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両腕を広げれば空も飛べる
近所の神社で焼き芋を食べていた。
私の目の前では子供たちが各々夢中になって遊んでいる。
二股に分かれた枝を使ってぐるぐると縁を永遠に書いてる人
落ちていた木の皮で小石をひたすら打ってる人
その辺に落ちているものでこんなに遊べるんだ、って結構衝撃だった。
そういえばわたしはわたしの満たし方を知らないなって思った。
なんとなく刺激が欲しくてSNSを見てしまう。
浴びることに慣れている。でも変な疲労
コミュニケーションは自分と世界の境目をつくることから始まるのでは、という考察
いつも知らない自分に出会っていく。
出会えば出会うほど、「じぶん」という器がどこからどこまでなのかわからなくなる。
自分と世界の境目がわからない。
そりゃ自分の身体の内側で起こることが自分でそれ以外が世界なんだけど、
身体からのメッセージを統合して受け取ってない感じがしているから、
わたしにとっては体の内側も世界の部分の一部って感じ。
身体を介して生まれてくる心も、身体から浮いてる感覚があるから、
現実と空想のはざまで
シャワーを浴びながら湯船を張ろうと思いついたのはふとした気まぐれだった。
この行き場のない気怠さを解消してくれるかもしれない。
何かを変えてくれそうな気がしたのだ。
お湯がたまる間、裸で浴室を掃除する。
洗剤を壁にかけてスポンジでみがく。現実と縫い付けるように丁寧に。
そうしながらわたしの身体は少し自由になったような気がしてきた。
掃除をすることは自分の痕跡をなぞり、こうしてこの世界に存在すること
浮ついた冷気 もう一つの解釈
ふと足元に感じる気持ちがすっとする涼しさに目を覚ますと、
目の前にはやわらかで絹のような空気に朧げに浮かぶ愛おしい人の後ろ姿。なだらかに上下し、続いてすやすやと息遣いが耳に届く。
ぼんやりと浸りながら、自らの頬をかすめるシーツが昨日までよりもやけにさらさらと心地よく感じる。
身が清められるような爽やかな涼しさに思わず熱を求めて、愛おしいその人の隣りに近づく。
一瞬、温もりが鼻腔をとおって身体に巡る
"死にたい"の裏側について
死にたい、消えてしまいたい。
漠然とよくわからない感情に支配され、意味もなくツイッターでネガティヴツイートを連投しました。死にたいとストレートで言うと、あいつ承認欲求の塊じゃんと思われそうなのでオブラートに包んで投稿しました。その時点でお察しです。
でもそれでもモヤモヤしたので、誰もフォローしていない鍵垢のインスタグラムで掻きむしった腕と共に80回くらい死にたいって書いて投稿しました。さっき開いた
摩擦係数0の世界-絶望の中の幸せについて
人はだれしも生まれながらにして詩を通して世界を描き、世界を通して詩を編む生き物である。
この世に生まれたばかりのころは、他者が分かるか分からないかは些末な事であり、取り立てて的にすることではない。
重要なのは詩であり、如何に自らの思い描いた世界を表出できるかである。
これはもう己との闘いであり、
表現そのものが生きることであり、どのように表すかだとかそれがどう見えるかだとかは一切気にしない。
自ら