに。 普段は人気のないこの坪庭ほどに小さい広場の前の路地を、場違いに騒がしい浴衣姿の一団が行き、発泡酒に余計な苦みを足して去っていく
2019年8月4日 22:28
「あの人はラガーでないといけんかった」 普段はあまり馴染みのないそのラベルを手に取った時、頭をよぎったのは祖母のそんなセリフだった。きっとこの盆の間にも何度か聞くことになるだろう。六缶入りのセットを持ち、レジへと向かう。祖父母の家に着いたらまずは一本を祖父に供え、残りはすぐに冷やさないといけない。 もうずっと、お盆といえば繁忙期だった。もう何年も盆、暮れ、正月には小売り業の末端として店頭に