「氷の音を聴いたことがある?」乗鞍高原で耳を澄まして
山と共に暮らすために
「着いたよ、乗鞍高原」と隣に座っていた友人に声をかけられてハッと目が覚める。松本から電車とバスを乗り継いで約一時間半、いつの間にかウトウト眠ってしまった。荷物をまとめてバスを降りると、風がひんやりとして気持ちいい。街とはやっぱり空気がちがうみたいだ。
「ちょっと冷たいもの飲みたくない?」と友人に提案されて、宿に荷物を置きに行く前に、バスを降りてすぐのカフェ「GiFT NORiKURA」に立ち寄った。ヤギのジェラートが気になるけれど、乗鞍高原に来る前に街でもジェラートを食べたばかりなので我慢……。
友人は自家製クラフトコーラ、私はアイスコーヒーを頼んだ。手渡されたドリンクにステンレス製のストローが刺さっていて、ふとカフェの中にゴミ箱が置いていないことに気づく。改めて店内を見渡すと、壁一面にチョークで描かれたメッセージに気が付いた。
自然と共に生きていくための取り組みの数々。テイクアウトでジェラートを買っていく人には、紙のカップではなくワッフルコーン。マイボトルを持参してドリンクを入れてもらっている人もいる。
アイスコーヒーは、乗鞍岳の湧水を使ってゆっくり水出ししたものらしい。喉が渇いていたのでごくごくと飲む。松本で、「湧き水で淹れたコーヒーはおいしい」と教えてくれたおじちゃんのことを思い出す。同じ豆でも、水が違うと味も変わるのかなぁ、なんて考えていたら、先にカップを返しに行った友人が「ねぇねぇ、ちょっとボトル貸して」と戻ってきた。
カフェの外に、給水スポットを見つけたらしい。
「松本の水、ちょっと残しておいて飲み比べたらよかったね」
「たしかに。でも違いわかるかなぁ」
なんて言い合って、宿に向かう。
一面の緑の中で耳を澄ませば
さて、日が落ちる前に高原の自然の中も散策したい。とはいえ、街歩き後の軽装での山歩きやハイキングは背伸びしすぎかも。
宿のロビーでマップを広げていたら、チェックインを担当してくれた宿のお姉さんが「それなら、一の瀬園地あたりまで歩いてきたらどう?」と教えてくれた。目印にと教えてもらったトレイルヘッドに行ってみる。トレイルヘッドとは、道のはじまりのことらしい。看板をみると、「JOYFUL WALKS」という、「歩く」を楽しむ周遊ルートがいくつかあることを知る。私たちが歩くのは、「一の瀬草原トレイル」という道のようだ。三角屋根の小屋をくぐって出発。
進むにつれて、だんだん人の数が少なくなってくる。車の音や話し声が聞こえなくなり、気づくとあたりが静かになっていく。
初めは二人で話しながら歩いていたけれど、なんとなくお互い口をつぐみ、黙々と歩く。
ふと目があった友人が、「自然の中って静かだなと思ってたけど、よく聞くと結構いろんな音がするね」と呟いた。鳥の声、風で木の葉の揺れる音、どこかから聞こえる小川のせせらぎ、そして、自分が息を吸って吐く音。たしかに、そこらじゅうからいろいろな音がすることに気づく。
まるで絵本の中のような世界で
30分ほど歩いて、「一の瀬園地」の近くの駐車場に着いた。車は一台も停まっておらず、周りには自分たちだけしかいない。立て看板を目印に、遊歩道の奥へ奥へと進んでいく。湿原のような「偲ぶの池」を超えた先に、「まいめの池」があった。
立ち止まって思わず息を飲む。まるで、絵本の中に迷い込んでしまったみたいな風景が目の間に広がっている。青々と茂る草木が風にそよいでいる。その先には、ぼんやりと雲がかかった山容。そして池の水面に、草木と稜線と空が映って静かに揺れている。「きれい……」と声が漏れていた。友人も、「ね、すごいね」とぽかーんとしている。
