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【日記】感覚から感情へ、そして意志へ

大局を見失っていたことが、ほんの少しだけだが動きそうな気がする。

例えば、立場Aと立場Bがある。Aは、まだまだ新しい考え方。Bはトラディショナルで長らく良いとされていた神聖視されている考え方。Aは、Bの緩慢に縮小してゆくことを止めるために編み出された考え方という側面もあった。今まで私はBの立場になりたかった。だが、Bの中にいる他人たちのようにはなれないと思った。しかし、自分が暮らすところではBが幅を利かせていた。だから、私は自分が好きだったことや、やりたいことをここで実施することが、どうでもよくなりつつあった。どうせ、誰も賛同しないから協同もないだろうなと思うと、寝てた方が割がいいな、とエネルギーが消耗した。Bが幅を利かせている、自分が暮らしていくところで自分が好きだったことや、やりたいことをするには、Aの側に立って声を上げる他人が増え、少しでもBの立場の出している念波が薄められる方が都合が良かった。だから、Aの立場に立とうとした。だが、すぐに手につかなくなった。考えては苛立ち、考えては悲観し、考えては孤立感に打ちのめされ、を繰り返し、溢れる禍々しい感情や恥を打ち消すためにその都度その都度「疲れた!」と唱え、逃避のために何時間も寝た。

だが、昨日AとBに対する意志がはっきりした。頭の中でむちゃくちゃに詰め込んだものが繋がって、澱の底から浮上した感じ。

結局、Aに同化するのも嫌だしBに同化するのも嫌だ。Aをテキストにして自分でも補強として定義を付け足し、Bは記録し批判ではなく異化しよう。具体的に何をするかは、もう少ししてから明るい人に相談する。

話は変わる。

私には、イメージを移動させることが難しいようだ。着想から創作へ昇華させるとか、散文的な表現から詩的な表現へとか、象徴化(セネットの本であったような記憶がある)とも言える。私は着想寄り、散文的な表現が多いと思われる。象徴化、例えば形が似ているが用途や素材などが全く違うもののイメージを繋げることによってする表現は、少しは成功体験がある。イメージをあまりにも安易に使うことは、私が書こうとしていることには良い影響が少ないだろうし、「そのイメージってもう嘘だよね」って気づいている他人もたくさんいるだろう。だから、気づいているたくさんの他人を思い浮かべる。嘘になったイメージを観察して、その結果を描写するのはどうだろう。

違和感を始めとした感覚から悔しさや悲しさなどの感情へ、そして取っ掛かりとしてひらめいたことから意志になるまでの過程が、もう少し縮まれば良いのに、そうならない。その過程が長すぎると、意志について吟味、検討する時間とエネルギーが減るから。


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