摩擦係数0の世界-絶望の中の幸せについて

人はだれしも生まれながらにして詩を通して世界を描き、世界を通して詩を編む生き物である。
この世に生まれたばかりのころは、他者が分かるか分からないかは些末な事であり、取り立てて的にすることではない。
重要なのは詩であり、如何に自らの思い描いた世界を表出できるかである。
これはもう己との闘いであり、
表現そのものが生きることであり、どのように表すかだとかそれがどう見えるかだとかは一切気にしない。
自らの見える世界の美しさを追求する、そちらの方がよっぽど重大なのだ。
如何に自らの納得するものを表せるか。これに限る。
それがだんだん、誰がなんて言っただとか、評判があるとかないだとか、
そういうのを周りは僻んであまりに多くいうもんだから、
そういうことに気を取られ気にするようになってくる。
そうするとそれはもう大人の入口が出迎えている。
目に見えるものしか見えなくなり、詩は浮かばず、寄ってもこない。
自己の体を通してその後ろにある満ち引きのある生きた海原はもうすでになく、
段々と体は機械となり、頭は司令塔となり、そして命令に従う唯の我楽多になるのだ。
そうして自分の中の海原の満ち引きをさぼることを楽だと錯覚するようになる回数が多くなると、段々と錆びてくる。
それは初めはとても苦痛な事なのだが、段々とそちらの方が楽になる。
生きる力と引き換えに永らえる人間社会の部品の一部となるのだ。
そうなってしまえば、立派な大人の出来上がりだ。
生きることは楽しくはなく、しかし死ぬほどの勇気も気力もなく、
ただからだと心臓を動かすのみである。
気が付いたら八方塞がり、望みは絶たれる。いや絶たれるのではない、気が付いたら自らで断っているのだ。断って絶たれるのだ。
何が怖いってこうなると自らが絶望していることにすら気が付かない。
望みも特に浮かばず永らえていることがただ仕事があることが、幸せなのだとそう錯覚するのである。

私がこのように記しているのは消してこのような状態になったものを批判するためではない。かくいう私も、その一部なのだから。
しかし少し違うところは自らが絶望していたことに気が付いたことだろうか。
僅かではあるがこの違いは大きい。
今私は実験をしている。果たして絶望から欲望は生まれるのか。という事についてだ。
その結果がいかになるかはまだ分からぬ。わかった頃にまた記そうと思う。

2019.11.26 常望へと道をつなげる途中で。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?