二人で池のほとりまで近づいて、池の水面を眺めてぼーっとしていたら、一匹の蜂が友人の肩に止まった。追い払っても追い払っても、また戻ってくる。
「もしかしたら、花と勘違いしてるのかな。今日の服、カラフルだもんね」
「たしかに。この辺り、一面緑色だからなぁ」
蜂を追い払うのは諦めて、草原にしゃがみこむ。足元に目をやると、見たことのない小さい花が咲いていた。「あ、それ知ってる。トラノオって言うんだよ。虎のしっぽみたいだから、トラノオ」と友人に教えてもらう。
よく見ると、池の周りにポツポツと同じ花が咲いていた。あたり一面緑色に見えていたけれど、花の名前を一つ知るだけで見える景色が変わってくる。
「氷の音を聴いたことがある?」
陽が落ちてきたので、暗くなる前に来た道を戻る。お部屋のベッドで一休みして、夕飯の時間。友人が予約してくれた「プチホテルアルム」は、自家菜園で育てた新鮮な高原野菜を使った料理が味わえる。前菜にサラダ、スープ、メインのお肉料理。そして季節のフルーツのタルト。一日歩き回ってちょっと疲れた体に、やさしいおいしさが沁みる。
周りのお客さんたちは乗鞍岳への登山がお目当てらしく、わたしたちより早めに夕飯を済ませていた。登山に向けて早朝に出発する場合は、ホテルでの朝食の代わりにおにぎりを準備してもらえるらしい。いつの間にか、食事をしているのは私たちだけになっていた。デザートを食べ終わる頃、さっきのお姉さんが皿を下げに来た、「お散歩、楽しめましたか?」と聞かれる。
「まいめの池に行ったんですね!きれいですよねぇ。私はのりくらで生まれ育ったんですが、子供の頃は一年中あそこで遊んでいたんですよ。」
遊び場がのりくらの大自然だなんて。「へぇ、贅沢な遊び場だなぁ」と友人が相槌を打つ。「お二人はどちらからいらしたんですか?」と聞かれる。そういえば、自己紹介がまだだった。のりくら育ちのお姉さんの名前はまゆみさんというらしい。まゆみさんは、下げようとしていたデザートのお皿を一度テーブルに置き直して、「お二人は、氷の音を聞いたことがありますか?」と私たちに聞いた。
「氷の音、ですか」
「えぇ。私が子供の頃は、冬になるとまいめの池は表面が凍ったんです。それでね、みんなでその上に小石とか、氷のかけらを滑らせて遊んだんですよ。そうすると、キュルキュルキュル……って、ほかでは聞いたことがないような不思議な音が鳴るんです。あの音、また聴きたいなぁ。最近は、池の表面が完全に結氷しなくなってきてしまって……」
氷の音なんて、考えたことがなかった。目で見ただけではわからなかったことが、その土地に暮らす人の話を聞くことでもっと具体的に浮かび上がってくる。「実は今、乗鞍の自然をテーマにした絵本を作ろうとしているんです」とまゆみさんが教えてくれた。
「話しすぎちゃった、ゆっくり休んでくださいね」と、まゆみさんはぺこりと頭を下げてお皿を下げてくれた。黙って話を聴いていた友人が「氷の音か……。どんな絵本になるんだろうね、読んでみたい。ねぇ、また違う季節に来てみようよ。一泊じゃ足りないや」と言った。自分もまったく同じことを考えていたのでちょっと笑ってしまう。
秋にはどんな花が咲いて、山の色はどう変わっていくんだろう。どんな匂いがして、どんな音が聴こえるのかな。冬の雪景色はどうだろう。私がのりくらで聴いた音を、まゆみさんに伝えてみたい。
Photo: 表萌々花
Model: Saki (Kita Alps Traverse Route PR大使)
Text: 風音